祝い、契約、呪い、怠慢。

  • 祝い=人に行動の自由を与える言葉を用いた情報
    キリスト教における「祝い」は、神からの祝福や恵みを喜び、感謝する行為であり、信者に希望と励ましをもたらします。現代における「祝い」の再解釈は、人の心にポジティブな影響を与え、選択肢を広げ、自らの可能性を肯定的に受け止めさせる情報として捉えられます。この情報は、人々に自由に行動する勇気や安心感をもたらし、成長や達成を支えるメッセージとして作用します。たとえば、感謝の言葉や励まし、応援のメッセージが「祝い」としての情報です。

  • 契約=お互いに行動の責任を明確にするための約束やルール
    キリスト教の契約は、神と人との間に結ばれた、相互の責任と誠実さを確認する関係です。現代の「契約」の再解釈は、互いの責任や役割を明確にする約束やルールとして捉えられます。これにより、行動の枠組みが定まり、信頼に基づく自由な行動が可能になります。こうした約束は、互いの期待を明示し、信頼関係を築く基盤となります。たとえば、職場での役割分担や共同プロジェクトにおける責任範囲の合意がこれに該当します。

  • 呪い=人から行動の自由を奪う言葉を用いた情報
    キリスト教における「呪い」は、神の意に反する行為に対する罰として登場し、罪を戒めるために使われます。現代の「呪い」を再定義するならば、それは他者の自由な行動を制約し、意欲や選択肢を萎縮させる情報と考えられます。この「呪い」の情報は、批判や否定的な言葉、過剰な干渉などを通じて、他者の行動や可能性を制限します。たとえば、「どうせ無理だ」「失敗するに決まっている」といったネガティブな言葉が、この「呪い」に該当します。こうした言葉は、意識せずに人の成長や自由な発想を妨げる呪いの効果を持ちます。

  • 怠慢=行動の自由があっても選択を避けることで成長や達成を妨げる状態
    キリスト教では、怠慢は信仰や霊的成長を放棄する罪として扱われ、自己の意欲や努力を欠いた状態です。現代において「怠慢」を再解釈するなら、自由な選択肢や行動の機会があるにもかかわらず、責任を回避し、成長の機会を逃す状態と捉えられます。怠慢は自己の可能性に向き合わず、現状に甘んじる心の在り方であり、挑戦を避けることで結果的に成長が停滞します。たとえば、自己改善の努力を怠り、安易な選択肢に流され続けることがこの「怠慢」に当たります。


祝い

祝いを、行為→人生→生き方から「思考」についてまで紐づける思考実験を試みると、以下のように整理ができると思います。

「祝い=贈与=真に豊かな人生=コンサマトリーな生き方=哲学的に考えることが出来る人」

この整理を流れとして考えると、「祝い」と「贈与」はただの行為やイベントではなく、人生の豊かさを深める根源的な要素と捉えられます。

この観点から、キリスト教的な視点に加え、哲学的な深みを持たせて次のように展開できるかと思います。

  1. 贈与としての祝い
    祝いは本来、何かの達成や出来事を喜ぶだけでなく、誰かから何かを「贈られる」という贈与の要素を含んでいます。特にキリスト教において、クリスマスは神がイエスを人々に贈ったことを祝う機会であり、このように人間にとって祝祭は「受け取る」という行為を通して感謝と共に行われます。これにより、祝う行為自体が一種の「贈与の実践」として、他者とのつながりや感謝を通じて内面の豊かさが深まります。

  2. 真に豊かな人生の実現
    「贈与としての祝い」が日常に根づくとき、人生そのものが「真に豊かなもの」へと変わります。豊かさとは、単に物質的な成功を指すのではなく、深い関係性や自己実現、そして他者と共に生きる意味の再発見を指します。祝う行為が感謝と贈与の象徴である限り、受け取ること、与えることの双方が真の豊かさを生み出します。

  3. コンサマトリーな生き方
    このような「豊かな生き方」は、コンサマトリー(consummatory)な生き方、すなわち目的志向ではなく、行為そのものに価値を見出す生き方につながります。例えば、キリスト教の祝祭は単に「何かを達成するため」ではなく、神への感謝やコミュニティとの結びつきを深める時間そのものが意義を持ちます。贈与を受け取るときも、単に物理的な贈り物を超えて、その行為の背後にある愛や思いやりを受け入れることが豊かな人生の基盤となります。

  4. 哲学的に考えることができる人
    最後に、「贈与=祝い=真に豊かな人生=コンサマトリーな生き方」という流れの根底には、自己を超えた存在や世界について深く考える態度が必要です。このような「贈与的」な生き方を理解するためには、哲学的思考が欠かせません。哲学的に考えることができる人は、自分自身の存在や行為が他者との関係性や世界とのつながりの中に位置づけられることを理解します。こうした理解により、日常の中の「贈与」や「祝い」も人生の豊かさや意味を再発見する機会となり、より深い意義が与えられるのです。

このように、「贈与としての祝い」は、人生そのものを豊かにする生き方の原動力となり、それを理解するための哲学的態度も必要とされます。哲学的に考えることで、贈与と祝いの本質的な意味を理解し、真に充実した人生を送るための基盤となるでしょう。


契約

祝いと同様に契約を、行為→人生→生き方から「思考」についてまで紐づけてみると、以下のように整理ができます。

「契約=等価交換=現実的な成功を追求する人=資本主義をハックする生き方=戦略的に考えることができる人」

キリスト教をベースに、契約と等価交換の概念を現代的な成功や戦略に結びつけ、資本主義社会における個人の立ち位置を考えると、どのような助けを得られるか。この考え方を深めるために、以下の流れで解釈してみます。

  1. 等価交換としての契約
    キリスト教の契約概念は、特に旧約聖書において「等価交換」としての性質を帯びています。神と人間の間で取り決められた契約は、神が祝福や守護を提供し、人間が律法を守るという交換関係に基づいています。ここでの交換は互恵的であり、双方の期待が満たされる形での「等価」が求められます。こうした等価交換は、現実の契約やビジネスの「公平さ」を象徴しており、責任や義務を明確にすることで社会的な安定も図られます。

  2. 現実的な成功の追求
    等価交換に基づく契約関係は、現実的な成功や成果を求める現代のビジネスにも直結します。例えば、ビジネス契約においては投資とリターン、リスクと報酬のバランスが重要視され、成功のための合理的な決定が行われます。現実的な成功を追求する人は、これらの関係性を理解し、利益や成果を確実に得るための「交換」を戦略的に考えます。このような等価交換の関係は、努力や価値提供が適切に報われるという資本主義の基本構造にも反映されています。

  3. 資本主義をハックする生き方
    契約や等価交換の原則を知ることで、資本主義の枠組みの中で有利に立つための方法を見出せるようになります。例えば、資本主義のシステムのルールやリソースを深く理解し、リスクを分散させつつ高い利益を目指す戦略を立てることができます。ここでの「ハックする」という表現は、資本主義の仕組みを単に従うのではなく、ルールを熟知した上で自分に最適な形で活用するというアプローチを指します。この視点に立つと、ただの等価交換ではなく、知恵を活かしてシステムから最適な価値を引き出す「戦略的な生き方」が見えてきます。

  4. 戦略的に考えることができる人
    等価交換や契約の原則を理解し、それを現実的な成功に結びつけられる人は、戦略的な思考を持つことができます。戦略的思考とは、長期的な視野で目標達成のための道筋を描き、適切なリソース配分やリスク管理を行うことです。キリスト教的な契約の概念は、神と人との関係における責任感や義務の認識を育むものであり、それをビジネスや人生に応用することで、結果を出すための最適な計画を立てるための指針ともなります。

このように、「等価交換=契約=現実的な成功=資本主義のハック=戦略的思考」という流れにおいて、キリスト教の契約の概念を現代の戦略的な生き方や成功に結びつけることができます。この考え方は、ただの利益追求ではなく、価値の相互交換を基盤としながらも資本主義社会を効果的に活用するための思考法として、現代人にとっても有意義な洞察を提供するでしょう。


呪い

「収奪=呪い=自己中心的な成功に固執する人=インストルメンタルな生き方=効率的に考えることができる人」

という視点で見てみれば、キリスト教的な呪いや罰の概念が、自己中心的な成功追求や効率重視の思考に繋がる可能性を示唆しています。この一連の流れを発展させてみます。

  1. 収奪としての呪い
    キリスト教の呪いは、神の意志に背いたり自己中心的な行動を取ることに対する「収奪」として現れます。例えば、アダムとエバがエデンの園で神に逆らった結果、楽園から追放され、神の祝福や保護を「収奪」されました。ここでの呪いは、単に罰を与えることではなく、過ちによって失われる豊かさや関係性の破壊を象徴しています。自己中心的な成功や利益に固執することで、人は他者との調和を犠牲にし、結果として精神的・社会的な豊かさを「収奪」されるリスクを負うのです。

  2. 自己中心的な成功への固執
    呪いとしての「収奪」は、自己中心的な成功への固執が引き起こす現象ともいえます。自己中心的な成功は、他者や環境への配慮を欠き、自分の目的を達成するための手段に全てを利用しようとする態度を伴います。このような姿勢では、表面的な成功が得られるかもしれませんが、内面の満足や本質的な豊かさを犠牲にしがちです。自己中心的な成功を追求する人は、自分自身がいつしか「呪い」のような形で人間関係や社会から孤立する可能性が高まります。

  3. インストルメンタルな生き方
    インストルメンタル(instrumental)な生き方とは、全てを効率や目的達成のための「手段」として捉える生き方を指します。これは資本主義における効率重視の姿勢と通じ、他者や資源を自らの目的達成のために最適化する態度を含みます。しかし、これが極端になると、他者を尊重する意識や道徳的な価値観が軽視され、最終的には内的な満足感や社会とのつながりを見失う結果につながることがあります。つまり、インストルメンタルな生き方は、「収奪」としての呪いのリスクを内包しているといえます。

  4. 効率的に考えることができる人
    インストルメンタルな生き方をする人は、効率的に物事を考え、迅速に結果を出すことを重視します。効率は現代社会での成功の鍵ともなりえますが、これもバランスが重要です。キリスト教的な観点から見ると、効率や合理性だけを追求する姿勢は、神の意図や他者への配慮を失うリスクがあり、結果として「呪い」としての疎外や孤立を招く可能性が指摘されています。効率的に考えることができるのは有益ですが、そのために犠牲にするものが多くなると、真の充実や幸福から遠ざかってしまう恐れがあります。

このように、「収奪=呪い=自己中心的な成功=インストルメンタルな生き方=効率的思考」という流れを考えると、効率や自己利益を追求するだけでなく、全体的な調和や関係性を重視することが、人生の豊かさに繋がるという視点が浮かび上がります。この一連の概念を理解することで、効率的思考と自己中心的な成功のバランスを再評価し、豊かで持続可能な生き方へのヒントが得られるかもしれません。


怠慢

「同調=怠慢=周囲に流されて行動する人=コンフォートゾーンに留まる生き方=反射的に考える人」

キリスト教における「怠慢」と「同調」を見てみると、これは自己成長を妨げるものとして捉える手助けになります。周囲に流され、反射的に考えるだけで自己の意志を失うリスクや、それに伴う人生の停滞が見えてくるでしょう。この流れを具体化してみます。

  1. 怠慢としての同調
    キリスト教における「怠慢」は、霊的な成長を妨げ、神との関係を弱める罪とされています。怠慢とは、何かを成し遂げるための努力を怠り、神から与えられた使命を無視する状態です。これが「同調」と繋がるのは、他者に合わせて行動するだけで、自分の意思や信仰心を軽視する姿勢にあるからです。周囲に流されて生きることで、結果的に神や信仰への情熱を失い、自らの成長が停滞するという怠慢の罪に陥りやすくなります。

  2. 周囲に流される行動
    同調の傾向が強い人は、周囲の意見や行動に流され、自分の信念を見失いやすくなります。これは、キリスト教的な「自分の道」を歩む意識とは対照的です。周囲に流されてばかりでは、本来の使命や価値観に基づく行動ができず、自己中心的な視点や内面的な充実が欠ける生き方になります。結果として、日常の小さな選択も他者依存的になり、自己の意志が育まれないまま停滞しがちです。

  3. コンフォートゾーンに留まる生き方
    怠慢と同調の行動パターンは、変化を恐れ、安心できるコンフォートゾーンに留まる生き方へと繋がります。挑戦や成長を避け、安定した現状に甘んじる姿勢は、キリスト教における「怠惰」にも近いものです。信仰の中で求められる自己研鑽や向上心が欠けていると、心が次第に空虚になり、人生における神の導きや新たな可能性を見失う危険性があります。

  4. 反射的に考える人
    同調や怠慢に従う生き方は、周囲に即座に合わせる「反射的な」思考を育む傾向があります。反射的に行動する人は、深く考えることなく、その場の流れに乗ってしまいがちです。こうした反射的な考え方では、自分の価値観や信念に基づく判断が欠け、結果として周囲の価値観に依存してしまいます。信仰においても、ただの形式的な参加に終始し、実質的な自己成長や霊的な豊かさが得られないリスクがあります。

このように、「同調=怠慢=周囲に流される=コンフォートゾーンに留まる=反射的思考」という流れにおいて、自分の意志を持たず、惰性で行動する危険性が強調されます。信仰や自己実現の視点から見ても、自己の価値観を深め、主体的に行動することの重要性が際立ちます。怠慢や同調を避けることで、より豊かな、神と共にある生き方への道が開けると言えるでしょう。


今回の思考実験から得られた結論

ビジネスパーソンを考察するために、立脚点を「コンサマトリーとインストルメンタル」と「資本主義のハッカ―」に設定したうえで様々な人たちを観察する際、僕はいつも「この人たち全員、優秀ではあるよな?」という考えが頭を過って、どうにも悩んでしまうんですよね。

では、そんな多くの優秀な人たちの中で「コンサマトリーに生きている人」と「資本主義をハックしている人」は多いのか?どうもそうは見えない。「インストルメンタルな生き方の人」が多いように見受けられる。

ここでの「優秀」というのは難しく考えずに、一流の大学を出て、一流の企業に就職し、そこそこの成果を出してきた「以上」の人たちをイメージしています。「超える」ではなく「以上」です。だから人数的には決して少なくないと思うわけですよね。

しかしながら、上記の人たち「以下」の人々の方が圧倒的に多いわけです。単に大学を出て、そこそこの企業に勤めている(僕は優秀でも何でもないので上からの目線ではなく分析をしてみたいだけ)人たちですね。

じゃあその人々も「インストルメンタルに生きているか?」といえば、どうやらそうでもない人がいる。「口は出すけど特に何もしない」「出社したら帰宅までよくわからないナニカをしている」。「コノヒトたちは、いったいなんなんだ?」というのが、僕がいつも抱く謎。

先述した「コンサマトリーとインストルメンタル」、そして「資本主義のハッカ―」という三者が仮に優秀であるとするならば、ではこの三者が日常において、どういう行為をしているか、どういう人生観でもって、どういう思考をしているのか?と、仮説を立てて整理しみる。

本記事(=思考実験)のスタートは、大好きな「呪いと祝いの関係性について」から始まったわけなんですけれども、僕は以前から「呪いをかける人、呪いを跳ね返せない人」と「祝いを与える人、与えられる人」との間には、「どちらにも与せず淡々と契約を履行する人」がいるよな、と思って見ています。

仮にそうだったとして、その前提で「祝い=コンサマトリー」「契約=資本主義のハッカ―」「呪い=インストルメンタル」という整理をしてみてです。述べたようにこの三者が優秀であるとすれば、ほうら、やはりこの三者には当て嵌まらない人たちがいるように見えてくる。

そういうわけで、三者と同じテンプレートに乗せてみたところ、

「同調=怠慢=周囲に流されて行動する人=コンフォートゾーンに留まる生き方=反射的に考える人」

という人々がいるかな?というのが今回の気づき。

おそらく、低くはないであろう確率で、本当のマジョリティはこの人たちだと思う(念を押しますが本記事はあくまでも分析のための思考実験なので善い悪いという意味ではない)。

というのも僕は毎週、県立図書館に行くんですが、この図書館はビジネス席より遥かに多い学生席が多いのです。ビジネスエリアは満席にならないのに、学生席はコアタイムずーっと満席。皆さん本当にめっちゃ勉強頑張っている。小学生も少なくない。

僕はどうしても、どうしても、勝手に彼らの行く末を案じてしまう。

僕の場合だけかもしれないが、僕の周りには、中小企業に勤めている少数、あとは個人事業主の知人の少なくない人数が、意外と楽しそうに働いている。たぶん彼らの中に「無意識コンサマトリー」と言える人は少なくない。良いことだと思う。

経費と税金、または助成金などという意味だけにおいて、「資本主義をハック」している人も少なくない。コロナ助成金などの違法行為はダメ、法に触れない問題のない脱法を好んでやっているなら良いことだと思う。

法治国家で生きているから全員に何某かの柵 Shigarami はある。そんなことは当然。この柵の中で、滅私せずに生きてほしいんですよ。若い人には。

そんな思いから端を発しての整理でした。


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