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【ふたり色 クレオール】雑感など

こんにちは。
岡山ディヴィジョンです。

2023年10月30日に実装されたトワイライツコレクション【ふたり色 クレオール】について、とりとめない感想を書き残しておこうと思います。何を書くか全く考えていないため、右往左往した読みづらい内容になると予想されますが、それでも良ければご覧ください。


1.プロデューサーとしての在り方

【ふたり色 クレオール】では、プロデューサーのスタンスが非常に印象的でしたね。めぐるなりに舞台と向き合っていたものの、降板を視野に入れて欲しいと制作会社に告げられてしまった4コミュ目『5Y X/X』では、「めぐるはどうしたいのか」と訊ねるのではなく、「俺はこうしてほしい」と告げました。

【ふたり色 クレオール】4コミュ目『5Y X/X』より

普段なら「その子が何を望むのか」ということをとても大切にするプロデューサーですが、こうした「わがまま」を口にするに至ったのは、「プロデューサーの変化」が少しずつ積み重ねられてきた結果でしょう。

樋口円香 LandingPoint編「yoru ni」より
七草にちか GRAD編「いたい、いきてる」より
『セヴン#ス』エンディング「そうだね」より
『好きの満ち欠け』エンディング「自ら、満たす」より

(ちょっとずつ我が儘になってるの好き。あと、背景だけの抽象的な絵面ばっかりなのもシャニマスっぽくて好き)

めぐるは4コミュ目『5Y X/X』の時点で、舞台を降板するか、それとも舞台に立つのかという岐路に立たされていました。
エレベーターの上り下りは、舞台を降板(下り)することと、舞台へ登板(上り)することにそれぞれ対応しているように感じます。下りのエレベーターに乗り込みかけためぐるを、プロデューサーが制するというのは、その後にやってくる展開を象徴するかのようですね。
それに、上昇中のエレベーターの心象風景として「奈落」の背景が選ばれていたり、エレベーターの扉が開くと共に、舞台に立つ決意を固めためぐるへ歓声が降り注いだりと、エレベーターがのぼりきったことが舞台へ上がることと重ねて描写されていたのは、ほぼ間違いないかなと思います。

このシーン、とてもじーんと胸を打つような感動がありました。個人的に嬉しかったのは、「めぐると共に歩んでいく」というプロデューサーの覚悟のようなものが感じられたことです。

4コミュ目『5Y X/X』では、めぐるではなくプロデューサーがエレベーターの「閉めるボタン」を押しています。さらに、めぐるが頭を悩ませていた演技について、「絵本の主人公に合わせて演じて欲しい。俺のために」と、かなりインパクトのある発言を残していました。こうしたやりとりでプロデューサーは、「選択の責任を受け持とうとしている」ように、私には見えます。

たとえ、素敵だと感じた絵本の世界ではなく、残酷な表現が登場する原作の世界を舞台化したものであっても、めぐるが「頑張りたい」と考えていたのは真実でしょう。だからこそ、彼女は自分にできる精一杯の演技を演出家にぶつけた。一方で、めぐるが生来持つ太陽のような輝きが、演技によって「無理に曇っている」ように映り、その結果「無理している」という印象を与えてしまっていたこともまた事実です。あるいはめぐるが意識していなかっただけで、無理が生じていたのかもしれません。
だから、舞台を頑張りたいという本音と並行して、めぐるには舞台を降板するという選択肢も存在したと思います。彼女を取り巻くこうした状況は、pSR【チエルアルコは流星の】を思い出しますね。チエルアルコでは、めぐるが演じたいと考えていた異邦の少女は、降板ではなく脚本の都合で出演がなくなってしまい、そもそも出演という話自体が立ち消えになってしまうという、今回のコミュとは少し異なる状況ではあるものの、結果としてそのキャラクターを「演じることはなかった」という点において、めぐるはすでに「降板」を経験しているし、理解していると想像できます。積極的には降板したいと考えることはなくとも、今回の「サウレ」というキャラクターを、「演じることが出来ないかもしれない」という発想が彼女のなかにあったことは、間違いありません。だからこそめぐるは、降板を意味する下りのエレベーターに乗り込み掛けたのでしょう。

しかし、めぐるの中に降板の可能性があったことと同じくらい、頑張りたいという意思があったこともまた事実。だからめぐるは、それらを選べないでいました。演出家や制作会社を納得させられるような演技ができるかどうか分からないけれど、降板したいとも思わない。舞台にのぼることも、舞台から降りることもその瞬間のめぐるには選びがたい究極の二択だったように思います。

そんな彼女の代わりに、プロデューサーは「ボタンを押した」。上へ向かうエレベーターに乗ることを彼は選択し、舞台に立つことを彼は選択しました。迷っていためぐるの代わりに、彼が「選択の責任を受け持とうとした」ように、私には見えます。

また、彼の選択はめぐるの代わりに行われたというだけではなく、「彼自身の選択であった」という点もとても重要だと思います。

先述の通り、シャニマスは今に至るまでの物語の中で、グラデーションのようにプロデューサーというキャラクターの内的変化を積み重ねてきました。「アイドルたちが在りたい自分でいられるように」という、シャニマスが最初期から繰り返し考えてきたこの命題は、例えばシャニPの変化を通して「彼もまた、在りたい自分でいられるように何かを選択する人物だ」と射程を広げ、彼という人物についても再定義を行ってきましたし、イベント『YOUR/MY Love letter』ではそれが、アイドルではない一般人や私たちプレイヤーにまでその射程を広げました。
シャニマスがアイドルの主体的な在り方を大切に扱ってきたことが、アイドルたちが置かれた特権的地位が引きずり下ろされるに従い、つまり特別ではなく普通の少女たちなのだと再定義することによって、シャニマスの祈りは一般人や私たちプレイヤーに対する祈りにまで拡大してきた経緯があります。

だからこそ、「自分はどうしたいのか?」とプロデューサーが己に問い、めぐるのことを最大限考えた結果、「俺は君にこうしてほしいんだ」という自分主体な提案を言葉にしたのは、彼がまさに「在りたい自分でいられるよう」主体的に発言を選択した結果。彼が「責任」を引き受けようとしているのは単に自己犠牲的な態度ではなく、彼がそう在りたいと望み、自分の足で一歩一歩を踏みしめている何よりの証左。だからこそ、私はこのセリフで万感交々に至った次第です。

また、この一連のやりとりは1コミュ目『5Y 9/12』の冒頭、タレント同士の掛け合いを回収したものでした。

【ふたり色 クレオール】1コミュ目『5Y 9/12』より

「ボタンを押す」「お前はどうしたんだ」という、4コミュ目でことごとく回収されるこのタレント同士のやりとり、具体的な番組の風景が一ミリも浮かばないという欠点を無視すれば、短いのに示唆的な良いシーン(?)ですね。

常に最善を選択したつもりでも、曇らせないためにしたことが少女の表情を曇らせてしまうことがある。いかにプロデューサーといえど、いや、アイドルと真剣に向き合ってきた彼だからこそ、選択の重みを知っています。
例えばシーズや斑鳩ルカまわりのコミュでは、プロデューサーの立ち回りに対して疑問を呈する方もいらっしゃって、そしてその気持ちは確かに私も分かるんです。彼が選んできた言葉や行動は、必ずしも良い結果を導くわけではありません。ですが、それを知った上でそれでも何かを選ぼうとするのは、これまでアイドルを通じて再三描かれてきた、そう在りたいと願う想いの美しさであり、強さであり、儚さではないでしょうか。不条理なことばかりで、どれだけ切実に願っても成就するとは限らない少女たちの願いが、それでも存在するだけで輝いて、誰かの心に光を届けてくれるなら、例えそれが想いの成就を伴わないものであっても、尊いと私は感じます。

今のプロデューサーが出した、プロデューサーとしての在り方。それは「共有する」ということでした。嬉しい経験も、辛い経験も、前向きな選択も難しい決断も、めぐると、そしてプロデューサーの二人が選択していく。

八宮めぐると、プロデューサー。
異なる価値観や色が混じり合うことが、正解のない世界を進んでいくための灯台のように、二人を照らしてくれる。そうであって欲しいと切に願いますし、カードタイトル【ふたり色 クレオール】やTrueEnd『いろ いろ』には、そんなふたりが持つ色に対する祈りが込められていたように、思えてなりません。

2.「どうしようもない世界」

TrueEnd『いろいろ』にて演出家が語った言葉は、どうしたって斑鳩ルカ加入以降のシャニマスについて想いをめぐらせてしまうものでした。

演出家の言うには、狭い世界を描く舞台は、狭い世界でしか呼吸できない人のためにやりたいとのこと。不条理で暗い世界を描く物語は、そうした物語でしか救えない人に手を差し伸べることができるのだ、と暗に語っています。この感覚は、個人的にはとてもよく共感できます。多少なりとも人は、心に傷を持っていて、その傷がひりついているうちは、美しく輝く世界を素直に受け取ることはできません。薄っぺらな理想や、嘘っぱちを見ているような気持ちになってしまいます。だからこそ、暗くて狭い世界を描く物語は、自分を肯定してくれるような気がする。そこには、少なくとも自分が信じられるだけの「本当」があるように感じられるからです。

黒、闇といったものでしか、手が届かない心がある。

これは、斑鳩ルカの加入に象徴されるような、現在のシャイニーカラーズのトレンドだと思います。

例えばイベント『バイ・スパイラル』では、これまでの283のアイドルたちを「光の魔法使い」とし、ルカのような傷ついた心の持ち主を「闇の魔法使い」として、この光と闇の対比を物語の中心に据えました。傷だらけの身体を見せることで、初めて他者から差し伸べられた手を受け取ることが出来る人がいる。Aちゃんというモブキャラは、まさにそうした人物として描かれていました。

ところで人はよく、「不条理=真実」という明らかに誤った図式に囚われてしまいます。こうした誤謬に陥るのは、不条理な経験によって世界全体が歪んで見えるためでしょう。世界は残酷だから、何をやったって無駄。努力が報われている人がいて、生まれながらに幸せな人がいて、もっと言うなれば努力で不幸を振り切った人だっているなかで、それでも世界全体がいびつなものに見えてしまうのは、人の心が弱いからだと思います。その気持ちは、とてもよく分かります。

そうした心の傷を救うことが出来るのは、同じような想いを抱えているルカだけなのかもしれない。だとしたら、そうした人たちに光を届けられない283のアイドルたちは無力で無意味で、無価値で不要でしょうか?不条理という世の真実から都合良く隔離された、薄っぺらな存在でしょうか。そうした感想を抱く人もいるでしょうが、私は断じて違うと思います。

なぜなら、不条理とは世界の真理ではなく、一側面に過ぎないからです。

ルカにしか救えない人がいるのと同じように、めぐるにしか救えない人がいる。ルカにしか放てない魅力があるなら、めぐるにしか光を当てられない想いがある。それらは、どちらかが真実なのではなく、光と闇が存在しているというただそれだけのことなのです。

シャニマスはこれから、「闇」の想いにスポットを当てていくのでしょう。しかしそれは、これまで積み重ねてきたシャニマスの世界を否定することではありません。めぐるをはじめとした283のアイドルがいてくれるからこそ、どうしようもない世界を少しだけ信じられる。そんな人だって、きっといるんです。私のように。

「光」も、「闇」も。
同じくらいに、とても大切で重たい。

【ふたり色 クレオール】というコミュで私は、そうした事実に向き合っていきますというシャニマスの所信表明を見た気分でした。


3.「バイ・スパイラル」の愚痴…ではないんだけど…

シャニマスの所信表明を見せつけられたような気分になって、個人的にすごく嬉しかったこの【ふたり色 クレオール】なんですけど、肝心の「闇によって救われる人」の描写については思うところがありました。『バイ・スパイラル』の、Aちゃんのシーンです。

『バイ・スパイラル』エンディング「無限遠より」より

これ、いくら何でもAちゃんの救済を軽く書きすぎじゃない!?!?!

と、私は正直不満でした。

流れとしては、甜花との唯一の繋がりであったゲームのアカウントを消去してしまい、完全に他者との接続を失ってしまった「A」が、キラキラと輝くものでいられない自分へ嫌悪を募らせていた最中、SNS上で話題になっていたルカの姿を見かける、というものです。他者を拒絶し、明るくないその姿に、「A」は救いを見いだす…というものなのですが。

ルカによる救済が、与り知らぬところでルカに対する偶像崇拝的になされているというのは、百歩譲って良いと思うんですけど、「A」が救われた理由が歌でもなんでもなく、怒鳴っている姿の盗撮ってどうなんでしょう?いくらそこに自分の感情を見いだしたにしても、誰かが街中で怒鳴っているムービーに共感して救われたような気持ちになるって、あまりに荒唐無稽じゃないですかね?少なくとも、自分だったら…が私には想像できませんでした。
Aちゃんの抱えたひずみが、過度にカリカチュアされているような、ちょっとどうなのかなという描写に思えてしまいます。

たとえば、ルカが怒鳴る姿に救済を見いだすにしても、せめて直接その姿を目にする、とかの方が良くないですか?ご都合主義になったとしても、その方が誠実なように思えてしまいます。例えばですけど、

①アカウントを消して、甜花との繋がりを失った「A」は、同級生のSNSでランタン祭りのことを思い出し、甜花もこの祭りに参加しているかもと思う(甜花が祭りに言及していたため)。会えるはずはないのに。それでも、一言謝ろう。もしかしたら明るくなる第一歩になれるかも…そんな期待を込めて。

②祭りの会場に着いた「A」と、何となく会場にたどり着いてしまったルカ。二人は別々の場所から、283アイドルのステージを見る。

③やっぱりキラキラした側にはなれない。283のステージから逃げ出す「A」。

④尾行していた記者から声をかけられる。「同じ事務所のアイドルのステージを見学ですか?」逃げ出すルカ。

⑤記者を拒絶して、祭りの会場内で怒号を発するルカ。その姿を見かけた「A」。こんなキラキラに溢れた世界でも、それを拒絶している人がいる。その姿に救われたような気持ちになる。

⑥記者が口にしていた「斑鳩ルカ」の名前を検索し、祭りの会場から逃げ出した「A」が曲を再生する。「神様は死んだ、って」。その暗いメッセージに打たれ、帰路「A」は涙する。「明るくなくても良いのかな……」

最低限、「A」がルカによって救われる説得力のある描写が欲しかったです(上の一例がそう出来ているとは言いませんが)。一方で、Aちゃんがアカウントを消すというのは、悲劇的ではありますけど生臭い優しさを感じてすごく好きです。不器用で、報われてこなかった人物なのかもしれませんし、時にはぎょっとするような暴言を吐いてしまうほど余裕のない人物でもあるのでしょう。けれど、悪人ではない。そのバランスが、僕はすごく好きです。

ごめんね、愚痴っぽくなっちゃって。

【ふたり色 クレオール】はとても大好きなコミュなんですが、シャニマス全体を俯瞰してみたとき、現状では少し説得力に欠けてしまっている部分があるかなと感じています。

ただ、これは【ふたり色 クレオール】というアイドル個人にフィーチャーしたシナリオを、過度に一般化してシャニマス全体に置き換えた場合の話であり、正直こじつけな側面はあると思っています。

個人のカードコミュとしては、めぐるの様々なコミュを連想させるモチーフ、峯田茉優さんの抑え気味ながら感情を揺さぶってくる演技、展開や台詞回しなど、途轍もない満足感をもたらす一枚であること請け負いなので、まあこのnoteを読んでいる人でそんな人いないと思いますけど、死に物狂いで確保してください!

私からは以上です。

書き殴りなので乱文誤字脱字失礼。

それでは~~~~!


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