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山田金一物語:第1章:出生〜旧制高校

大分県の、とある町に、室町時代から続く大地主
「山田家」があった。

当時、地主は「名字帯刀」を
許されていた。

歴史も古く、何代目かわからないが、宗一郎が家督を継ぎ妻のふみと共に家を守っていた。
小作人が10程度いた大地主である。

1922年(大正11年)3月に、第一子の男児誕生。
宗一郎は、その男児を、家の発展を願い「金一」と命名した。

封建社会において、跡取り息子を育てるのは「乳母」が担当する。

金一はすくすくと成長し、尋常小学校・旧制中学・旧制高校へと進学した。

当時、大学はあるにはあったが、農家にとって、そこまでの学歴は不必要だった。

旧制高校も、当時はエリートである。
地主の跡取り息子として、泊を付けるには、旧制高校で十分であろう。

次男以下は、旧制高校は許されなかった。
せいぜい、中学どまりで、女子においては、尋常小学校卒業後、花嫁修業をして、どこかに嫁いで行く。
そんな封建社会であった。

地主の長男は、英才教育を受けた。

家庭教師付きで、「書道」「算盤」を叩き込まれ
指導者付きで「柔道」「剣道」を指導された。
そして、書道は師範クラス
柔道は黒帯クラスまで上達した。


金一は声楽がずば抜けて得意であった。

高校時代、のど自慢九州大会に出場。
いきなり優勝の栄誉に輝いた。

これに気を良くした金一は
宗一郎に、東京の音楽学校に進学させてくれないかと頼み込んだ。

当時の音楽は不良扱いである。
「不良の道を進むなら、勘当する!」

希望は無くなった。
親から勘当されることは、親子の縁が切れ、先々の生活もままならなくなるのである。

これにはさすがの金一も反抗出来なかったが、この件を境に父子の関係は崩れていった。

金一は宗一郎に度々反抗を繰り返し、その度に宗一郎は金一を大木に縛りつけ、木刀で殴りつけた。

今ならこれは「虐待問題」であるが、当時は「根性を叩き直す」という、立派な教育であった。

そして、父子の関係は、なお一層、暗闇に落ちていった。



           続く


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