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やっておいてよかったと思うこと

皆さんは「やっておいてよかった」と思うことはあるでしょうか。
今日は、タイトルのまんまですがそんなお話です。
後悔ばかり見てたら、勿体ないと思う今日この頃です。



本日のご挨拶

こんばんは、雪猫なえです。
こちらのアカウントを再稼働することができて嬉しいです。やっぱりこの場所は、何があっても、ずっと残しておきたいなと思っています。

ここ最近やけに怪我が多き気がしています(苦笑)小学生の頃も怪我が絶えなかった雪猫ですが、最近はそれを彷彿ほうふつとさせます。20代女子が何やってるんでしょう(苦笑)

生活が良い感じで回っていて満足度の高い日々です。こんな安定がずっと続けばいいのにと願ってやみません。まぁ、もちろん完璧完全に安定しているわけでもなく、危なっかしくなったら自分で調整して、時に逃避してなんとかやっているところも往々にしてあるのですが。そんなもんですよね。その微調整機能が働いている状態を「生活が上手く回っている」と言うのだと雪猫は思っています。

甘口のレトルトカレーが美味しい今晩です。


それでは、そろそろ本題に入りましょうか。



本を読んできてよかった

乾くように、逃げるように、本を読んでいます最近です。
基本的に何でも買ってくれる優しい(甘い)両親でしたが、とりわけ本は無条件で買ってくれました。漫画ではなく、小説です。
叔母も、図書カードをくれることがありました。「漫画以外の本に使いな」と言って渡してくれたピーターラビットのカードを今でも覚えています。

雪猫は小さい頃から雑食生物で活字にも抵抗がなかったので、叔母の言いつけ(?)はちゃんと守りましたよ(笑)昔の名残か、図書カードを漫画に使ったことは今までで一回かそこらです。

そして、今、(誰の影響とは言いませんが)また本を読み漁っています。この時期に思い切り読書の時間を設ける贅沢さは、結構有意義なのではないかななんて思いながら時間を溶かしている最近です(現実逃避とも言う)。



やりたいことを諦めなくてよかった

有難いことに、なんだかんだ好きなことをやらせてもらっている人生だと感じています。

母は心配性で少しだけ固い思考の持ち主(だと雪猫は思っている)ので、サブカル方面や直感・感覚を重んじたり好んだりする雪猫とは趣味趣向が全然違うこともしばしばで、幼い頃から雪猫が本当にやりたいことにはいい顔をしてくれなかった記憶が今でも濃厚ですが、それでもなんだかんだ画材を買ってくれたり容認してくれたりしていましたし、制限するとか勝手に捨てるとか辞めさせるとかそういうことはなかったと思います(雪猫がやることやっているとか母の期待に応えるとかそこら辺をしっかり押さえていたことも大きかったとは思いますが苦笑)。

で、自立しかけ(まだ全然ですが)の今、やっぱり思うのは、後悔ないよに、だよなぁということです。
今まで、人生の岐路について、あまり「あれをすればよかった」よか「こうすればよかった」とか思ったことはありません(忘れているだけかもしれませんが)。小さいところではもちろん細々こまごまありますが、大きな分岐点や大きな後悔はぱっと出てきません(肯定力が高い、というだけとも言えるかもしれませんが笑)。

なので、これからもこの調子で、たまに突っ走ってしまいながらも、思い切ってみようと思う今日この頃です。



死ぬ準備について

最近、読む本の影響もあるのですが死ぬときについて考えることが増えました。いえ、気を病んでいるのではなく、冷静に考え巡らせるという感じです。人間、ぱっと消えることはできないものですから。

物(遺品)は?周りの人は?葬儀は?とかとか。

父にも驚かれましたが、エンディングノートを購入済みの雪猫です。お金関係や保険のことなど、埋められる項目がほとんどなくて愕然としていますが、なるべく埋めようと思っています。

人によっては「なんということを……!」と非難するかもしれませんが、父には「元気で意識がはっきりしているうちに希望を固めて置いてね」と言いました。
介護してほしいのかホームに入りたいのかとかそういうことです。

もちろん雪猫も両親もまだ健在です。でも、いつどうなってもいいようにしておきたいと思うのは、誰に似たのか何に突き動かされているのか。



好きな人を諦めなくてよかった

上の話題から一転、という感じがしているでしょうか(笑)

いや、でもあながち突飛な話でもなくてですね。要するに、後悔のないように、ということです。

まぁ、告白を自粛しなくてよかったとかそんな感じに思ってもらえたら。

雪猫は、告白をしないと気が済まないと以前記事を書いた記憶があります。
それは、もちろん存在も知られずに記憶から消え去られるのが嫌、という表面的なことはもちろんなんですが、結局のところいつか死にますし別れは来るんです。

もう一生会わないかもしれないんです。だったら、やっぱり後悔したくないので、言っちゃうんですよね。
(言わない=後悔にまだ論理の飛躍があるなぁと不服ですが、今の段階で言えるのはこれくらいなのです)

よく小説で、思いを伝えられないままに悲しい思いや切ない思いをする話を見かけます。時には両思いだということもあります。
そういう話を見ると、一段と思いは伝えるべきだと思わされます(もちろん、結婚前夜に困らせるとかストーカーとかそういう迷惑行為は話が別ですよ)。

「好きな人が自分のことを好きだなんて奇跡だ」これは幼い頃から言われてきた母からの言葉です。本当にそう思います。特に、今までずっと片思い道を通ってきた雪猫からすれば、両想いなのに綺麗なこと言って叶わなくてもいいなんて、なんて贅沢で残酷で無神経なことをしているのだろうと腹立たしくもあります。

そういうお話の綺麗さを、繊細さを好む人たちがいることも知っていますし、他人の感性にとやかく言うような真似はしませんが、雪猫はもっと泥臭くい性格なもので、そういうものは、「持っている奴の綺麗事だ」なんて感想を抱いてしまいます。
その奇跡をどれほど切望しているか、とか(笑)

ちょっと感情的になってしまいました。



終わりましょう

最近太字にする作業をサボっていることにお気づきの方はいるのでしょうか(笑)

今回書けた項目はきっとほんの一部なんだと思っています。後日また出てきたら、そのときはまた記事を書きます。
そのときに記事を書けるように、このアカウントは死守しなければな、と今思いました。


それでは今日はこの辺で。また。

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