普通になりたがる女

多くはないだろうけど知り合いに1人くらいはいるんじゃないでしょうか。

私もそのうちの1人です。
かっこいい男の子より可愛い女の子を見る方がときめきます。
恋愛的な意味ではなく、見ていて前向きな気持ちになれるのです。

でも私の場合は自分も可愛くなりたい!とは思いません。
あくまで可愛い女の子を見ていたい。

どうしてなんだろうと考えてみると、"女の子らしい女の子"を見て安心したいのかなと思います。

自分が多数派的ではなく、どこか違和感がある。
普遍的な言い方をすれば、「私って変だな…」という感覚。
広い世の中を見渡せば全くのオリジナリティのある変人ではないのだろうけど、世間一般に上手く交われない感覚がある。

そこで世渡り上手であればいいのだけど、そうやって上手くやれたと感じられる成功体験が圧倒的に少ないと思っている。
そうすると、あくまで主観ではあるけれど「普通になりたいのになれない」という葛藤をする。

「変じゃないよ」「普通だよ」と言われたいわけではない。
自分の中で納得ができていないわけで、周りからの評価は全く関係ない。
自分がどう感じるか、自分がどう受け容れるかという主観であり自分との戦いなのだ。

日常で何気なく知り合う女の子たち。
クラスメイト、友達、職場の人。
画面の向こうのインフルエンサーや芸能人など。
「あぁ、あの子可愛いな。私もあの子みたいに振る舞えたらいいのに。」と心の中で数え切れないくらい思う。

嫉妬ではないのだ。
「素晴らしい」という自分の中での評価だったりと前向きな気持ちだ。
強い気持ちで一方的であるため、なるべく表に出さないように自分を抑えている。

「普通って何?(普通なんてないよ)」というワードをそこそこ耳にする。
そんなことはわかっている。
「普通になりたい」なんて当たり障りのなさそうな言葉をチョイスしているだけで、自分が特別だとか思っていない。
周りに上手く馴染めていないという自覚に対するコンプレックスを便宜的に表現しているだけだ。
そうやって長く説明する意義がないと思うから、「普通になりたい」という言葉を選ぶ。

もしかしたら一方的な無い物ねだりなのかもしれない。
世の中には自分は普通すぎて嫌だとかつまらないとか思っている人もいるらしい。
私にはとっても羨ましいのだけど、多分そういう人たちは私のような人になりたいわけではないと思う。

「周りに馴染みたい、ある程度上手く振る舞いたい」というとっても普通でありきたりな感覚。
だからこそ、そこを乗り越えられない自分が歯がゆく、「どうして?」と自分に対し純粋な疑問を抱く。

極端な考えとして、人と関わらなければ解消される悩みではない。
社会性のある一人間として自分には乗り越えてほしい課題。
でも乗り越えられたと感じられた試しがない。

誰かには簡単なことかもしれないそれが私にはとっても難しいように思える。
大なり小なり誰しもが悩んでるとして、自分は?、私はどうなのか?
自分への目線が細かく厳しくなるにつれ、他者への目線も同様に厳しくなる。
嫌な連鎖だ。
そんな自分が尚更好きじゃない。

許したり受け容れたりということはなんて難しいのか。
そして深いことなのか。
「そんなあなたも素敵だよ」「それでもいいじゃない」と言われても無意味なのだ。
あくまで主観であって、そこに他者は存在しない。

「じゃあどんな言葉をかけたりどんな態度でいたらいいんだよ、面倒くさいな」と思う人はいると思う。
私は自分みたいな人がいたらそう思う。
自分が好きじゃないのに自分と似た他者を受け容れられない。

「どうしたらそんな自分を許せるの?」と1番自分が呆れている。
全く違う人間になんかなれないくせにいろんな顔を持とうとする。
そのいろんな顔の中に素の自分はないのか?
いつしか、誰かのコピーが上手くなったような気になっている。

でも自分以外にはなれやしない。
どこかに自分らしさが滲み出ているはずだ。
自分らしさってなんだ?
思い浮かぶのは後ろ向きな特徴ばかり。
自己受容さえできればきっとそんな想像打ち消せるのに。

自分が好きじゃない。
上手くやれている同性みたいになりたい。
彼女たちを見て一種の信仰みたいに一方的に強く素晴らしいと思い込んでいる。
こんな感情、絶対漏らしてはいけない。
思われている側はきっと危機感を覚えると思う。

でも時に口にしたくなる、「可愛い」という感情。
数え切れないくらい抑えてきた中の1回、「可愛い」。
自己顕示欲なのか、実は自分はこういう価値観だと打ち明けたくなる。

本当は物凄く素でいたい私は今日も女の子の普通を探している。

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