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板橋銀座の「月うさぎ」


高度成長期からバブルの時代、そのクラブのママは、
年収二千万園以上稼ぐという商売をしていた。

テーブル席12席に狭いながらもダンスホールがあった。
ダンスのお相手は、バニーガールである。
 普通、キャバレーでは、バニーガールは接客のみであるが、このクラブでは、接客もダンスの相手もさせていた。

店名「月うさぎ」のうさぎであるバニーから由来し、バニーガールが付く店という駄洒落である。

ボトルが五万円という高価格の設定である。
バニーガールは、ノンアルコールのカクテルを客から大量にねだるものだから、嫌でも売り上げは上がる。
売春も斡旋していたので、男客はそれを目当てに「月うさぎ」に大金をはたいた。
そんなバブリーなクラブが
板橋銀座に存在した。


そして、バブルははじけ、板橋銀座もすたれ、女の子も雇えず、ママはクラブをカラオケスナックに改装した。
ダンスホールはカラオケに合わせ、男女のアベックで、チークダンスを踊る場となった。
 カラオケスナックでは大きな売り上げもあがらなかったが、折からのカラオケブームに乗り、店は繁盛した。

時はすぎて、ママも年老いて
スナックの営業は無理と悟り
さらに営業を縮小して、昼間の千円カラオケ店とした。
 お一人様千円で、カラオケ歌いたい放題で、カラオケ常連さん相手のささやかな店と化した。
シラフの客相手で、ノンアルコールのドリンクは飲み放題
接客も無く、ただカラオケを楽しんでいただく事に専念するだけで、楽な商売ではある。
ただ、客が多いと、カラオケがなかなか回って来ないので
常連客も五人程度であった。
1日の売り上げが五千円では
生活が苦しい。
倹約して生活するしか道は残されていないのである。

クラブ時代の事は、ママにとっては、遠い思い出でしか無い。


ある日のこと、初顔の男客が飛び込んできた。
歳の頃なら80歳前後、ママと同じ年頃であった。
歌がものすごくうまい。

その日は客も少なく、飛び込み客を入れても3人で、カラオケ曲がカラ回りして、曲が途絶えがちになった。

そこで、歌の上手い飛び込み客につられて、ママも得意の喉を披露することになった。

ママは美空ひばりが得意だった。

曲が回るにつれ、ママは
「リンゴ追分」を歌い出した。
そして、セリフの部分にさしかかった。

「お岩木山のてっぺんを、綿みてえな白い雲が、――――――  白い花びらを散らす頃、おらあ、あの頃 東京さで死んだ、お母ちゃん―――」

シワが多少刻まれた頬を伝って、涙が流れてきた。

ママは青森の出身であった。



(注)板橋銀座という地名は
   無い。


           完

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