マッチングアプリ体験記

マッチングアプリ。
令和の時代を生きる若者であれば誰しも耳にしたことのあるツールで、使ったことのある人も多いだろう。
何でもスマホでできる時代に生まれるべくして生まれた出会いのためのこの秘密道具は、実に結婚したカップルの8%を出会わせているらしい。


それほどまでに、市場を拡大し勢力を増しているマッチングアプリだが、私はこれまでにそれを「使いたい」と思ったことはなかった。
まず第一に、ネットで知り合った人間関係は、知り合いでも何でもない赤の他人である。赤の他人と待ち合わせをして会い、共に時間を過ごすのだ。
さらに、恋愛対象が男性である女性という立場で考えると、会う約束をする相手は多くの場合”自分より体格の良い他人”である。力では敵わない相手に丸腰で会わなければならないという状況、最悪殺されるかもしれないという命の危険まである。
ここまで言うと言い過ぎかもしれないが、近年マッチングアプリを介して知り合った人同士のトラブルや、事件に関するニュースもあるのだから無視はできない事実である。

一方で、私たちが感じる安全性とか危険性というのは実は根拠の薄いものであることが多い。私は飛行機もこわいのであまり乗りたくないと思っている。あんなに大きくて重い鉄の塊が空を飛ぶなんてちゃんちゃらおかしい。しかし、新幹線で5時間かかるところを飛行機で1時間半で行ける、しかも飛行機の方が交通費も安く済むというような場合、飛行機を使うことになる。これは安全性としては疑わしいが、多くの人が飛行機を使って事故もなく安全に目的地へとたどり着いているという状況的な根拠から飛行機を信用した結果である。
これはマッチングアプリについても言えるのではないか。ニュースになるような事案は、実は件数として少ないからニュースになるのであって、決して”よくある”ことではない。しかも、マッチングアプリがこれほどまでに市場を拡大しているということは「使ってよかった」と思っている人数が多いという証拠なのではないだろうか。
とすれば、飛行機と同じ理論で、マッチングアプリの安全性を少し信じてみても良いかもしれないという思いに至った。

というのも、最近の私は色々あって年初から休日のほとんどは一人で過ごしていた。最初のうちは最高だと思っていた自由な日々も、半年も謳歌すれば飽きてくる。いや、今でも自由!最高!と思うときはあるが、休日の固定化されたルーティンを変えられないまま日曜日の夜を迎えると何だか虚しい気持ちにもなる。
また、追い打ちをかけるように同年代の友人の間で第1次結婚ラッシュが訪れた。誰に急かされるでもないが、なんとなく結婚という二文字が頭に浮かぶ年齢になったという自覚が芽生え始めたが、思うような出会いも、社会人になり関わる人が固定化されてくればそうそうあるものではない。
そして唐突に思いたった。
「そうか、使ってみるか。アレを。」

どう考えても知り合いにはバレたくないので、後ろ姿の写真をフォルダから漁り、それもかなり粗くモザイク加工をして登録した。
しばらくすると登録が完了し、”候補のお相手”の写真が一覧で見ることができるようになる。また、この世界は女性に有利に作られているようで、後ろ姿だけでも「いいね」が大量に押される。変なの。
ひとまず「いいね」を押してくれた変な人たちを見ることにした。

顔写真(もしくは全身写真)と簡単なプロフィール、一言のつぶやき。
誰のどの写真を見ても「気持ち悪い」と思った。
誰がどうとかではなく、この写真と自己紹介が並んだこの空間がどうも気持ち悪かった。

人が自分のことを誰かに開示にする場合、その方法は2種類ある。
自己開示と自己呈示。自己開示は、自分が思っている自分像を素直に相手に伝える行為であり、これが二者間でお互いになされると人間関係は円滑に進むと言われている。一方自己呈示というのは「自分が見せたい自分・相手にこう思ってほしい自分」を相手に伝える行為である。例えば、映画好きな人と思われたくて、最近見た映画の話を小難しく語るような場合がこれである。この自己呈示をする場合にも、相手側がそれに気づいていなければ、(本当に映画好きだと思って聞いているのであれば)コミュニケーションに違和感は生まれない。それもずっとバレないままでいられるのであれば、相手側からしてみれば自己開示との区別はつかない。
しかし、問題になるのは、相手側が自己呈示であることに気づいているときである。”〇〇ぶってる”という表現があるが、これがその状態に当てはまるのではないかと思う。映画通ぶってる、は本当は大して詳しくないのに映画好きっぽく振る舞っているという意味だ。つまり相手側は”本当は大して詳しくないのに”の部分を分かった上で、自己呈示を受けているのである。

これと同じことが、マッチングアプリ上の写真とプロフィールで起きていた。マッチングアプリで表示するのは、相手に対して「こういう風に見られたい」と思っている写真(姿)であり、プロフィールである。それは、出会いの場がインターネットである以上避けられないことでもあるが、「この人はこういう人間だと思われたいんだな~」と思いながら、情報を見ていくのはやはり苦痛である。
さらに苦痛なのは、自分の写真とプロフィールも同じようにどこかの誰かに見られているという事実である。個人を特定できない程度にぼかされた写真、適当に書き散らかしたプロフィール。それらを以て「この人はこういう人だと思われたいんだな」とか誰かに思われているとしたらそれは耐え難い。

かなり脱線したが、ここから本筋に戻る。
違和感と不快感を感じなからも、「いいね」をしてくれた人を見ていった。そしてプロフィールの下部分に「いいね、ありがとう」ボタンがあることに気づいた。彼らの方からこんな素性隠しまくりの人間に「いいね」ををしてくれたのだ。さっき気持ち悪いとか言ってしまったばかりだが、純粋に「ありがとう」とは思う。感謝の気持ちを込めて「いいね、ありがとう」ボタンを押した。


すると、画面がオレンジと水色が混ざったような色になり「マッチングが成立しました!」というメッセージが表示された。
いやいや、待て待て待て。待ってくれ。今私は感謝の意思表示をしただけだ。この人とマッチングしてくれなんて頼んだ覚えはない。ふざけるな。
すぐに取り消せないかと画面上を探したが、取り消すことはできなかった。
思ってもいなかった急な展開。どうか相手のアカウントが捨てアカであって、気づかれないまま終わってくれ、と願ったがその願いは叶わず、ものの数分で初めてのメッセージが来た。
「マッチングありがとうございます!よろしくお願いします!」
いやごめんなさい、よろしくされるつもりはなかったんです。ひとまず混乱が頭を支配していたので、一回スマホを置いた。

ゼリーを食べて、テレビを見てぼーっと1時間ほど過ごすと、徐々に冷静さを取り戻してきた。そして、ミスとはいえこちらからもアクションを起こしてつながってしまった相手を無視するというのは、常識的にまずいのではないかと思い、もう一度スマホを手に取った。
「ありがとうございます。よろしくお願いします。」とテンプレでしか見ないようなカチコチの文章を打ち込み送信する。すると、待っていたかのように返信がすぐに来る。まずいことに、終われなくなってしまった。(よろしくって送ってるのだから当然ではあるが。)
それから何通かメッセージのやり取りをしているうちに、相手から「よかったら電話しませんか?」との申し出を受けた。無理、と思ったが、断る理由が見つからない私は、申し出を受け入れざるを得なかった。

そして約束した時間きっかりに電話が来る。
風が強い日だったので、「そちらも風吹いてますか?」なんて話を振ってみる。天気の話はいつだって万能だ。
初対面どころか、まだ知り合いですらない相手との通話なんて無理に決まっていると思っていたが、これが思いの外会話には困らなかった。これは仕事で経験したUsability testの成果だろうか。
相手が話し上手だったのかもしれないが、私自身も職務経験を通じて人間的なスキルが磨けているのかもしれないと思い嬉しくなった。
そんな浮かれた気分で話をしていたら、あれよあれよと会う約束をしてしまっていた。いや、もっと作為的だったかもしれない。おそらく私は心のどこかで思っていた。
「ここまでして、誰にも会わずに退会してしまっては今日の情緒不安定が報われない。話のネタになるだけでなく、マッチングアプリに対して抱いていた違和感の正体をよりはっきりとつかめるかもしれない。」

そう息を巻いていても、臆病な癖は変わらない。
何かあったときのために、スタンガンを持って行こうかな。と思ってネットで検索したら、どうやらスタンガンのような器具を持ち歩いているのが職質などでバレると逮捕されてしまうらしい。さすがに法に触れるのはまずい。
ひとまず、走って逃げられるようにスニーカーで出かけることにした。

待ち合わせ場所にて、”知らない人”を待つ。
「こんな服を着てます」や「階段の左側にいます」などといったメッセージでなんとか相手を特定し、話しかける。幸いにも人違いをせず一発で当てることができた。タブレットでアプリを使っていたその人は、らくらくスマホよりも大きい文字でチャット画面を開いて待っていたが、それ以外は電話で話した印象と大きな相違はなかった。

待ち合わせが無事に済むと、我々は事前に約束していた通りカラオケに行った。その人は、電話でも歌が得意だと言っていた通りとても歌が上手で、何やらややこしいリズムのややこしい歌を軽々と歌いこなしていた。(事前に少し最近の曲を予習して行ったが、正直半分くらいは知らない曲だった。)
私が歌う間も、大げさなくらいに褒めてくれるしスマホをいじるでもなく聴いてくれているので、知っている比較的今流行りっぽい歌を頑張って選んで歌った。

2時間ほど歌い、カラオケ店を後にすると雨が降っていた。「この後まだ時間ありますか?」と聞かれたが、疲れ果てていた私は正直一刻も早く帰りたかった。しかし特に予定がないことは電話の時点でうっかり話してしまっていたため、「台風来てるみたいですよ。私小さい傘しか持ってきていないので、本降りになる前に帰りたいです。」と返した。天気の話は本当にいつでも万能だ。そして、晴雨兼用の小さい傘だけ持って外出した数時間前の自分、グッジョブ。

最寄りの駅まで歩く道中「LINE交換しませんか?それともこのままアプリのほうが良いですか?」と聞かれた。LINEは個人情報だ。アプリなら退会してアンインストールすれば終わりだが、LINEはブロックしても角が立つし面倒くさい。とっさに「あんまりLINEは見ないので、アプリの方が都合良いかもしれないです」と答えた。現代の20代でLINEをあんまり見ない人などいるものか。と思われそうだが、最近の曲をほとんど知らないというくだりが功を奏して「そういう人なのかな」と思ってくれたようだった。

そして、帰宅後「ありがとうございました」と簡単なメッセージを送り、その人の返信を確認した後、アプリを退会しアンインストールした。

断っておくと、今回私に会ってくれたその人がやばい人だったわけではない。歩くときもカラオケでもしっかり距離を開けてくれたし、早い解散も快く受け入れてくれた。かなり親切でしっかりとした常識を持った男性であった。むしろこの状況でやばい人なのは、表面上楽しそうにしておきながら、帰宅後即アプリを消して連絡を断つような、”デート”にスタンガンを持って行こうかと考えてしまうような、私の方である。
つまり、その人と会っている間ずっと感じていた違和感は、その人によるものではなくその状況によるものである。


職場や学校など、現実世界のコミュニティで人が出会う場合、私たちはお互いに「友達」「仕事仲間」などというラベルを貼り付け合っていく。その中に「好きな人(恋愛対象)」というラベルもある。相手から自分に対して貼られているラベルは分からないから、好きな人には友達としか思われてないような場合や、逆に友達としか思っていなかった相手から告白されて戸惑うということがあり得る。
こうして、私たちは一度相手に貼ったラベルを剥がして、違うラベルに貼り替えたりすることで、相手との関係を築いていく。
実際これは多くの場合、かなり時間のかかる作業である。

その煩雑さを一切感じさせないのが、マッチングアプリというシステムである。相手に対して貼るラベルは決まって「恋愛対象」というラベルだけであり、そのラベルを貼るかどうかを決めるだけの作業だからである。「恋愛対象」ラベルを貼らないのであれば、その相手は「知り合い」でも「友達」でもない、無ラベルの他人のままだ。つまり、0か100かの判断をするだけなのだ。
たしかにこのシステムは、ある特定のラベルを貼る相手を探している人にとっては、画期的で効率の良いものであるのだろう。

しかし、本来人間関係はそういうものだろうか。距離感や親密度に応じてグラデーションがあって、ただの「仕事仲間」だった人が「友達」になったりもするような柔軟で流動的なものなのではないだろうか。
もちろんマッチングアプリでも関係性の変化はあるだろうし、一概に0か100かという場合ばかりではないのかもしれない。ただ、出会いの時点で「恋愛対象」というラベルがちらついている状況で相手を理解しようとするのと、ただの知り合いから相手を理解してラベルを貼り替えていくのでは、やはり柔軟性も築かれていく関係性の深さも違うのではないかと思う。

「恋愛対象」というタグを、見せ合えるところに持った状態でのやりとりが、私には性に合わなかった。よそよそしい距離感を保ちながらも、相手を見定めている感じ、同時に見定められている感じ。
コミュニティ内など、いわゆる”自然な”出会いであれば感じることのない、独特の空気がそこにはあった。そして、直接会って会話をしているのに、ふと訪れる「この人だれ?」という感情。それに答えられないような相手と会うことは、著しく自分のポリシーに反していた。それがずっと気持ちが悪かったのだ。


さらに、チャットでの会話や通話を介して実際に会うという王道(?)のコースを通っておきながら、相手の気持ちも考えずに自分の内面にばかり焦点を当てて、こんな文章を書き殴れてしまうのも、私がやばいヤツであるのと同時に、アプリの特性でもあるのかもしれない。相手との関係を一方的に切ってしまうことに対する罪の意識が薄いのだ。罪の意識というのは、「何か失うもの」があるときに生まれると思っている。何も失うものがない関係は無法地帯だ。友達の紹介で会った人であればその友達に申し訳ないとか、職場の人であれば職場内の空気が悪くなってしまうかもしれないとか。そういうものが一切ない。また、自分にとっても相手にとっても、お互いはアプリ内にいる数多の"候補のお相手"の中の一人に過ぎず、代わりはいくらでもいる存在なのだ。たった一人と連絡が取れなくなっても、それは大したことではない。
アプリさえ断ち切ってしまえば終了。アプリに書かれている情報だって何が真実で何が嘘か分かったものではない。
そんな簡単かつ無責任にハサミで切れてしまうような一本の細い縁は他にはないと思う。

これが、私がマッチングアプリに抱いていた違和感の正体であった。それがはっきりしたことが、今回の収穫であったと言えるかもしれない。

なんにせよ私は金輪際、マッチングアプリには手を出さない。



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