【雑記】ヨツユが粛清するのは「自分が辛い思いをしたことを誰かに訴えたい」からじゃないのがいい

紅蓮の「解放決戦 ドマ城」までクリアした。

だいぶ前にこんなことを言っていた。
ヨツユはまさに生まれ育ちが悲惨だったために受けた悪意を、自分から周囲に振りまく人間だった。虐待され育った子供が、大人になってから自分の子供に虐待を加えてしまうこととよく似ている。

ヨツユの中で好きなところは悲惨なバックボーンを持つが、その悲惨なバックボーンがあっても全く同情できないところだ。またそのバックボーンをひけらかさないし、そもそも自分自身同情してほしくないと思っているところだ。
だからこそ「かわいそう」と言ってくるグリーンワートをひっぱたける。あそこでただセリフで一言ヒステリックに「うるさい!」と言わず、黙ってひっぱたくという行動に出るのがヨツユらしいな~と思う。

だが彼女は周囲の人間に災厄を振りまくので「かわいそう」といったグリーンワートは(恐らくは自分が望んだこともあって)改造されてしまう。グリーンワートは自らの上司に近づきすぎた。興味を持ち過ぎたからああなったのかな、と思ってしまうのが恐ろしい。

ヨツユは間違いなくあの時の「ヨツユ様、かわいそうに」という言葉を聞いている。あの言葉を聞いているから「自分のためにもなると言えば改造を受け入れるだろう」と判断したのではないかと思えるのが、ヨツユの怖いところだ。

他の誰でも彼女を憐れむと、グリーンワートのようにとんでもない目にあってしまう。ゴウセツが死んでしまったのも、ヨツユと賭けをして関係を構築したからだ。
だからその災厄から逃れるには彼女に対しては憐れみを抱かず、そばに近寄らないでいるしかない。いかなる関係性も結んではならない。彼女に執着することも、またそれが死につながる。
村上春樹の作品「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」はたしかこういう話だった気がする。

「上下関係を差っ引くとお互いに利用しあっているだけ」なゼノスとの関係もドライに乾ききっているのもそのせいだ。
ゼノスはヨツユを代理提督に置いた。ヨツユはその仕事を全うする。それ以外どうでもよく、それ以外はお互い気にしない。
ヨツユをうまく活用できるのは、彼女に興味を抱くことも、同情することもないゼノスだけというのは納得できる。

ヨツユに同情したり手を差し伸べると粛清回路(便宜上こう呼ぶ)が起動し、そのキャラクターは退場させられる。

「心臓を貫かれて」の教師とのエピソードを思い出す

ドマ城での戦いの直前、アリゼーとともに烈士庵の近くを哨戒した際切ったガレマール軍人の持っていたヨツユに関するエピソードが、びっくりするぐらいこの本に出てくるとある教師の話に似ている。

この本の主役であるゲイリーは中学生のころから非行を繰り返し、教師も手のつけられない生徒の一人だった。彼の素行のひどさに実際に殴るか、殴ると脅したために、ゲイリーの父親から文句を言われた教師がいる。

そのときのゲイリーはまったく反省する様子もないし、教師の言葉が耳に届いている様子もなかった。
しかし彼が殺人を犯して捕まったあと「あの教師だけは自分が人生で唯一尊敬している教師だった。人生で唯一、あのときあの人にだけは助けを求めていたんだ。でもあのころの自分の態度では先生がそれに気付かないのは無理もないし、もちろん先生は何も悪くはない」ということを語った。
その教師は話を聞いた時、本当にひっくり返るくらい驚愕したという。

さて紅蓮で出てくるあの男の話は、本当にあそこだけだ。何を考えていたか、どう思っていたのか全く分からない。一体どんな感情をヨツユに対して抱いていたかも明らかではない。恨みかもしれないしあの時何もできなかった自分への絶望を抱えているかもしれない。
だが肝心のヨツユの方は恐らく「この男は何も悪くない」くらいか「興味ないな」「そんなこともあったな」くらいしか思っていないはずだ。

誰かに助けを求めるのは難しい。
あのときヨツユが声を上げていれば、あるいはあの男がもう少し踏み込んでいればと考えずにはいられない。
現実世界でもそういう「あとちょっとが聞き取れない」が沢山あるのだろうと思う。こういうところも現実を反映しててつらい。

他者からの評価がどうでもよくなると無敵だよな

先ほども言った通りどうでもいい者同士が都合がいいからとりあえず手を組んでいるのがヨツユとゼノスだ。ここが評価を求め周囲に影響を与えようとするフォルドラとヨツユたちの決定的な違いだと思う。

フォルドラはヨツユほど世界に絶望をしていないように見える。
自信満々な表情で「策がある」というあの表情や、その後の悔しそうな顔も
頑張れば認められるかもしれない、力が手に入ればなんとかなるかもしれないという意識の表れだ。
むしろ「ガレマール帝国内で生き残ってやるぞ」という気概がなければあんな行動には移れないと思うので、前向きなんだと思う。なんとしてでも、どんな手を使ってでもという危うさも、それは彼女が今の環境で生き延びてやろうと思うからこそだろう。

対してヨツユは基本的にみんなどうでもいいし、ごはんも何でもいい。
重要なのはいかにしてドマの民を虐げるかしかない。それはドマという世界に絶望しているからだ。

ヨツユがゼノスに折檻された際、おびえた表情を見せるのは恐らく自分が死ぬことが怖いからではない。ドマの民を虐げるなど彼女自身の目的が達成できなくなることの方が恐ろしいのではないか、と思えるところも良い。
基本的にそれ以外はどうでもいいし、何も持っていない。社会的地位などもドマではなくガレマールの尺度の話であり、ヨツユはドマにおいて何も持たない。
ヨツユって無敵の人だな、と思った。

「無敵の人」と調べると、こんな風に定義されている。

社会的に失うものが何も無いために、犯罪を起こすことに何の躊躇もない人を意味するインターネットスラング。2008年に西村博之(ひろゆき)が使い始めた。

ウィキペディア「無敵の人(インターネットスラング)」より
強調は引用者による。

この定義に当てはめれば、ヨツユは無敵の人に該当すると言えるだろう。
ドマの中のコミュニティに属さないために、ドマという社会の中では失うものが何もない。というかひろゆきが言い出しっぺだったのか。
ひろゆきは「無敵の人」ができるのは、本人の問題ではなく教育システムの失敗であると言っている。

ひろゆきは義務教育について「『義務』教育なのだから、どんな子供でもうちの国の教育を受けたらきちんと稼いで社会に貢献する大人に育ててやるぜ!という方針が必要。義務教育が終わっても社会に居場所が無いのは、児童が悪いのではなく教育システムの失敗義務教育を受けられずに社会で生き残れない児童は親の責任」と主張している

ウィキペディア「無敵の人(インターネットスラング)」より
強調は引用者による。

確かにそうだなと思える。社会的弱者を守ることは、ひいては自分たちやその社会を守ることにもつながるわけで、まさにそういうセーフティネットから零れ落ちたのがヨツユだと言える。

個人的に「無敵の人が事件を起こすのは、気の毒なナルシストの自傷行為」とこの記事で書かれているのもヨツユにつながるように思う。彼女がドマの民を虐げるのは、過去ドマの民に虐げられた自分を慰めるためだ。

ドマの民を自分と同じ惨めな目にあわせてやりたいが、自分が惨めな目にあったことに対して同情を引くためではない。自分が惨めな目にあったのは自分のせいではなく、外的要因のせいであると自分を慰めたい。ヨツユを見ているとそんな感じがしてくる。

ヨツユが粛清するのは「自分が辛い思いをしたことを誰かに訴えたい」からじゃないのがいい

ということでつらつらと考えてみると、ヨツユが粛清を行うのは自分のつらい経験を他の誰かに訴えたいからではないのかなと思える。

「辛い思いをしたのは自分にはどうにもできないことだった。理不尽なことだった。そのことを他人に加害することで納得しようとしている、自分に言い聞かせようとしている」と思える。

だから同情してほしいとは思っていないんじゃないか、と思うのだ。
もちろん私たちがもしヨツユの身近にいて同情してしまえば、ひどい目にあう。だからどんどん彼女の周りからは人が消える。

個人的にはヨツユが死んでよかったんじゃないかと思う。
最初に紹介した「心臓を貫かれて」では死刑になる直前、作者の兄であり強盗殺人を起こしたゲイリー・ギルモアはこんなことを言う。

「いつもそこには父親なるものがいる(There will always be a farther.)」

家族の話になると誰しもが「父親なるもの(つまり親から与えられる呪い)」から逃れることはむずかしい。
ではどうやれば逃れられるのか。
それは死ぬことでしかない。死ぬことで初めて呪縛から逃れられる。そのことを知っているから、ゲイリーは死刑を自ら望みその呪いの呪縛から逃れることにしたのだ。

ヨツユもおなじだ。いついかなる時であっても、彼女は自分が受けた傷から逃れることができない。それは彼女が生きる以上人生について回り続ける。
彼女が逃げようとしても無理だ、必ずその人生に暗い影を落とすのだ。だから最後の最後になってまで、ヨツユと関係を持とうとしたゴウセツを巻き込んで死ぬことになってしまう。

そういう意味で、ヨツユは死んでよかったのかもしれない。ずっとそういう感情に苦しめられ続けるのははたから見ていても辛すぎる。

またあの場でゴウセツが死んでしまうのも、彼がその場所を死に場所に選んだのであれば良かったのかもしれないと思えるのだから辛い。
ドマ城突入の直前にお酒を飲みながら話す彼の過去や、アジムステップでドタールの風習を目の当たりにした言葉からも、彼が命を燃やせる場所を探していたことが分かる。だから行くなと言いたいのに散り際を邪魔したくない気持ちがせめぎあう。
何よりも最後に約束を守れたのだという満足感と、自分が未来に確実にバトンを渡せたのだと感じたのなら、ルイゾワと同じようにレガシーを残せていることには違いない。

死んでしまったとは認めたくないし、二人とも遺体が見つかっていないから生きているかもしれない。
それでも二人があの場所で一緒に死んだのに、その死にざまは見事な対比になっているのがいかにも紅蓮っぽい。

紅蓮は多分、ここから先もずっと毎秒賭けてきた人生の結論が出る話なんだなぁ

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