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【三文ノワール】雑感

こんにちは。
岡山ディヴィジョンです。

そこのお前!!!!!!!
シャニソンで忙しい手を止めて今すぐ【三文ノワール】黛冬優子を読みなさい!!!!!!!

(本稿の主張としては以上となります。お疲れ様です)

てなわけで、『アイドルマスター シャイニーカラーズ Song for Prism(シャニソン)』に沸き立つTLを尻目に、2023/11/13実装の限定P-SSR【三文ノワール】について、感想を書いていきたいと思います。例によってとりとめのない、「さんもん」ならぬ散文的な内容になろうかと思いますが、良ければご覧ください。

1.冬優子とふゆの同化

ここ最近の冬優子にまつわるコミュでは、「冬優子」と「ふゆ」という二つの側面が、同化しつつあると提示されていたように思います。

【starring F】などで語られていたように、そもそも「ふゆ」というのは彼女なりの処世術でした。「現実と折り合いをつける手段」であり、冬優子にとっての「外殻」のようなものだったと思います。
乱暴な表現を使うなら、「ふゆ」というのは「偽りの自分」だったわけですが、彼女がアイドルとして様々な出来事を経験するに付け、「ふゆ」の存在は単なるペルソナではなくなっていきました。そう、アイデンティティの一部になっていったのです。そうした彼女の歩みが色濃く表れたのが、マイコレ【名モナキ夜ノ標ニ】や黛冬優子STEPでしょう。

【名モナキ夜ノ標ニ】では、あくまで「黛冬優子の時間」だけを描いており、「アイドル・ふゆ」には言及されません。しかし、二つの側面の一方だけを描くことで、翻って「ふゆ」の存在を感じさせるというおしゃれな構成になっていました。すき♡

例えばTrueEnd『我〉-汝〈』において冬優子は、「この歌で世界を変えてやろう」という熱い想いを滾らせていた(アイドルの)自分やスタッフに対し、「うっさ」と相対化するような発言をしています。もちろん本当に鬱陶しいと思っているわけではなく、TrueEndの冬優子はアイドルの時間に身を置いていないため、照れ混じりなのか、ちょっと突き放した場所から「アイドル」をみているのでしょう。
しかし、そんな彼女が街頭モニタに映し出された「ふゆ」の姿に気づく。アイドルではない冬優子の夜にも「ふゆ」はいました。冬優子の時間とふゆの時間は、それが冬優子の裏表であるならどちらか一方ずつしか表に出てきませんが、そうではありません。すでに両方が冬優子のアイデンティティになっていて、だからこそ、その夜に「ふゆ」の姿をみとめることができたのだと思います。

【名モナキ夜ノ標ニ】ではそんな冬優子が、ソロ曲収録に向けて気合いを入れ、自分の時間に現れた「ふゆ」に対して「改めてよろしく」と声をかけるところで幕を下ろしました。

これを回収したのがSTEP。コミュタイトルはそのままマイコレTrueを拾って『〈我-汝〉』というものでした。おいおい、共通コミュで準限定コミュの回収なんてことやっていいのか?(いいわけないだろーっ!)

黛冬優子 STEP編『〈我-汝〉』より

STEPでは、キーアイテムである「マスコットのキーホルダー」と重ねて、冬優子の心情が描かれます。
「いつものふゆを見せる」と気負って、精神的に追い詰められていた彼女は、マスコットのほつれに気づきながらもスルーしました。冬優子の心にも生じていたほつれ(ストレス)はその後、とあることをきっかけに爆発してしまいましたね。やっぱり冬優子WINGはすごいな。

これに対し最後のコミュである『〈我-汝〉』では、ほつれたマスコットについてこのように言及しています。

「売ってないから、直しながら使うしかない」

マイコレでは二つの側面が同化を始めていると示唆されました。はじめは現実と折り合いをつけるための手段として存在した「ふゆ」は、紛れもなく冬優子のパーソナリティの一部になっていたわけです。アイドル活動を通して彼女が積み重ねてきたことでもあるでしょう。
そうした進歩を経て、冬優子は上記のような発言をするに至りました。

マスコットが冬優子自身に重ねて描かれているとしたら、この発言はこのように読み直すことが出来ると思います。「自分自身は取り替えがきかないから、たとえ傷ついたりうんざりしたりすることがあっても、手入れしながら付き合っていくしかない」。これは彼女なりの自己肯定の言葉であり、「冬優子」と「ふゆ」が不可分一体の「黛冬優子」という存在に収斂したことで、遂に口に出来た言葉だったと思います。「今のあんた、悪くないわよ」というのも、同じく自分を肯定する言葉ですね。

ここに、はっきり「冬優子」と「ふゆ」の同化が描かれたと私は考えています。STEPの前に実装されたサポートSSR【浮遊回帰線】でも同様に、ストレイライトの生の姿が評価されるというシーンがありましたね。限定あおり失礼。

てなわけで私は、【三文ノワール】が実装されるより以前、冬優子に対して以上のような印象を抱いていました。こうした「外殻との同化」というテーマはストレイに共通する要素なので、てっきりイベントコミュで回収されるものと思っていましたが……(Wintermute,dawn自体はすごく良かったですけどね!)

2.プロデューサーは不要?

時に冬優子を支えた「ふゆ」という存在は、冬優子と緩やかに同化し、言うなればアルティメット悟飯を吸収した魔人ブウ(悪)のような状態。誰もその輝きから目を逸らすことは出来ません。

さて、そんな時期に実装された【三文ノワール】では、黛冬優子に対してこんな問いかけがなされます。

「女優にならないか?」

【三文ノワール】3コミュ目「きみはまだ何も聴いていない」より

いや~~……これにはドキッとしましたね。ドキドキッ。こんなドキッとする問いかけを投げつけてくるな。

映画監督、助監督、あるいは共演者さえもが口を揃えて、冬優子を「天才」だと評しました。これまでアイドルという職業柄スポットが当たりづらかった「演技」の才能。冬優子は抜きん出た資質を持っているようです。これは前節にて触れた「ふゆと冬優子の同化」が起因しているように感じています。

単なるペルソナとして存在した「ふゆ」は、WING編でカメラマンが指摘したように「本物ではなかった」と思いますが、それを冬優子は徹底的に考え、努力し、本物にしてしまいました。彼女は黛冬優子として生きると同時に、「アイドル・ふゆ」としても生きようとしたわけです。その果てにあったのが冬優子とふゆの融和でしょう。
こうした彼女の姿勢は、役柄を理解し、役柄として生きようとする「役作り」や、その先にある「演技」に通ずるものがあります。冬優子にある演技の資質は生得的なところだけでなく、「アイドル・ふゆ」として生きようとした彼女のこれまであってのものだと思います。

冬優子の前に提示された「女優」という道は、プロデューサーの存在意義に揺さぶりを掛けてきます。えぐいって。

プロデューサーが語るように、アイドルとプロデューサーはコインの表裏のようなもの。冬優子とプロデューサーがこれまで、二人三脚で頑張ってきたことが何よりの証左でしょう。
ところが、冬優子が「女優」の道で資質を花開かせる時、単なる外面としての「ふゆ」が冬優子には不要になったように、プロデューサーの存在も不要になるのではないか?そうした、なかなか真っ正面から捉えるには勇気の要る問題が立ち現れます。

こうした予感が、冬優子にこのセリフを言わせたのではないでしょうか。

アイドルとして走り始めた冬優子には、プロデューサーの存在が必要不可欠でした。WING編での挫折や、ユニットメンバー(特にあさひ)との折衝など、彼がいなければ冬優子はくじけていたかもしれません。だからこそ彼女は、プロデューサーに絶大な信頼を置いているわけです。

ところが、「女優」の道に彼は要らないかもしれない。なかなか、すっと飲み込むには勇気の要る想像です。
しかし、もしプロデューサーがカメラの中に入ってしまえば?彼が裏方ではなく、表現を形作る一員になることができれば、女優の道を共に進むことも出来るのではないか。……と、ここまではっきりとした願望を抱いていたはずもありませんが(この発想には、物理的な障壁が多すぎる)、そのような予感がくすぶっていたのは冬優子の表情を見るに明らかです。

彼は、(当然ですが)その申し出を断ります。

そこにあるのは、アイドルとプロデューサーということ以上に動かしがたい隔たりでした。胸がきゅっとなるよね。お話としてのテイストは全く異なりますが、【水色感情】杜野凛世を連想したのは私だけではないのでは?

3.映画の「結末」

冬優子が出演した映画の「結末」は、はっきり描かれませんでした。そのぼやかし方はどこか突き放したような印象さえあり、こちらに投げかけられた余白は私のおつむ(キャパシティ)には酷なほどです。う、うぐおおおお~~~~~…………。

冬優子が演じる特殊な力を持った少女「ユウコ」は、「主治医」と共に衆生の救済を目的とした旅をしています。しかし少女は、もはや延命もままならない不治の病に冒されていました。
そんな彼女らの前に、ユウコを永遠の存在にしうる「義体」を提案する男。提示された選択を前に、彼女が下した結論とは……。

ユウコを肉体的に永遠とする選択(義体)は、共に旅路を歩む主治医との訣別。この選択は、【三文ノワール】においては冬優子とプロデューサーが訣別して生きていく「女優」の道に重ねてられている、と見ることができるでしょう。
それに対して、義体を拒み、朽ちゆく肉体で主治医との旅を続ける選択は、消費され、時間の移ろいに儚く飲み込まれていく「アイドル」の道に重ねて描かれています。

個人的にキツいな(褒め言葉)と思うのは、主治医にはユウコの肉体を決定的に完治させることは不可能であるという点です。冬優子が映画監督に語ったように、彼女は「アイドル」という映画とは異なるアプローチで永遠に挑んでいくとのこと。それがどのような方法なのかは分かりませんが、注目したいのはその時プロデューサーがどうしているのか?ということです。不治の病を癒やせないのと同じように、プロデューサーにはアイドルという存在の儚さを払底する力はないということでしょう。

映画の結末をプロデューサーはすごいと語りました。それが、果たしてどちらの選択を描いたものだったのか。元の肉体か義体か。アイドルか女優か。真相はおそらく明かされることはないでしょうが、そのどちらであっても、そこに宿るどうしようもない切なさには胸を打たれます。

もし、少女がそのまま旅を続けていたら?自分にできることの限界を痛感しながら朽ちるそのエンディングを、冬優子は「良い映画」だと評せたでしょうか。
もし、少女が肉体の限界から解放され永遠となっていたら?「そのもの」が「そうではないもの」に置き換わってしまう、倫理観を揺さぶるその物語を、その「永遠」を冬優子は肯定したでしょうか。

映像の中に生きる「幽霊」は、なるほど時間から解き放たれた永遠の存在かもしれません。映像の中では、決して花は枯れない。一方で、スクリーンにそれを見る生の世界は、色彩の欠いた残酷な現実なのかもしれません。儚く消費されていくアイドルは、そうした世界に戦っている。

【三文ノワール】のイラストでも、永劫咲き誇らんとばかりに鮮やかな紅葉が、映画のスクリーンのようにフレーミングされています。それに対し冬優子は、驚くほど色彩を抑えた場所で物憂げな表情を浮かべている。色調はほとんど白黒に近いですね。冬優子がこれからも歩み続ける「現実の世界」というのは、かくも救いのない場所なのかもしれません。

……と、「映画の結末はどっちだったんでしょうねー」と濁して終わるのは勿体ない気もするので、私個人の願望も述べておきますと、描かれなかったラストは「ユウコが永遠を選ぶ」というものだったんじゃないかなーと思ってます。
根拠らしい根拠なんてないんですが、アイドルに非人間的な存在力を求めてしまうのは自然な心の動きであり、アイドル個人と向き合おうと努めているシャニPでさえそれは例外ではないと思います。そうしたまなざしは、やがて映画監督の言うような「消費」へと繋がっていくのかもしれませんが、誰しもが持つ、持ってしまう目線でもあると思います。
永遠を選ぶ。肉体を捨てる。そこに、およそ自分と同じ「人間」とは思えない覚悟のすごみを感じたとき、きっとアイドルがステージで輝くのを見るのと同じような素直さで、「すごいな」とプロデューサーは感じたのではないでしょうか。それは、ユウコの魂がどうなってしまうの?倫理的な問題は?映画の結末として破綻してはいないのか?といった問題をすっ飛ばした、プリミティブな感想だったように思います。

「本当に?」

冬優子にそう問いかけられた以上、プロデューサーは自身の直感と向き合う必要があります。俺の直感は正しいのか?直感に反する選択をするという道はないのか?そうした自問自答はもしかしたら、【三文ノワール】を通して冬優子が行った自問自答に近いのかもしれません。

これから先もプロデューサーと冬優子が共に「アイドル」の世界を突き進んでいくのなら、プロデューサーは、そしてシャニマスを愛する僕たちもまた、この問いかけに向き合い続ける必要があるのかもしれませんね。
冬優子がアイドルで居続けてくれること、シャニマスというゲームが続いていくこと、容易く永遠を望んでしまうこと……そうした、直感的な心の動きと。

4.おまけ

さくっと感想書いてガシャ回してみんな~~~~~と言うつもりが、余裕でガシャ期間に間に合いませんでした。おバカ。

思ったより長くなったので、【三文ノワール】から連想した【ふたり色 クレオール】についてとか、シャニマスとシャニソンについてとか、まあ、書いたってそんな大した内容じゃないってのとみんな書いてくれてるってのもあるので、カットです。
ただ、トワコレめぐると非常に対照的なお話だなぁという風には感じましたし、「舞台」という形に残らないものと、「映画」という形に残るもの、というモチーフ選びも中々示唆的なのかなと思ったりしたので、誰か気が向いた方は考えてみてください。


いやぁ~~~~俺、黛冬優子さんのこと好きなのかも!!!


以上です。おつかれさまでした~。

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