【イラストストーリー部門】Beyond the Loop【短編】
【あらすじ】
遠い未来、火山活動により従来の生活が出来なくなった未来。
三上 累(みかみ るい)は母である三上 綾織(みかみ あやり)と二人で暮らしていた。
累は外に出たこともなく人と接することもなく育つ。その時間を勉学に宛て、六歳の頃には大学生以上の知能を持ち合わせていた。
それから十年後の誕生日。母から何故父が居ないのか、自身が外に出たことがない理由を聞く。驚いたがそれは累を護る為のものだった。自分の出生ついてを知り、母と二人で新しく人生を歩もうとするところへ、一人の人間が転がり込んだ。それは全く同じ顔の自分。
そして未来を変えなければ母が死ぬこと、そして自分が実験体にされることを聞かせれ。母と自分を救うために奔走する。
だがそれは次第に自分には変えられないのだと気が付く。諦めて実験体になるか、死ぬ他に道はなかった。
最後にせめて学校に行きたいと累は願い、何も考えずに時代を移動した。その先で一日だけの学校を過ごす。
だがそこに追ってが迫り、自分の最後を受け入れる。
一章
人生をやり直したい。
そう思ったことは私にはなかった。何故なら相応に恵まれた環境におり、大好きなママが居て、これ程好きな物が溢れかえる世界に私自身が生きている。それだけで生きる理由は十二分にあった。だから人生をやり直す必要性を感じない。
だが、幸せには期限があるのだと思う。コップに水を貯めていけば、いずれ溢れかえってしまう。その零れ落ちた水をまたコップに戻したところでまた水は溢れていく。そうして幸せは零れ落ちていくのだ。
小さな幸せ。大切な幸せ。何よりも代えがたい幸せ。それが零れ落ちてしまった時、果たして私は同じことを云えるだろうか。
二章
窓の外を眺めていた。
高層に聳え立つこの一室の窓からでは、空と乱立するビル群しか見ることは叶わない。ベランダでも設備されていれば手摺りから顔を覗かせれば、百メートルを優に超える真下にも人が歩く姿も確認は出来ただろう。だがこの大窓にベランダは備わってはいない。安全基準等に難しい話があるのだと昔、ママが話してくれた。
何よりベランダが設計されていないにしても困ることはない。空調設備により外の風を取り込み、部屋に居ながらまるで外出しているかの様に爽やかな空気が通り抜ける。洗濯物も洗濯機が自動で乾燥し、陽に当て続けるのと同等の乾燥を行う。
私のより前の世代は、外に洗濯物が干せないことに不平を漏らしていたがそうした人種は気がつけば居なくなっていた。亡くなったのかどうなったのかは知る由もない。
「累」
名前を呼ばれ私は振り返った。そこには私の大好きなママが立っていた。
歳はもう七十二歳になった。数十年前にはこの歳になると大抵は歩く速度が鈍足になり、人によっては歩くことすらままならず、場合によっては寝たきりの生活をしていたらしい。だが現在は医療技術が発達し、若々しさも暦を重ねることも思いのままになった。
だがママは、年相応に顔には皺が点在し、絹の様に白く右手にふんわりと掻いた様な髪。手はいつ見ても血管が浮き出ていた。十歳の私にはその姿は年寄りそのものに感じられる。
一度だけ、六歳になったばかりの頃、ママに他の人同様に若々しく身形を整えないのかを訊ねたことがあった。私にとってのママは皺のある白い髪の姿であり、皺のない若人になって欲しかった訳ではなかった。ただ、純粋に疑問であった。するとママはふと笑みを浮かべ、私と同じく年を取りたいのだと頭を撫でた。枯れた葉の様に骨が浮いた手。それに撫でられることに抵抗はなく、寧ろ、大好きな手だった。その意味を理解することはなかったが、ママに撫でられたことが嬉しくてよく記憶に残っている。
「また外を見ていたの?」
声にも衰えを感じさせるが、動きは補助道具もなしに十二分に年齢以下の歩行能力である。
私の横に立ち、共に空を見つめる。
鏡の様に硝子に反射する私とママの姿。背丈もママの三分の一程で、正反対の黒く肩よりも下へ続く癖のないストレートな髪。瞳の色も薄っすらと赤紫色。何よりも異なるのは、私の鼻の周りにそばかすがある事。だがどちらも薄い肌の色は親子らしく似ている。
服装も僅かにクリームイエローが練り込まれた色合いのワンピース姿の私。ママは淡いグリーンのパンツ姿。まるで花の様な組み合わせだ。
「今日も天気はよくないわね」
空は今日も曇天だった。雲が陰り陽の光は差し込ませない、重々しく黒い雲が蔓延る空。
私は青い空を見たことがなかった。
それどころか夕焼けも、星空も目にしたことがない。否。目にすることは叶わなかった。数年、ずっとこの雲が居座っている。晴れ間もなく、雲の隙間もない。
その原因は火山だった。大規模な火山噴火が数年ごとに頻発し、その噴煙と火災により、大気は中を覆う程の雲となり未だ上空を覆っている。
それ故草木も育たず、広大な土地に広がった植物は今では見る影もない。それどころか地上は空気が淀んでいて、防護マスクをしなければ息をすることもままならなかった。
それがママの世代の話である。今は街中には至る所に巨大な空気清浄機が乱立し、淀みを浄化している。最も、地下の整備が進み地上を歩かなければならない状況は余程のことがない限りあり得ない。
植物も以前は育たなかったがガラス張りのドームに草木は植えられ、その中は太陽光を再現した陽が当たり、道すがら季節ごとに花が咲いている。穀物も同じ原理を用いて、地下や巨大な施設にて生産されている。
これらは全てママが研究に関わっている。天才科学者として数々の賞を受賞し、現在に至るまでの生活基盤はその成果である。太陽光の完全な再現や空気浄化の原理、さらには医療技術の発達にも貢献した。
何をしていたのかまでは私はあまり記憶していない。わざわざ記憶するまでもなく、脳に埋め込まれた記憶媒体及びネットワークによっていつでも研究成果を閲覧することが出来る。これもその研究のお陰だ。
しかしママはそんな世界を憂いていた。便利に成り過ぎたこの世界は果たして正しいのかと。横顔には常に影が落ちるのだった。
「私、いつでも空を見れるよ!」
ママの方へ向き、両拳を作り胸の前で引いて見せる。
脳内媒体からネットワークに繋ぎ青空を検索すれば、いつどんな場所に居ても瞳には空を映し出すことが出来る。勿論本物の空ではないが、私はママと同じ青空を知っている。
その私を見たママは眉尻を下げた。その表情はとても嬉しげには見えない。どちらかと云えば心悲しげである。喜んで欲しかった筈なのに、逆に困らせてしまった。俯く私の頭にそっとママの手が乗せられる。
「それならよかったわ」
頭を撫でながら、優しくにこりと笑む。
何と伝えれば善かったのか。私は青空が見られないことを悲しむことはない。現に、今も瞳には青空が映し出されている。ママが目にしたのと同じ空なのに。どうしてそんな表情をするのだろう。
笑っていて欲しい。大好きな、ただ一人の私のママ。
「さあ、ご飯にしましょうか」
タイミングよく両手を合わせる声は、先程とは打って変わり明るかった。
私は心の蟠りを晴らすことは出来なかったが、目一杯の笑顔で頷いた。
競争をする様に私は大窓から離れたテーブル席へと走る。その距離は子供の歩幅で十数歩、大人の歩幅では数歩の短い距離だ。
直ぐ様テーブルに辿り着き振り返った顔にママの両手が伸びる。そのまま頬を包み込む。しわがれた手は温かく、私はその手の甲の上から自身の手を重ねた。
「今日は好き嫌いせずに食べれるかしら?」
「んー、わかんない!」
笑い合いながら、揃ってテーブルに向かい合わせとなって背もたれのある椅子に腰を下ろす。私の肩まである机の足は長く、椅子も私の為に敷物が引かれている。それだけに元より床へ着かない足は、さらに宙に浮いている。パタパタと足を揺らしテーブルを見渡す。
食事と云っても案外質素なもので、栄養食とママのお手製が二品並ぶだけ。ママはあまり料理は得意ではなかったらしいが、私の為に一からレシピを学び、今ではレシピを見ずに料理を並べる様に成った。
栄養食はいつも通りのブロック状の固形物。色はクリーム色で口に含むと噛まずに溶け出し栄養価が高い物だ。一般的に食事とはこれを指す。流通を始めた頃は、咀嚼する必要がなく顎の筋力が落ちるとされていた。現在は筋肉の動きを補助させる注射や電流を用いて活発化させることでその問題は解決された。
鼻を近づけるとほんのりと果実の香りが通り抜ける。今日はフルーツフレーバーだと確信した。これならば食す気にもなる。
そもそもとして、これは栄養を補う程度であり食事とは呼べない。噛み締める心地も、味わう楽しさも感じられない。所詮は紛い物。だから食べる気は起きない。
なのに食事はみなこうなってしまった。食事処は営業しているが多くの人はそこで食べる必要性を感じないらしく余程の高級レストランか、食べる事に固執せずパフォーマンスとして提供する処だろう。
その内食事を楽しむことが失われていった。
ネットワークに残るデータではもっと多くの料理が存在し、間食や甘味も溢れんばかりにあった。料理も国ごとに異なるらしいが、今は発展することはなく退化を辿る。
だからママは私に食べる楽しみを知って欲しく考え、料理を覚えた。初めて作ってくれたのは、昔は誰でも作る事が出来たおにぎりだった。形は歪で、知っている三角形ではなかった。強いて云えば、丸形である。人工塩味成分ではなく、今では高価になった塩を使用した。米の匂いは判別する事がなかったが、口に含むと米の粒の食感一つ一つが口一杯に広がり、噛み続けるとほのかな甘味がわずかに感じる。使用された塩はおにぎりのグラムに対し少量が含まれ、それがまた米の甘味を引き立てる。初めて口にした塩は想像よりも塩味が強く、尖っている様に感じた。
口の中が賑やかで、私は楽しくなった。これが食事なのだと。
溢れんばかりの笑顔で私はママに美味だと伝えた。それからまた作って欲しいと付け加え。
ママはそれから本格的に料理を作り始めた。始めは歪な物から少しづつ上達していき、現在に至っては料理人顔負けの手料理を拵える。
最も、私は料理人の料理を口にしたことはない。シェフと呼ばれるのだとか、そんな人物をこの家に招いたこともなければ、食べに行くこともない。
子供の両手を目一杯に広げた程度の皿の上には肉を挽、さらに押し潰して焼いた握り拳程の液体の乗ったハンバーグとレタスが散りばめられる。もう一皿は、母の手程の大きさにじゃが芋を蒸かし潰したポテトサラダに人参や胡瓜が彩りを飾る。
テーブルに並んだ料理が私の食欲を掻き立てる。早く口にしたい、そればかりだった。ママが見かねて自身の胸の前で両手を合わせる。それを慌てて真似した。
「いただきます」
「いただきます!」
言葉が終わったのが速かったのか、はたまたフォークを手に取ったのが速かったか、口の中にはハンバーグが含まれていた。
口の中に肉汁が広がる。油分に過ぎないが、それにも風味や味があり塩味と香辛料に加えそれに付随するソースが芳醇さを押し上げる。漸く肉の舌触りを覚えた。固形でありながら柔らかく噛む力を込めるだけで崩れてしまう。肉本来の味に油分が合わさりしっとりとした食感に、滑らかさまでも生まれる。それら全てを包み込むデミグラスソースもママがレシピ通りに作っている。味覚に嗅覚を総じて刺激するママの料理は、栄養食とは異なって私の心は跳ね回っていた。もし私に羽が生えていたのならば、見事に宙を飛んでいた事だろう。
止まらぬ手を、ママは嬉しげに見つめた。
「お行儀が悪かった?」
はたと手を止める私にママは少し考えていた。お世辞にも貪欲に食す様は行儀が善いとは云えないが、それもママの前だけだ。それ以前、ママ以外の人の前で食事をした事など無い。
レストランにも食事処にも行った事がない。それどころか、私は外に出たことが、記憶している限りで一度も無い。必要性を感じなかったことも一つの要因ではあるだろう。
だが大多数を占めるのは、ママが私を外に連れ出さない事。インフラも設備も整った部屋から出すのは勿論、外界状況がこれ程荒んでしまえば外を歩かせる行為自体を危惧する事は当然である。ならば空気の澄んだ部屋に居続けるのが親心としては安牌だろう。たったそれだけの話。
「食べる事は楽しいかしら」
「うん。私食べる事も好き!」
首が降り切れる勢いで縦に振る。もっと力強く、より伝わって欲しい。それを伝える術を、私は身振り手振りでしか、まだ表現しきれていない。
「嬉しいわ。でも栄養食も食べなければね?」
ママの言葉に身を引いて首を傾げる。
「それは、ちょっとなぁ……」
日常生活においての必須栄養素は栄養食で賄われているのが現代であるならば、食すべきではある。
だがどうにも食事に慣れてしまうと、口の中がパサつき水を必要とする処、食感も直ぐに溶けてしまい楽しめない事が好きになれない。いっそこれが飲料であれば善かっただろうに。
ポテトサラダまでも完食し、残るは栄養食のみとなっていた。もっとママの手料理を口にしたいが、胃の容量はそれを拒絶する。仕方がなくフォークを置き、手を伸ばす。触り心地はざらざらとして、触れた程度は型崩れもしない。
横長で掌程の大きさの両端を掴み、下方向へと力を加える。子供の力で簡単に割れ、右手に持った片方に噛り付く。口にした途端溶けて無くなるのは、大変味気ない。少し評価をするのであれば今日の物は比較的フルーツの風味が強く、デザートと呼ばれる物と考えればマシな方だった。
もう片方も口に放り込み、咀嚼の様に口を動かし嚥下する。
「ごちそうさま!」
口の中には残っていないアピールとしてにっと口角を釣り上げた。
よくよく口を確認したママも残骸がないと解ると頷いた。
「よく食べました」
それが済むと私は立ち上がり食器を一つに重ね、リビングから程近いカウンターのキッチンにあるステンレス製のEシンクの中に置き、蛇口からUの字を逆さにした水栓から水を流した。
水栓は自動的に飲み水と洗浄物を判別する。今は洗浄物であると判断され、水圧で汚れを落とすと除菌液を散布した。除菌液も人体に害のない様に設計されており、また水を使用して流し落とす必要がない。その後、Eシンクの縁に設置された送風によって乾燥させ終了だ。最後に人の手で食器棚に仕舞えば元通りである。
私は汚れが流れ落ちていく様を見るのも好きだった。水によって食器が顔を変える処も、新品同様に綺麗になる様子も見ていて気持ちが好い。
人の手で洗浄されていた食器は、機械が代行し、また独自の進化を遂げ機械を置かずとも洗浄してくれる。それすらも嫌がる人も存在するらしいが、人の手間がかからないこの一連の流れのどこに不満があるのか疑問でならない。
高が食器の洗浄に時間を掛けたくない。そうしてこの技術は生まれたのだから肖るのはごく自然なことだ。
「綺麗になったよ、ママ」
洗浄は瞬く間に終わりを告げた。私はそれらを拾い上げ、真後ろの冷蔵庫の向かって左にある大の大人一人分の食器棚に仕舞おうと足を延ばす。だが食器を収納する戸棚は私の背丈では背伸びをしても引き戸の持ち手にすら届かない。懸命に踵を高く上げるが、どうにも触れる気配がない。
テーブルの上を拭き終えたママが、キッチンに入り流れるままに戸棚を開ける。こうなっては任せる他ない。種類ごとに食器を重ね一組ずつ手渡していき、棚に並べていく。戸を締めて片付けは終了した。
ママはそのまま台拭きの布を手で軽く洗浄しシンクの中の脇に掛けるのを待ち、私とママはキッチンを後にする。
私は先程座ったテーブルにタブレット端末を置き、椅子に座り直した。電源のボタンを触らずとも私を感知し、独りでに画面が点灯する。
そこには幾つもの教材が並び、私は数学と表示されている項目を脳内で選択する。画面は切り替わり、学習難易度ごとに表示される問題集が表示された。
この一連の流れは一見すると魔法にも見えるらしいが、脳内のネットワークを介しているだけの簡単な仕組みだ。世間にこの技術が発表された当時は、魔法だと称されたそうだ。手を使う事なく脳内だけで完結する、これは画期的な技術だった。手の使用が困難な麻痺を残した人間、脳だけが覚醒している人間、そうした人間の桟になった。勿論手を酷使する作業を行う人間にも評価が高かった。
それからネットワーク端末の発達が進み、今ではタブレット端末無しで瞳の中で完結する様に成った。学習も手を動かさずに脳内に情報が伝達されれば紙もペンも必要がない。
しかし私はママの真似がしたかった。ママの時代ではまだ紙もペンも大いに活躍し、次第にタブレット端末がそこに参入していた。紙とペン、そして端末。時代別に使い分けたとなればそれに憧れるのが子供と云う者。
だが紙は近代において使用頻度が低下し、販売店舗では見かけなくなった。ペンも同様だ。存在している事には存在するが、高価な品質であったり特殊な紙になりどんなペンやマーカーを用いてもまっさらな紙に戻すことが出来ると云った凝った物が大多数である。
無論ママに願えば用意はしてくれる。しかしそこまでして紙とペンに拘る理由もない。ただ手を動かし記入するだけならばタブレット端末で相応に事が足りる。
数学に取り掛かろうと私は脳内で画面を下へとスクロールした。難易度別と云えど、所詮は国が定めた学校の学年ごとに修学すべき基準が設けられているに過ぎない。その凡そは解き終えている。
欠伸が出る程退屈な難易度を解く度、学校に通う生徒の高が知れると思わざる負えない。
”済”と書かれた文字がハンコの様に表示され続け、最下層の大学の項目を開く。その内容でさえ概ねが学習済みであり、残る数問を解答してしまえば履修を終えてしまう。
私はふと鼻を鳴らし、タブレット端末に付属した端末用のペンを取り出し解答に取り掛かる。
”統計における相関行列について、分散共分散行列の関係を証明せよ。”
手は止まることなく動き続け、ずらりと長い式を羅列していく。解答の枠一杯に式と証明が溢れる。
解答は正しいと判断され、枠に丸い印が浮かび上がる。ひたすらその作業を繰り返していく。
時系列解析、確率過程。大学ではこんな事を学ぶのか。ましてや教員に教えを乞うのだと、果たして効率的に学習し終えるのか。手軽に、身近に学習する手段がありながら自身と合致する教えをするかも解らない人物に意味はあるのか。学校とはつくづく不思議な処だと私は思う。
それに解らない事はママに訊けば、大抵の事を教えてくれるのだから教師は必要無い。
物思い耽ると、私の手は止まっていた。学習すべき項目を全て解き終えてしまったのだ。
する事が無くなってしまった。
椅子に座ったまま両手を組み合わせ裏返して背筋を伸ばす。窓際の壁に投影される時計の時刻は、もう二時間程時を刻んでいた。
ママの姿を探し辺りを見渡すと、リビングに姿はなかった。だが場所は解っている。
椅子から降り、タブレット端末をテーブル近くのチェストの上に置かれた充電ポートに置いた。そして廊下を足早に進むと、ママの自室の前に着いた。扉は閉まりドアノブには”close”の文字が書かれている。
この部屋に居る時は決まって論文に没頭している時だ。ドアのノックしても気が付かない事は珍しくない。だから私はこの部屋には立ち入らない様にしている。いくら大好きなママだからと云え、ママにもプライバシーはある。私と共同で生活している以上、私はいつもママと一緒に居たいと思う。だがママにだって一人の時間が欲しい筈だ。
だからママが出てくるまで、私はリビングで待つのだ。
リビングに戻って椅子に座った。今度は学習が目的ではない。
”三上綾織 研究成果”
ずらりと検索結果が眼前に表示される。その数は止まることなく増え続けていく。
空気清浄機開発の一員。太陽光の再現により生まれ変わる植物。老化治療の第一人者。研究結果が多すぎるが故に、ママを知らない人間が検索すれば何が起きているのか判らないだろう。
ママ曰くは、これらの研究は一人で成しえたものではなく多くの人材が携わった結果だと話していたのが記憶にある。そして全ては人体に繋がっていると。
老化治療から始まったママの研究は、人体に太陽光が必要だと気づきを得る。そこから太陽光の再現に着手した。詳しくは理解していないが、あるフィルターに光を当てる事で太陽光が再現出来ると発表した。そして火山噴火による噴煙の空気浄化フィルターに太陽光の試作で造られた産物を組み合わせ、今まで以上に浄化能力の高い空気清浄機を生み出したのだ。
だがそれを善く思わない人間は大勢居たのだろう。ゴシップ記事が幾つも出回り、ママの名声を汚す様な記事が書かれ続け、挙句には人から盗んだ技術とまで書かれた。
ママは恐らく精神的なショックを受けたのではと私は思う。それは想像でしかない。何故ならこの記事を、私はママに訊いた事が無いからだ。もしこの事を尋ねてママがショックを思い出してしまってはと、考えるだけで胸が痛い。だから未だにこの想いは宙に浮いたままだった。
ママのお陰で、今世界の人間が生きられているのに。それの恩恵を棚に上げ、愚弄し、掌を返す等と言語道断である。ましてやそれに便乗する群衆も同じだ。
不愉快に成りながら口を尖らせ、ママの文献の閲覧を続けていく。時折ママのインタビューや憶測の記事が目に入る。卒業した大学や、研究所の立地。ほとんどは興味を惹く為に過ぎなかった。
今では便利なもので文献や論文も無料で閲覧可能として幾つもネットワークに点在している。勿論底に辿り着けなければ読む事は難しいのだが。論文の内容も、理論も理解出来る。
だがどうにも私は科学に興味が湧かない様だ。学ぶ楽しさはあった、知らない方程式も理論も、ずっと学んできた。しかし未だ解明されていない理論や方程式を自らが解き明かしたい気持ちは用いてはいない。それならばまだ数式を解いている方が好ましい。
ママの子であると云うのに、私が科学者になる未来は想像出来ない。善く、数学者だろう。
もしかして、私はママの子供ではないのではないか。
不意に脳に居座った邪念が、瞬きの間に脳内を侵食していく。振り払おうと
そうだ。だってこれ程に歳の離れてた親子はそうは居ない。いくら医療が進歩したからとは云えママの年齢で私を生む体力も、安全性も保証されている訳ではない。
ならば合点がいく。研究を発表していた頃のママは長い檸檬の様に透き通った金色の髪だった。なのに私の髪は鉄黒の様。ママにはそばかすがないのに、私にはある。
つまり、私とママは血が繋がっていない。見ず知らずの子供か、或いは知人の子供。
気が付くと、私は大粒の涙を流しながら声も上げずに泣いていた。机には拳程の水溜りが出来ている。
あんなに大好きだったママと血が繋がっていない、それが何よりも私の心を引き裂いた。記憶している限りでは、一度も家から出る事もなく、友達も居らずママと二人でこの家で暮らしてきた。それでもママが居てくれたから寂しくはなかった。ママはいつも私を気にかけてくれた。誕生日には必ず私の欲しい物をくれたし、クリスマスもハロウィンも、大晦日も正月も二人で祝ってきた。私の中で強固であった親子の糸は呆気なく切れてしまった様に思える。
「累! どうしたの」
ママの声に振り返ると、そこに驚いた様に目を見開いて佇む姿があった。いつもであればママにそのまま抱きついていた事だろう。だが今は安易に抱きつく事は出来なかった。
何も口にする事も出来ず俯き涙を流す。ママは急かす事も追及する事もなく、そっと私の肩を抱き寄せた。温かいママの体温により一層、涙が溢れる。立ったまま私を抱き寄せては身体の負担になるだろうが、そんな事は一切気にする様子もなく。ずっと私を抱きしめた。
漸く涙が落ち着きだした頃、私は何とか喉から声を絞り出した。
「……私、ママの子供じゃないの?」
「どうしてそう思ったの?」
ママは一度離れると椅子ではなく地面に横に膝を着け、私もママの方へと足をずらした。
首を傾げ弱った様な表情で私を見つめる。
「だって私、ママに似てない。髪の色も、目の色も、そばかすだってそう」
何を云われているのか、ママは一瞬思考を巡らせてから口を開いた。
「不安にさせてしまったのね、ごめんなさい」
優しい手つきで頭を撫でられる。
「確かに、累をお腹から産んだわけじゃないの」
やはり、と私の瞳は潤みまた涙が溢れそうだった。だがママは様子を見ながら話を続けた。
「産むことは出来なかったけれど、人工子宮で累は育ったのよ。私の遺伝子を用いて」
全人類のDNAは小数点第三位の一パーセントのみが異なるだけだと云う研究結果がある。そこに僅かな違いのみが存在する事で人体だけは同じ形式になるのだ。それは私も知識として知り得ている。
だがママは、DNAではなく性質設計図を示す”遺伝子”の言葉を選択した。広義的なDNAとは異なり狭義的には、髪や肌、目の色等の個別を示す場合に用いる言葉。DNAの元を辿れば同一だからと云って、それを親族とは表現しない。それはあくまでも別人に当たる。
敢て遺伝子の言葉を口にしたのは、私とママが繋がっている確かな存在があるからだ。
「じゃあどうして髪の色が違うの?」
「それはパパの遺伝子だからよ」
パパ。父親の事は知らなかった。顔を見た事も口をきいた事もない。私の記憶にはママしかいなかった。
熟慮せずとも、遺伝子についての知識があれば簡単に想像が出来る話だった。だが父親を知らない私には、髪の黒い要因が何処にあるのか脳内に存在していなかった。
「私は元々、子供を産める身体じゃなかった。歳も取ってしまったから。だから人工子宮のお陰で累を授かったの」
「じゃあ、お腹で育ってないだけでママとは血が繋がってるの?」
「勿論」
顔を上げた私をママの両手が優しく包み込む。それだけで私は子供らしく満たされていた。あんなにも悲壮感に圧し潰されそうであったにも関わらず、今はもう嬉しくて仕方が無い。
「ごめんなさいママ、心配かけて。少し考えれば解ることだった」
「わたしも累に甘えていた。伝えなければ解らないことなのに」
ママは首を振り私を宥める。やっぱり私はママが好い。ママでなければ駄目だ。
「大好き、ママ」
「わたしも大好きよ、累」
父親については興味がない。そもそも存在すら気にした事がなかったのだから。ママが私に話をしなかったのは、それはまだ話せないからだろう。それならばいつか、ママが話してくれるのならば聞いてみよう。私のパパの事を。
三章
あれからいくつも季節が過ぎた。季節とは云え外に出る事はなく、家の中の空調が春夏秋冬の空気や匂いを再現しているだけに過ぎない。
毎日論文を見漁り、ママが新しく購入する教材を解き本を読む日々。季節感は空調が無ければ気にも留めない。あんなに楽しみにしていたハロウィンも、すっかり飽きてしまった。
ただ誕生日だけは忘れたことがない。一か月も前から落ち着きなく教材を解き進め、一問を終える度に時刻を確認してしまう。そんな事をした処で、時刻は早く進まないのだが。
そして今日、私は十六歳になった。
ママの手作りであるホールのショートケーキが置かれたテーブルを囲う。灯りを落とした部屋の中で、蝋燭の火が空調に揺られている。その灯りが、私の向かいに座るママの表情を照らす。六年前よりも顔の皺が増えただろう。しかしその優しさが失われる事は無く、何も変わらない、いつも通りのママだった。
声帯は衰えを感じさせず、昔と変わらぬ声量と声音でお誕生日の歌を歌ってくれた。聞き馴染みのあるこの声が、私にはなくてはならない。
「お誕生日おめでとう、累」
その言葉に合わせ、私は勢いに乗って蝋燭に息を吹きかける。火は呆気なく消えてしまい少々物足りなさを覚える。
しかしここにママが居る。私の大好きなママが祝ってくれる、それだけで、充実している。
ママがショートケーキを切り分ける。ホールケーキと云えど今の私の掌一つ分であり、二人で食べ切るには程好い大きさである。四等分に切り分けられた一切れを、形が崩れない様慣れた手つきで食器に乗せていく。半分に切られた青果の苺がクリームの上に乗り、断面からも苺が覗く簡素な仕上がり。世の中にはより巨大なホールケーキや、苺だけで表面を飾られた物、或いは値段が通常の倍以上の高級な苺を用いたショートケーキも存在する。
だが、これが私の人生における最高のショートケーキだ。他の物は遠く及ばない。
早々にフォークで三角形の先端を押す様にして掬いとる。スポンジ生地が柔らかく、力を入れずとも割けていく。そのまま一思いに口へ運ぶと、一口でスポンジの食感が感じられた。ほのかに弾力があり噛み締めるとほろりと溶けていく。クリームも滑らかな舌触りであり、甘すぎず油分も多すぎない絶妙な均一さを保っている。
「ママのケーキが世界で一番美味しい」
「そうなの? それなら嬉しいわ」
にこやかな笑みを見せるママの前で、私の手は止まらずショートケーキを食べ進める。次にフォークを食器に伸ばした時にはもう、ショートケーキは影も形も残っていない。
「お代わりする?」
「でも、勿体ないし」
名残惜しくフォークを口に咥えた。本当はもっと口にしたい。だが今食べ切ってしまえば明日の楽しみが無くなってしまう。思いとは裏腹にフォークを前後に、押しては戻してを繰り返す。
煮え切らない様子を察したママは私の食器にショートケーキを乗せた。
「折角の誕生日ですもの、食べなさい」
数回、ママとショートケーキに視線を移動させ、意を決しフォークを持った手を伸ばす。掬い上げまた口に運ぶ。溶け出した甘味が口の中に広がっていく。
何と美味なのだろう。
これならば毎日がショートケーキでも構わない。とは云え、毎日これ程の高カロリーを摂取し続けては栄養価並びに糖質も気にせざるを得ない。いくら医療技術が発達したとしても高栄養価を摂取した場合は消化を促す事なく体内から摘出してしまう。それでは口にした物は血肉にならない。世間においては食した後は吸収しない方が善いとされているのだから、何とも奇妙な事だ。
ショートケーキを二切れ食べ切った私は腹部も心も満たされていた。ママは一切れしか口を付けていなかった、その最後の一切れはまた明日二人で食べる為にと今では小型化した冷蔵庫の保存容器に仕舞う。
その足で豆から摘出したポーションのコーヒーをカップに注ぎテーブルへ戻り座った。
ただ飲み物を取りに行っただけではない事は私も解っていた。何か重要な話である、それが何かを脳内を巡らせた。
考えられるとすれば私の将来性だろうか。今まで外に出た事がない以上、就職についても考えなくてはいけないだろう。家の中にランニングマシーンもあり、筋肉を鍛え酷使するトレーニング装置もあった。体力的には問題はない。若しくは大学の飛び級を受験するかと云った処か。
どれもピンとは来ない。
ママは、カップを傾ける。私もそれに合わせる。舌触りは水と変わらないが、ショートケーキを口にした後には余りにもその苦みが強い。
表情を歪める私を見たママに笑顔が浮かぶ。
「苦かったわね、お砂糖とミルクはいかが?」
「大丈夫。飲めるわ」
カップを傾けたまま返事をして、そのまま半分を飲み切る。口の中が苦味で溢れ返っているが、私は話をつづけた。
「話があるんでしょ?」
「……ええ」
僅かに遅れた返事は、ママにとって話し辛い事なのか。それならば無理をして話をして欲しくはない。来るべき時に話をしてくれればそれでいいのだが、どうやらそうはいかないらしい。
重たげな口を開きママは話を始めた。
「累が六歳の時、親子じゃないのかと訊いてきたことがあったでしょう」
私は頷いた。
それは善く記憶している。あの時はもう心が張り裂けそうで仕方がなかった。だが血が繋がっていると解ると、その痛みが嘘の様に引いていった。もう六年も前になる。
「パパ、お父さんの話はしなかった。出来なかったの、累に寂しい想いをさせてはいけないと思って」
ママの表情には影が落ちていた。
確かにママが居なければ、寂しさで倒れてしまったかもしれない。だが会ったこともないパパについてはどうとでもなるものだ。それ以降話も聞いた事がないのだから。
それから一枚の古い紙切れを机の上に差し出した。古びていて長方形に近い端は紙が擦れている。先程のショートケーキよりは一回り程小さく、子供の掌の大きさの紙にはママと一人の男の人が写っている。
ネットワーク上で見た事がある。これは写真と呼ばれる物だった。
そしてそこに写るママは私がよく記事で見かける長いブロンドヘアのママだった。だがその隣の男の人は記憶にない。黒い髪質と白衣を身に包んだ姿は同じ研究者だろう。
意味もなくこの写真を提示する事はしない、そして話の脈絡から推察するにこの男の人が私のパパだ。ママと並んで写っている表情は何処となく硬い。こんな冴えない男の人がママとどうして子を残したのか。
「察しの良い累には解ると思うけれど、これが貴女のお父さんよ」
「初めて見た。でもパパはどうしているの?」
大抵の家庭では父親は共に生活している。しかし例外はある。単身赴任と呼ばれる制度によって家庭を離れた職場に努める場合や、海外赴任も似た制度があると知っている。或いは離別しているか、父親が既に死亡しているか。
憶測では話の腰を折ってしまってはいけないと、私は必要な言葉を選び話を聞き続けた。
「お父さんは、もう亡くなっているの。累が産まれるずっと前に」
憶測は的中した。そうだろう、少なくとも生きていればこれだけ技術が発達してるのだから直接会う事は出来ずとも再現程度は容易だ。瞳に映像を投影すれば、それこそ目の前に居る事と遜色なく会える。
「それは累が外に出られなかった事にも関係している。ずっと話さなければいけない事を黙っていたの。本当にごめんなさい」
ママは深々と頭を下げた。パパの死と外に出られない事の関係性を、持てる知識を活用して模索する。
パパはママと同じ研究者だった。ならば何かしら研究内容を共同で行っていたか共有していた。それが問題となり誰かに存在を消された。そしてその血を引いた私も狙われる事になり、ママは護る為に家の中に留めていた。
考えられるのはそんな処。ドラマや映画では在るまい、壮絶な人生が私に在る訳が無いだろう。だが他に外に出せない要因をと思考を巡らせる。何らかの形でパパが死に、親権問題に発展する。パパ形の親戚がそれを争い、ママは勝ち取ったものの追い回される日々から私を隠した。
大方こんな処だ。しかしママの表情はその二つを肯定にも否定にも双方にも解釈し得る、気難しさがあった。
「お父さんは、共に研究をしていたの。でも研究が世間に発表される前、政府から派遣された人が研究結果を持ち去ろうとした。それをお父さんが引き止めて、」
ママは一度目を伏せて息を吐いた。思い出したくない事だろう。恐らく目の前でパパが死ぬところを目撃している。精神を病んでいても可笑しくはなかった。
「殺されたの。銃でね。どうしていいのかわからなかった。ただ血を流すお父さんを開介抱することしか出来なかった。救急に電話をかけても、あの時は繋がらなくて、結局お父さんはわたしの腕の中で亡くなった。警察も何もせず、ただ遺体が焼かれて骨も返して貰えなかった」
思い返す様にママは両手を見つめる。然しその手は微かに震えていた。それだけ脳裏に強く焼き付いた記憶。
私は言葉が出なかった。大好きなママにそんな記憶が在った事を知りもしなかった。そんな記事は何処にも存在していなかったのだから。それを嘘だと認定するには私はママを善く見てきたのだから知っている。こんな嘘を捏造する人ではないのだ。それどころか研究結果が捏造だと、技術を盗んだと非難の声を浴びせられていたのだ。それに、嘘を述べたところでママに利益はない。よって事実だろう。
「研究のために残っていた血液から、遺伝子情報を読み取ってわたしと父さんの子として累をもうけたの。でも元々妊娠は出来ない身体で、時間もかかり過ぎて歳も取っていた。だから懐胎することはできなかった」
暗い表情に光が差した様に見えた。
「でも、累が産まれてくれた。わたし達の宝の累が。何としても護りたかった、お父さんを救えなかった私には荷が重いと理解していても」
その表情は一変し、涙が溢れそうな程に潤む。
「ごめんなさい、累。わたしは身勝手に貴女の人生を奪ってしまった。結局、わたしは母親にはなれなかった」
その言葉に胸が締め付けられた。
私はママが好きだ。長い時間を共にすれば、子供は必然的に親を求める様に成る。確かにそうだったかもしれない。それでも、私は自分の意思でママが好いている。剥き出しの本能ではなく脳で、多様な知識を詰め込んだ上でママと共に暮らす事を選んだ。
ママと共に暮らす時間は、何よりも代え難い。私の知識の全てを捧げても構わない程に。
確かに。本当は、少しだけ外の世界に興味があった。ネットワークがあれば学校に行くこともなく授業が受けられる。カリキュラムも自分で選択すれば海外の大学の科目も勿論、翻訳も自動でネットワークが行ってくれるのだから英語が理解出来ずとも受講が可能である。
基本的に一人で勉学に励む事にはなるが、目を閉じれば画像で見た様に、横に人が居て授業を受ける事だって出来る。だから何も不自由はない。
しかし時折、もしこれが現実で可能だったらと思い浮かべる事がなかった訳ではない。
過去のニュースの映像で見かけた文化祭や修学旅行、人と触れ会う時間は今では殆ど存在しない。だから私が外に出る必要性を覚えなかったのはママの所為ではない。
だと云うのに、ママはその責任が全て自分にあるのだと謝罪した。
ママを悲しませまいと言葉を探すが、何も浮かんでこない。あれ程新たな知識を見つければ、それに修正を求めて口を回したのに。今はその口は開くばかりで言葉を発する事が無い。
何を云えば善い。何を。
言葉、そう。言葉。こんな時は人に何と言葉を掛ける。
同じ単語が幾度も巡っては言葉にならず滑り落ちていく。人と生活していれば言葉が何も考えずとも出てくるのだろうか。
私は漸く言葉を絞り出した。ママを傷つけてしまうかもしれない、そんな恐怖感があった。こんな想いを持ち合わせながら言葉を発するのは初めてだった。
「わ、私。ママに責任があるって思ってない。ママは私を護ってくれてたんでしょ? ならそれはきっとママが愛してくれたから」
云わんとしている事が私にも解らなくなっていた。だが、そこにあったのは虐待では決してなかった。外に触れる事を咎められた記憶は無い。欲しい物を強請り買って貰えなかった記憶も無い。最初から、私に制限されていたものは無かった。勿論世間から見れば外に出さない事を非難する人間は居るだろう。
だが現代において論じれば、外に出る生活をする子供の方が珍しい。地上の公園は曇り空の下、火山灰が降る。そんな場所で子供を遊ばせておく事の方が余程虐待ではないのか。
だから今までの事は必要な措置だった。
情報が収束しない中、私はそう結論付けた。
「もしかしたら、間違ってたのかもしれない。なら、正せるよ」
ママが顔を上げた時、涙が伝った。
「私はあんまり外に興味なかったけど、隠れて生活しなきゃいけないけど。でも、それが私達の生き方で家族の在り方じゃない。なら後ろめたい事なんて何もない」
「累……」
「ママは私を愛してくれたんでしょ」
「……ええ、ええ。勿論」
愛していなければ、護る必要なんてなかった。
「なら謝らないでママ。これから変えていけばいいんだよ」
私はママの手を握った。日々皮膚が薄くなっていくママの手は、パパを看取った。そしていつも撫でてくれた優しい手。共に歳をとっていく、その為に老化の予防接種は受けなかったママなのだから。
共に生きる、それだけの事。先にママが亡くなったとしても。
「累、あのね」
不意に呼び鈴が鳴り響く。高層マンションの一室であるのだから、ベルが鳴るのは至極当然の事だ。今までにも宅配等で鳴った事がある筈だ。
あっただろうか。記憶に無い。どうしていただろうと記憶を巡らせるが、呼び鈴が鳴った記憶は確認出来なかった。
つまりこれは不測の事態。推測は出来る、パパを殺した関係者がママと私の居場所を突き止めたであろう事。捕まれば何をされるか解ったものではない。ママを連れて逃げなければ。
逃走経路を頭の中に描く。リビングから廊下を通じ玄関へ続く、その玄関が占拠されているのならば出口はない。他に逃げ口は窓、しかしベランダも無く窓の鍵は開かない。窓を破り外に出たとしても、そこは地上から百メートルを優に超える上空。とても飛び降りて助かる地点ではない。
どうする。幾ら考えを巡らせても脱出する道筋が見えない。
いっそ布団とパラシュート代わりに飛び降りる事も視野に入れる。しかし飛び降りた拍子に手を放してしまえばそれまでだ。
一刻一刻を急かす様に呼び鈴はなり続けていた。
はたと、糸が張り詰めたように思考が研ぎ澄まされる。
何故入って来ないのか。これ程呼び出しを無視し続けているのだから電子キーを解錠してこないのは不自然だ。政府の手駒として動いているのならば、それなりの理由を付ければドアを強制的に解錠しても怪しまれない。何故、消極的になっているのか。世間の目を気にしているからか。それならば少数で動いている可能性がある。最低二人以上なら勝ち目はない。然し、二人ならば。僅かながらに勝ち目があるかもしれない。
ぐっと拳に力を込める。ママでは太刀打ち出来ないが、私は常に身体を動かしている。多少の動きは問題ない。一瞬かく乱するだけで善い。
電子キーの解錠音が静かな部屋に響く。私はママを庇う様に前へ立つ。
扉が開き、照明とは異なる明るさが廊下を照らした。人影が足早に音を立てて迫り来る。私は咄嗟にテーブルの上のフォークを掴む。
蜂合わせた人影は、女だった。格好も着飾ったところもなく白い着物型の手術着だった。髪の毛は黒く、切り揃えられていない様で乱雑である。とても政府の関係者には見えない。ましてエージェントにすら見えない。強いて云えば追われる身だろうか。
女が顔を上げる。
瞳の色は私と同じ赤紫色をしている。その顔立ちは多少荒々しくはあるが大人びた、私の顔。
女は、私と瓜二つの顔をしている。髪の色も瞳の色も、肌の色白さにそばかすも違いがない。
ドッペルゲンガーの単語が脳裏に浮かんだ。科学的には顔が似通っているだけで、見たところで死ぬのは迷信である。ただ物珍しい事に尾鰭が付き、その様な世迷言が生まれたに過ぎない。だが目の間に立っているのはどう見間違えても私である。
「居るなら出てよ!」
女は口を開いて私の胸ぐらを掴み上げた。顔が大人びているだけあり、背丈も私より幾分高い。
「貴女は誰!?」
私は負けじと声を荒げた。女が何者なのか見当がつかない。
パパの遺骨は帰ってこなかった。そこから生み出されたのか。何であれ薄気味悪い。何より何故この女が激昂しているのかが解らない。女は私を睨み付けている。
その張り詰めた表情が、切れた様に目を見開き一点を凝視している。視線を追うと、その先にはママが居た。女の口が二回動く。言葉を発していたのだろうが、声は出ていなかった。
静寂もつかの間、女はまた声を荒げた。
「説明は後、今すぐ私と来なさい!」
胸ぐらを掴んだ手はそのまま下へと動き腕を掴んだ。爪が食い込みそうな程力強く、私は思わず表情を歪める。
手を振り解き、私は一歩背後へ下がる。
「説明も出来ないような人間に付いて行くわけない!」
煮え切らない態度の女に私は苛ついていた。状況が普通ではない。勝手に侵入し、勝手に私を連れ出そうとしている。
ママの話を聞いた後でどうこの女を信用出来ようか。
「説明している暇は、」
女の言葉を遮る様に複数人の足音が響く。
銃を担ぎ武装した集団。
察するに女を追って来たのだろう。
女は舌打ちをして私の肩を掴み抱き寄せる。抵抗する間もなく次に目に入った景色は外だった。
武装集団も居らず、ママも居ない全く別の場所。土と工事現場に活用される白い仮囲い、上へと鉄骨が組み上がったそれを隠すように色の暗いシートが一面に張り巡らされている。
少なからず、此処は家ではない。
何が起きたのか。次は私が女の胸ぐらを掴んでいた。
「ママは! ママはどこ!?」
技術進歩をしているにしても、空間跳躍は聞いた事がない。どんな手品を用いたかは知らないがこんな芸当はあり得ない。脳内が乱れ、考えは何一つ纏まらない。
「うるさい! 少しは自分で考えなさいよ、頭脳明晰なんでしょ!?」
また怒りを露わにする女。
初めてママと離れ離れになった事、何より声を荒げられる事に慣れていない私は、唖然とし、それから涙を幾つも流していた。
それを見ていた女は面食らったのか、高圧的な態度を改め私を慰めた。
「……ごめん、そうだよね。いきなり困るよね」
先程とは打って変わった態度に、私は困惑するばかりだった。然し、女は私が泣き止むまでじっと肩を抱き寄せ、肩を擦り続けた。
暫くして私が落ち着くと、女は自ら名乗った。
「私は三上累。九年後の貴女よ」
漠然とした情報は理解には至らなかった。発言内容は理解していた、目の前にいるのは未来の私。だが意図が読み取れない。それが何だというのか、どうやってここまで来て、何故私だけを連れだしたのか。それはあの場で一番近かったのが私だったからだろう。きっとママには手が届かなかった。もしママの手を取っていたら、あの場を離れる事は出来なかった。
「頭の良い貴女なら解るかもしれない。でも説明させて」
女は、未来の私は順を追って経緯の説明を始めた。
「今までは普通に暮らしていた、貴女と同じように。でも十六歳の誕生日、全てが変わってしまった。あの日、家に政府の関係者が押しかけて来た、私と母を拘束しに。母の研究を差し出せと。自分の出生についてはもう聞いたでしょう?」
不意に尋ねられた私はただ頷く。未来の私は話を続ける。
「母が秘匿し続けた研究、”不死化”。その研究成果を奪いに。」
「待って、」
私は思わず口を挟む。今はもう、研究はしていないとママ自身が云っていた。なのに研究をしていたという事。
「研究はもうしてないって、だって部屋に居るのは過去の論文を纏めてるだけだって」
「ええ、もう研究はしてない。でも研究は完成していたの、過去にね」
「過去?」
「父が殺された話は覚えている?」
「うん」
「あの時既に不死の研究は最終段階にあった。それを察知した政府が世に出る前に抹消するべく母と父を消そうとした。その時研究は持ち去られ、それで終わる筈だった。でもバックアップがあった、それは今の私と貴女の中にある」
成り行きは理解した。概ねママが話した事と齟齬は無い。つまり嘘は云っていない。だがその最後は初耳だった。
不死化の研究。ママの研究成果に不老が有ることは知っている。老化の原因となる細胞を生み出さない為に老化の予防接種を行う事で老化を未然に防ぐ。正し人体は老化細胞が必ず発生してしまう事から定期的に接種はし続けなければならないらしい。
恐らく不死はその応用だろう。老化を発生させる細胞の根本的治療か、或いは細胞を活性化させる事で老化せず、また死亡リスクを極端に下げたものだ。
だがそれは持ち去られてしまった。抜かりの無いママの事だ、バックアップは何処かに隠し持っていた。然し、何故それが私達の中にあるのか。
「母は一人で不死化の研究を完成させた。そしてそれを自身と父との双方の遺伝子を掛け合わせ、貴女を人工子宮にて産んだ後、遺伝子コードの中に、世間から隠した。それが私と貴女よ」
「どうして、そんな事したの」
説明の理解容量が超えていた。それでは私は、遺伝子コードを隠す為に存在しているのではないのか。ママは私を愛していると云っていた。それは遺伝子コードの記憶媒体としてだったのか。
「私は聞くことができなかった。その前に連行されてしまったから。でも、母は捨てきれなかったのでしょうね、父との大切な成果を」
未来の私は空を見上げる。暗く陽が入らないそこは、天板で空も見えない。地面から遠く離れているのに天板がとても近く、息苦しく思える空。
そして、その考えは正しいだろう。ママはパパとの事を話さなかったが、あの古びた写真を持ち続けているのは今でもパパを愛しているから。まして共に研究をした仲で、目の前で愛する人を失った。その喪失感は計り知れない。
ならば私はパパの代わりでしかなかったのか。歩き、話す記憶媒体として。
「真相は解らない。けれど、その後私は研究施設に連れてこられ、そこで生体から遺伝子か全て調べ上げられた。口にはしたくないけど、それはもう酷かった。そして遺伝子データが見つかった。研究者は大喜びだった」
少なくとも数十年見つからなかった完成品が見つかったのならば、さぞ歓喜した事だろう。
「けれど、実証データはなかった。まだ理論しかなかったから。そして、それを私で試した」
試した。そうだ。被検体がそこに居るのだから当然だった。だが口にされると吐き気を催す。
「最初は抵抗した、不死になんてなりたくないし。でも大人しくすれば母に会えるといわれた。それが何よりも私を動かした。母に会いたい、その意一心で」
遺伝子コードを知っていたとしても、私もきっと同じ気持ちだっただろう。だから九年もの間、実験体として生きてきた。髪質も肌も荒んでまでも。
「でも、それは嘘だった。結局母は、あの日抵抗して殺されていた。……私はずっと騙されていた」
拳を握りしめた未来の私。手入れもなく伸びたままになった血色の悪い爪が肉へと食い込んでいる。痛みがある筈なのに、それすらも感じさせない程の怒り。
「圧死させられても、水死させられても、焼死させられても、感電させられても、何をされても、九年、九年も耐えた、なのに! あいつらは笑いながら私からママを奪った!」
激情に身を任せ吐き捨てた。そこにあるのはどうしようもない憎悪と憤り。勢いのままに人を殺めてしまいそうだった。
荒げた息を数回整える。私はそれを見守る事しか出来なかった。想像を絶する未来の私の過去。それがこれから私に起こる未来。
「でも、九年の間に研究は進歩していた。それがさっき使った時間跳躍。これがあれば過去を変えられるんじゃないかって。試作段階だったけど奪ってきたの」
差し出したのはペンシルにもペンライトにも見間違う、細長い形状の黒い筒状の物体。触ると青白い投影が空中に浮かびダイヤルの様に時代、時間が細かに設定出来る代物。だが試作段階と云う事は、万が一にも不測の事態が起こる可能性がある。
「なら、なんでもっと過去に移動しなかったの?」
「咄嗟に操作したら今に来ただけ、だからといって貴女を見捨てるのも、できなかったし」
はっと、脳内が鮮明になる。
「ママは! ママは大丈夫なの!?」
「母は貴女を捕まえる材料よ、簡単には殺さない。それに過去をやり直せばママだって助かる」
それは、私のママが殺される可能性を示唆していた。可能性だったとしても、ママを殺されるのは耐えがたい。
「それ、まだ使えるの」
「回数制限はなさそうだから、大丈夫よ。後はどの過去を変えるか……」
指を唇に当て考え込む癖は、私と瓜二つ。未来の私なのだから無論の事。だが自分が二人居るのは今にして思えば変な心地だ。
そもそも未来の人間が現代の人間に接触する事自体、問題がある。未来が変わってしまうのだから。
「ねえ、それって未来に影響はないの?」
「影響はあるでしょうね。何が起こるか、見当もつかない。小さな歪か大きな歪か、それは変えてみない事には、」
不意に未来の私が膝を付く。細い身体をしているのだから、疲れが出たのかもしれないと肩に触れる。
その肩は温かかった。じわりと温もりが広がっていく感覚。手を引き掌を見ると、赤く染まっていた。服が見る見る内に赤く染まっていく。それは紛れもない血。
何が起きた。頭の中が真っ白になる。そんな場合ではない、怪我をしているのだ。そう警告が脳内に響き渡る。私と会った時点では赤くなってはいなかった。元から怪我を負っていたのならば今これ程出血するのは可笑しい。
今だ。今、私と言葉を交わした瞬間にけがをした。辺りを見渡すが誰の気配も感じない。違う、私には感じられない。解らない。
未来の私が私の腕を力の限りに引っ張る。そのまま体勢を崩し、地面に伏せた私を護るように覆いかぶさった。苦し気に上がった息を整えながら、途絶え途絶えに言葉を繋げる。
「い、今から、過去に行って。……それ、で、後は自分で、考えて」
「一緒に、行かないと、助からない」
恐怖か、狼狽えていたのか、私は震える声と手でその背中に触れる。荒い呼吸に背中が何度も大きく膨らむ。
「ごめ、ん。巻き、込んで。でも……貴女なら、でき、る。……私だから」
漠然とした言葉に、私は返す言葉がない。
次第に足音が近づいてくる。そこに小さく話し声も加わっていた。
「一号は廃棄しろ、もう一人の方を使えばいい」
言葉は瞬時に理解出来た。
一号は未来の私、そして廃棄する。もう必要がない、私が居るから。
一瞬にして頭の中を恐怖が支配する。不死の実験の為に何度も死を経験しただろう。同じ事を私に繰り返すのだ。
嫌だ。
嫌だ、嫌だ。
近づく足音に鼓動が早まる。逃げ出したい、だが未来の私はどうする。心臓が今までに経験した事の無い速さで脈打つ。
それを制したのは未来の私だった。
「不死、の実験は……完璧、じゃない。いず、れ、限界がくる。……それが、今、みたい」
言葉通りであるならば、不死身の身体ではなく一時的なもの。そしてその限界と云う事は、死を意味している。
言葉を変えそうにも喉に空気が入っていないかの様に、音が出なかった。
「まま……を、おね、がい」
余りにも小さな声で、聞き逃してしまいそうだった。だが、それは確かに脳に届いていた。
名前を呼ぼうとした時にはもう、事切れていた。
近づく集団を前に、私はまた時間を跳躍していた。
場所は打って変わり、燦々と明るい辺りは砂地に骨組みの四角が幾つも組み合わさった物。それ以外には三角形の土台を足場にした上から鎖が垂れ下がる物と同じく三角の土台にスロープが掛けられた物が点在する処。
触れた事が無いのに知っている、これは公園の遊具。
何故あの建設現場から公園に移動しているのか。私は縺れる脳内を一つずつ整理する。
二回、時空を跳躍しているのだから何か解るはずだ。未来の私が室内に現れず、わざわざドアを開けて入って来たのか。突然室内に現れなかった理由、驚かせない為ではない。ましてや追われる身でありながら人目を憚らず呼び鈴を鳴らしていた。
考えられる要因は一つ。時間の移動は出来ても、場所の移動は出来ないと云う事。それならば合点がいく。高層マンションの一室から建設現場に居たのは、マンションが建設する前に時間を移動したから。上空から地上に移動したのは経過上の存在し得ない地点の副産物として地上に降ろされた。ならばある程度は座標を考慮しながら移動しなければならない。それこそ何も考えずに移動すれば、研究施設の部屋に出現する事もあり得る。
握りしめていたペン型の端末を見やる。血が付着し、少々色が変色しているのが、未来の私が倒れる光景を思い起こす。必死に逃げ出し、その果てに息絶えた。最後にママを見れた事が救いになったのだろうか。
あの時、私が庇うべきだったかもしれない。だが私が死んでしまえば未来の私は存在出来ない。あれが最善の選択だったのだと、納得のいかないと訴える考えに云い聞かせる。
私が未来を変えれば、ママも未来の私も救える。私しかいない、やらなければならないのだから。
ふっと息を吐く。
その時、今まで気付かなかった周囲の明るさが瞳に反射する。顔を上げると、空が眩しい。人工の灯りを連想したが、その先にあったのは。
何処までも広がり続ける青い空。
瞳に投影された写真ではなく、本物の青い空に、私の心は捉われていた。これがママの見ていた、灰色にくすむ前の空。
青を強調する様に白い雲が幾つも浮かび、それらを照らす煌々と光を放つ太陽。
思わず大きく息を吸う。陽射しは強く、そこに居るだけで熱を覚える。だがそれすらも受け止めたい程に享楽に耽る。今までに感じた事の無い本物の陽射しに私は全てを忘れそうになる。何も責任がないのならば、ずっと此処に留まっていたい。
だがそれは難しい。やるべき事があるのだから。
両頬を叩き、気合を込める。昔はこうして気持ちを切り替える方法があったと記憶している。ならばそれに肖ろう。効力も意味もないのかもしれないが、今は藁にも縋る思いで頼りたい。経験した事の無い状況が次々に起こり、最早立っているのがやっとである。
然し時間が経てば経つ程、私に不利な状況が降りかかる。政府の関係者は、あの時逃げた私達を追うことが出来た。それは何かしらで私達を探知する事が出来たからだ。一方でこちらには探知する事は疎か、座標移動も出来ずじまい。一方的な逃走しかない。
私は唇に指を当てる。どうすれば見つからないか、時間を多数に亘って移動し続けるのはどうか。一時間事、一日事に。それでは時間がかかり過ぎる。ならばどこか別の時間に留まり続けるのはどうか。それも探知されれば終わりである。敢て研究そのものを無かった事にしてはどうか。そこにどんな影響があるか予測出来ない。
考えは浮かべど、適切な答えは得られない。暫く考え込み、私は脳内を纏めた。
まずは私の誕生日に戻る。武装集団が来る前に私とママが逃げれば、一時的とは云え時間を稼げる。未来への影響は定かではないが、不死化の未来は回避出来るのではなかろうか。
ペン型の端末で時間のダイヤルを設定する。あの時間より前に。
設定すると準備も何もなく、私はマンションのエントランスに立っていた。景色が早送りの様になる訳でも、光の線が見える訳でもない。ただ景色が一瞬にして切り替わる。プロジェクターで写真を切り替えた様だった。
生まれて初めて見るエントランスはタイル張りで質素だった。こんな処に私は住んでいたのだ。
ネットワークに接続し、時間を確認する。未来の私が来るより前、十分前だ。急いでエレベーターに乗り込み、部屋へと向かう。途中景色が空へ近づいて行く、何もかもネットワークで見たものばかりだった。人は皆こんな景色を見ながら生活している。私はずっと自身の目で本物を見る事が無いまま生きてきたのだと思い知らされる。
自宅の階層に到着し、家の前に辿り着く。スマートキーは勿論鍵が掛かっている。エレベーターの中で何度も話す内容をシュミレーションした。私は未来から来た。私とママは狙われている、だから一緒に逃げて。理解を得られる説明は思い付かなかった。そんなものは信用出来ない、私だって信用しない。ならば無理矢理連れ出す事も選択肢に入れなければならない。
意を決し、ネットワークを介して施錠を解除した。扉を開けると、家に戻ったのだと安堵で足の力が抜けそうになる。先迄の事は悪夢で、私は上の空だっただけだったのではないかと錯覚する。
だが廊下がそれは現実だと云わしめる様にリビングへ続き、その先で過去の私の声が反響していた。
「正せるよ」
そうだ。私が正さなければ、ママとの未来がない。ママが殺されてしまう。
けれど、それは本当に正しいのだろうか。ママは、どうしてその研究成果を私の中に隠したのか。それが頭の片隅でじわりと広がっていく。
頭を振り払い、私は廊下を足早に進む。
その先で驚いた過去の私が、ママを庇う様にして立ち竦んだ。
「貴女! ……誰」
未来の私と云えど、時間にしてみれば一時間にも満たない未来。
「信じられないと思うけど、私は未来から来た。私達は不死化の研究のせいで狙われている。だから一緒に来て」
あの時の未来の私よりは英明に説明が出来ただろうか。
然し、当の本人は困惑に眉を顰める。
当然の反応だ、私なのだから。こんな話を信じる訳がない。だからこれはママに対して云ったのだ。ママは話を理解した様で、過去の私の肩に触れ一歩前へ出る。
「不死化の研究を知っているのね」
「ええ、ママ。話してくれなかったけど」
ママは瞳を伏せる。知られたくはなかったのだろうか。だがあの時、最後に云わんとしていたのはこの事だったのだろう。けれどそれが伝えられなかった。本当は今すぐにでも本心を聞き出したいところだが、今は時間がない。
「行きましょう累。信用できるわ」
「でもママ!」
決心したママに、過去の私は指をさし信用出来ないと声を上げた。それはそうだ、だが自分の大好きなママがそう云ったのならば、信用するのが私だろう。
ママの表情を察した過去の私は渋々と頷き、信用すると応えた。信頼を得られ、私は一安心だった。
早速二人を連れ出そうとすると、音を立てて武装集団が玄関から雪崩れ込んだ。
早過ぎる、時間も十分も猶予があった。話していた時間を含めてもまだ五分はあった筈。何故集団の突入が早まったのか。
咄嗟に過去の私の腕を掴もうと手を伸ばす。それと同時に重いものが倒れる音がした。
視線の先でママが地面に伏せていた。床には赤い、水溜りが出来ている。撃たれた。脳に浮かんだ言葉。
状況をいち早く理解した過去の私が甲高い悲鳴を上げる。ママに近付き、手付きは右往左往しながら安否を確認する。揺すっては出血が増える事は認識しているらしく、手を当て呼び続ける。
「そいつは要らん。娘は逃げた方を捕らえろ」
冷酷な低い男の声は、ママには目もくれずシューティンググラスから私を見つめる。
「来い」
私の腕を掴もうと伸びる手袋越しの思惑を払い除ける。
「いいのか、抵抗しなければ母親を救護しないこともない」
語尾を濁す云い方は、私次第と云っておきながらその実は気分次第である。私が従ったところで、何かと理由を付けて殺すのが関の山だ。
表情も見せない男と対峙したまま、私はちらりと後ろに視線を向ける。過去の私は項垂れたまま動く気配がない。ママも呼吸が浅くなり、このままでは手遅れになる。
ぐらりと思考が揺れた。何故こうなってしまったのか、変えられる筈だったのに。ママが居れば共に未来を考える事だって出来ただろうに。なのに、そのママを救えず死の淵へ追いやってしまった。呼吸が乱れる。思考が儘ならない。
私を通り過ぎ、男が身動き一つ取らない過去の私の腕を掴み引き摺って行く。このままでは駄目だ。何度も、強くそう云い聞かせる。
私がやらなければ。私が、やるんだ。ママを頼まれたのだから。
次に伸ばされた手を掻い潜り、私は窓へと駆ける。そしてダイヤルを無造作に弄った。
また違う時代だった。
高層マンションが出来上がる僅か前、骨組みは出来上がり設備も整い、後は住人を待つのみとなった一室。まだママと住む前の部屋。
何もないそこで、私は腰を落とした。状況を整理しようにも事態が急変している。
未来の私が接触する前の時間軸に移動したが、何故か武装集団の遭遇時刻が速まっている。未来の私、簡潔にAとしよう。Aの接触によって状況が変わった可能性がある。或いはBと名称した過去の私。二人居る事に躊躇する様子がなかったのは、私があの場に居る事を知っていたからかAを追いかけた部隊であったのならば、遭遇時刻がずれるのも致し方がない。若しくは直ぐ近くに待機しており、連絡を受け突入を速めたか。
どちらにしろ私が動く事で事態が悪化したのは事実だ。何か策を練らなければ。
私は座り込んだまま頭を働かせる。あれから何も口にしていない。精神的にも体力的にも限界が来ている。考えれば考える程、思考は纏まらず絡まっていく。
誕生日の私ではなく、その以前の私を連れ出すのはどうか。それならばもっと余裕が生まれる。
だが、それも無駄であった。
誕生日以前の時間にも武装集団は現れ、私はママを助け出す事に失敗する。何度も目の前でママが殺される様を見せつけられる。今にも狂いだしてしまいそうな自分を抑制し、私は何度も時間跳躍を繰り返す。少しづつ、過去へと遡りながら。
何度も繰り返す内に解った事もあった。武装集団は”防人”と云う名で一定人数で移動している。そして私が移動した先を何らかの方法で探知している事。また過去の私、Bは目的とせず必要に私を狙う事。その原因は定かではないが、大方このペン型の端末を持っている事と時間跳躍を繰り返す実験体として欲しているのだろう。過去の私に頼れない以上、私がやらなければと強く感じる。それが少しばかり重りになっていた。
泣き言を零している場合ではないの。このままではいつまで経っても私はママの元に帰れないのだから。だが、私の中で何かが崩れていく音がしていた。それが何か、私には見当もつかない。否、直視したくなかったのだろう。
ママが死ぬ以外の道、私が施設に連行されない未来は無いのではないかと薄々勘づいていた。こんなにも繰り返しているのに、棘が刺さったように未来を変える事が出来ないのだ。それはママの死を早める要因として深く根を張り、何度取り除こうとも取り除けない、まるでピン留めの様。幾らやり直そうにも、それを抜くことが出来なければどれだけ時間を重ねようと原因の解決には至らない。
それがママを死なせているのだと、脳は理解を拒んだが、心は理解していた。どれだけ修正をしたところで、私には如何する事も出来ないのだと。
次第にその想いは、確信となっていく。時間を遡り続け、とうとう私が産まれ落ちる前のママとパパが襲われた研究室まで踏み込んでいた。
そして。パパが死んだのは、結果として私の責任だった。後を追う防人は、私が逃げ込んだ研究室で不死化の研究を持ち帰った。その際抵抗したパパを銃で撃ち、その場から去って行った。
パパは争った末にママに銃を向けられ、それを庇い撃たれたのだった。
愕然とした。その一言以外に表現する事は出来なかった。私が時間跳躍をしなければ、パパは死なずに済んだのだ。私がその原因だった。私が巻き込んだんだ。何も知らない二人を。
私は何の為に、時間を超えていたのだったか。
そうだ、ママを助けたかったから。どうして助けたかったのか。
誰かに頼られたから。
だれだったか。ああ、そうだみらいのわたし。
音を立てて崩れ落ちていく。扉一枚の先で泣き崩れるママの声が、酷く遠く、まるでスピーカーから流れている様。此処にいるのに現実ではないかのと思う程、自分が浮いた存在に感じる。
ママの死が抜く事の出来ない原因であるならば、もっと前に遡らなければならない。それはいつか、研究が完成する前か、ママが産まれる前か。何をすれば回避出来るのかは、もう考える余地が無い。
少なくとも、今の私が消えれば、未来の私は実験体にされる事を回避出来るのではないか。
ここでママを助けたところで、何処かの未来では死ぬ事が確立されている。ならば遺伝子コードを持った私が消えればそれで解決が出来る。
考えたくはなかった。ずっと目を逸らしていた。だが、もうそれしかないだろう。正常な思考なのか異常なのか、最早判断が付かなかった。
それでも、どうせ死ぬのならば。ふと思い浮かべるのは学校だった。一度も人と触れ合った事の無かった私。少しだけ憧れていた人と並んで授業を受ける光景。映像でしか見た事はないが、もし時間が許すのならば一日だけで善い、人と共に生きてみたい。
乾いた笑いが漏れる。それを望んでどうしたいのか。どの道死ぬしか道が無いのに。
けれど、死ぬ前に体験してみたいのだ。私になかった世界を。
思考が揺れる事は無かった。だが、振り切れもしなかった。少しだけ。それだけが頭の中にあった。
四章
ダイヤルを投影させると、そこにノイズが走る。始めは小さなノイズだったが、今では投影自体が揺れる程大きくなっている。試作品だったにも関わらず、此処までよく持ったものだ。恐らく次が最後だろう。私は目を閉じると、勢いに任せダイヤルを回した。
目を開けた先は、少し時間が戻っていた。先程まで暮れていた陽が昇りかけている。
手にしていたペン型の端末は、何処を触っても反応を示さない。役目を終えた様だった。長く、もしかするとママよりも長い時間を共にしたそれに感謝を告げ、私は歩き出す。
学校に行くのに血の付着した服では受け入れてはもらえないだろう。何処かで調達しなければ。それよりも潜り込む為に戸籍や手続きが必要だろうか。それに通うのであれば年齢の通り高校が善い。
歩きながらネットワークを呼び出したが、応答がない。
「電波ないのかな」
暫くするとネットワークに繋がった。どうやら私が居た時代より回線が悪いらしい。古い時代に辿り着いてしまったものだが、その方が好都合だった。データの改竄が発見されにくいであろうと踏んだからだった。
データベースにアクセスし、偽の戸籍と転校手続きを作成する。日本のセキュリティは甘かったと聞いていたが、これ程とは思わなかった。
後は制服を用意しなければならない。今すぐ用意するには手間と時間がかかる。だからと云って今の恰好では怪しまれる。
ふと、この時代であれば古着屋やリサイクルショップがあるのではと思い付く。私が居た時代では無くなってしまったが、ここは恐らく時代がかなり前だ。ならばとネットワークで辺りを検索する。恐らく学校の近くであれば制服を取り扱った場所もある筈だと。
その予感は的中した。ある高校の近くに一軒だけ古いリサイクルショップが記載されていた。ただ制服の取り扱い情報までは提示されていない。随分と昔は不親切なものだと溜め息が出る。評価の制度はこの頃から存在はするらしく、制服が購入出来ると口コミも添えられていた。
研究室から高校までもそれ程遠くはない。靴は途中で入手する事が出来た、だが服を着替える余裕はなかった。もっと時間に猶予を持たせるべきではあったが、それすらも儘ならなった。だが、それももう過ぎた事だ。今は忘れよう。
漸く店に着いた頃には高校は既に始業時刻を回っていた。店も開店したばかりらしく、小ぶりな立て看板には”open”の文字が書かれている。中に入ると、独特な香りが漂う店内に、幾つもの古着がハンガーに吊るされていた。それらを掻い潜って行くと、確かに制服が吊るされている。近くの高校の制服を手に取る。セーラー服に襟とリボン、スカートが若草色のお淑やかな雰囲気だった。
これが着られる。崩れていた心が少し浮足立った。
「何か用か」
不意に声を掛けられ、咄嗟に制服で首から下を隠した。
声の主はこの店の店主らしき男性の老人だった。皺の数はママと同じ位だろう。年齢的には近いかもしれない。顔立ちは気難しそうで、気楽に話の出来る相手では無いだろう。
私は声を掛けられてもおずおずと言葉を返すことが出来なかった。何分にもママと自分以外に初めて人と話すものだから、声の出し方は合っているか、見栄えは悪くないかを気にしてしまい上手く言葉が出てこなかった。
「それは、上明高校のせいふくだ。それが欲しいのかい」
怪しげに店主は私の恰好を見ている。周辺の子らはもう既に学校に居る事だろう。それが制服を手にしているのに怪しい訳がない。
「制服が、その、新しくしなければいけなくて」
苦し紛れに言葉を発する。それとなく理由を付ければ、店主の理解を得られるのではないかと踏んだのだ。
二度程、私と制服に視線を行き来させた店主は何かを悟ったのか、私から制服を取り上げた。この身形では店主の考えは当然の事だ。
諦める他ないだろう、そもそもあり得ない話だったのだ。私が学校に行くなどと。
踵を返す私の背を、店主の声が呼び止めた。
「袖も通してない制服を着る気か。丈を合わせるから着て来い」
そう云って制服を私に返し、カーテンの質素な試着室を指差した。
その心遣いが、心嬉しくママと話している位の声音で返事をした。
初めて袖を通す制服は、生地が使い込まれたのか柔らかく肌触りはは善くはなかった。常に身に着けているワンピースは人体への肌の擦れを極限まで小さくした物だ。それに比べればこれは質が悪いと云えるだろう。だがそんな事は気にならなかった。鏡に映る制服を着た自分の姿。まるで高校生の様だった。もし、この場にママが居れば何と云っただろうか。似合ってると云ってくれるだろうか。でも、もう会う事は無い。
試着室から出ると店主は新聞を読んでいたらしく、カーテンのレールの音に顔を上げて私の姿を捉える。店主から私の処までは障害物も無く、直線状にその姿はよく見える事だろう。何も言わず頭の天辺からスカートの裾の長さまでしっかりと目視すると、店主は頷いた。
「まあ。ちと手直しは必要だが急ぎなんだろ」
何処まで見透かされているのだろうと私は不思議に思えた。それとも私の正体に気が付いているのか。
ともあれ頷き返すと。店主は新聞を台の上に置いた。
「あのお金は、」
「後ででいい。学校が終わっちまうぞ」
「でもそれじゃあ」
「学校が終わったら支払いに来い」
こんな時には何と言葉にすれば善いのか、教材には何と書かれていただろう。思い出せない。口が何度も言葉を探しては閉じる。言葉が出ない。感謝したいのに、適した言葉がまるで存在していない様だった。
「あの、ありがとうございます。必ず支払います」
何とか繋いだ言葉に店主は振り返る事無く、また新聞を読み始めた。
「必要なもんは勝手に持ってきな。まあ女の子が使うようなものがあればだが」
ぶっきらぼうな物言いだが、その言葉の全てに優しさが存在している。
ママ以外の人に初めて優しくされた。防人には追い掛け回され、私自身にも冷たくあしらわれた。こんなにも優しい人がいるなんて。
涙が零れそうになりながら、それを堪え服や地面に置かれた靴を順に見ていく。高校生は革靴を履いているのを見た記憶がある。名称は確かローファーと云った。探してみると思いの他見当たらない。ずっと並べられた靴を見た先に、奥まった場所にひっそりと茶色のローファーが置かれている。飛びつく様に手に取った。サイズはどうだろうか、足に合うかどうか。履いてみると僅かにサイズが合わず、足の指が窮屈で当たる様だった。だが長く履く物でもないと、それを脱ぎ脇に抱えた。
他には通学用に鞄が必要だろう。手ぶらで行っては少々目立つ。しかし鞄はあまり種類がない。トートバックの様な物や、肩掛けの鞄等が並んでいるだけ。後は箱の中に乱雑に入った処から探す他ない。しゃがみ込み箱を漁る。この時代の高校生はどんな鞄を使うだろう。スクールバックが一般的だろうが、どうやら此処には無いらしい。その中に一つ、黒い小型のリュックサックが入っていた。表には悪魔の要素を取り入れた羽根が縫い付けられている。一目見て、これに決めた。
ようやく高校生らしい身形になった。店主に礼を述べるが、こちらは見ずに手を軽く振るだけだった。だがとても親切にしてもらった。それだけでこの時代に来て良かったと思えた。ネットワークを用いて、私は店の口座を突き止め提示されていた金額の倍を振り込んだ。せめてもの礼として。
外には陽射しが赫々と差している。眩しさで瞳が痛む。然しこれが、空。青く続く空。
息を呑む美しさ。これを見続ける事の出来る、この時代の子供達が初めて羨ましいと感じた。
だが一つ問題があった。ローファーを履いている足には、足りない物があった。靴下だった。用途としては足の裏の汗を吸収する事で靴の汚れや擦れを防ぐ用途がある。それに靴下を履いていないとなると見栄えが悪いだろう。けれど店内には靴下が置いていなかった。
近くで靴下を変える場所を調べる。どうやら近辺に薬局があるらしい、そこでならば靴下を購入出来る。私は足早に薬局へと向かう。
薬局に足を踏み入れると、店内は太陽とは異なる明るさがあり、古着屋よりも広く床も磨かれ清潔感溢れる場所だった。複数の店員がレジキャスターの台の裏に立ち、購入者の商品のバーコードを読み取り会計している姿があった。
薬局と名が付いているのだから薬が置いてあるのは勿論の事、飲料水や間食品や髪に使うカラー材まで販売されている。大量の品数に目を回しそうだ。
広い店内を歩き回り漸く靴下を見つける事が出来たのだが、少ない種類とは云え踝までの物や膝下までの物と違いがある。どれが善いのか見当が付かない。記憶を辿り、昔目にした高校生の恰好を思い出す。ぼんやりと黒く長い物を身に着けていた様な覚えがあった。それを頼りに黒く膝下までの物を選んだ。例え違っていたとしても顰蹙を買う様な衣類ではないのだから。
レジに向かう途中、髪留めやカラー剤が目に留まる。髪を染めた経験は一度もない。ならば一度だけ染めてみる事も悪くはない。箱を手に取ると、染める時間や方法が細かに記されている。どうやら簡潔に染められる物ではないらしい。仕方がないと箱を戻すと横に並んだスプレー缶に手の甲が当たる。それは髪に噴射するだけで色が付着する物だった。これならば手間がかからない。カラーが幾つも点在する中で、私の瞳と同じコーラルピンクを手に取った。
会計は電子化されたレジキャスターで、少しネットワークを弄ると簡単に会計を済ませる事が出来た。
そのまま店を後にし外で私は靴下を身に着け、髪を染める。鏡がなく何処が染まっているのかも解らなかったが、それも楽しかった。
身形が整った頃には、十二時を回っていた。これでは授業はあまり受けられないだろう。それでもなお、授業は受けられる。それで構わなかった。
高校の門に辿り着くと、人が通れる程度に開いており、そこから通り抜けた。
ネットワークで校内の地図を確認しながら職員室を探す。入口から程近い位置に職員室は存在していた。地図を使うまでもなかった様だ。
扉の前で、作法を思い出す。過去に見た記憶では入る前にノックする必要があった。その後失礼しますと声掛けもする。意を決し横開きの扉をノックした。扉を開け失礼しますと、想像の通りに熟す事が出来た。
だが扉が開いた事でその場に居た教員の眼が一斉に私を見つめた。怖気づきそうになりながらも、私は言葉を発する。
「本日転校してきました、三上累です」
それを聞き、教員らは顔を見合わせた。
ネットワークで偽の情報が上手く入り込めなかったのだろうか。顔には出さなかったが心臓は嫌な音を立てながら脈打った。
奥から眼鏡を掛けた、細身の背の高い男性が駆け寄って来る。
「三上さんね。初日から遅刻するなんて駄目じゃないか。ご両親にも連絡付かないし」
眼鏡のブリッジを押し上げ、ゆったりとした口調で叱られた。すみませんと謝罪を口にすると、溜め息を吐かれる。
「心配するんだよ、次からは気を付けてね。あ、僕は東出浩一。君の担任だから、よろしくね」
担任と云うのは知っていた。そのクラスに転属したのだから。とは云え、人の善さそうな顔立ちからは想像が付かない物怖じしている性格。私の時代では、顔立ちから性格まで全てネットワークに登録され、会う前から相性が解る。この時代にそんな制度はなく、相性も解らない相手と接しなければいけないのは不便であり、ストレスを溜めたりしないのだろうか。
校内に鐘の音が鳴り響く。東出はそれが昼休みを終える合図だと話した。そのまま一年生のクラスへ案内された。一年生のクラスは建物の三階に位置し、鐘の音が鳴ってからでは到底間に合わない距離だ。
東出は私に気をつかったのか、幾つも質問を投げかけた。
前はどんな場所に住んでいたのか。ご両親の仕事は何をしているのか。人付き合いは苦手ではないか。前二つの質問については経歴に記されており、尋ねる迄も無いだろう。卒なく解答する事が出来たが、人付き合いについては口籠ってしまった。それから素直に解らないと答えた。何分、人と接した時間も経験も余りにも少なく、苦手かどうかを自分で判断しかねる。
だが、困窮した様子も無く東出は私の後に続ける。
「人付き合いなんて慣れみたいなものだし、合わないならそれとなく付き合えばいいよ」
それは不思議な話だった。相性が合わなければ人と接する機会の無い時代では考えられない。それではストレス値が上昇してしまうのではなかろうか。それがこの時代だったのか。人付き合いをしながら関係を模索するのは本当に前時代的であり、また経験として蓄積されていくのだろう。不可思議で不便で興味をそそられる。
話を聞き込んでいる内に、私は一年の教室の前に立っていた。横開きの扉の上には突飛したボードに、”1-3”と書かれている。此処が今日だけの私のクラスらしい。
東出が扉を開けると、視線が一斉に扉へ向く。目の多さに、私は後ず去りしたい気持ちを堪えた。そのまま後に続き教室に踏み込む。
様々な顔立ちに、髪型、髪色。十人十色の世界だ。唯一同じなのは制服だけ。
東出が教卓の前に立つ。
「えー、今日話した転校生が到着した。さ、自己紹介して」
云われるがままに息を吸い口を開く。
「三上累です。よろしくお願いします」
教室内がざわついた。言葉が一斉に飛び交い、全て拾いきれない。困惑する私をよそに、東出は教室の一番奥の窓から一つ隣の席を指差した。
「あそこに席作ったから、そこに座って」
黒板の前から人の列の間を通り抜ける。その度に一人一人が声を掛けてくる。
よろしく。髪可愛いね。ようこそ。
歓迎されている事は伝わったが、人の多さに目が回ってしまいそうだ。
指定された席の隣には、黒く短い髪の男子生徒が座っていた。私を見ると軽く会釈をした。同じく会釈を返し、席に座る。硬い木の椅子は座り心地がとても悪い。木の机も均衡が取れていないのか多少ぐらつきがある。
前に座る男子生徒が振り返り声を掛けてきた。
「なあ、三上って斗真の親戚かなんか?」
不意に横を見た。隣に座っている男子生徒の顔に見覚えがある。黒い髪にそばかすの肌、ママの写真に写っていた男性の研究者、パパと似ている。
「パパ……」
「えっ、パパって?」
男性とが奇怪なものを見たと云わんばかりの表情をしている。
「あ、あの。そばかすが、そのパパと同じだなって」
「へー。パパ呼びなんだ」
どう会話を終えるのか、私は慌てふためいていた。ママとならば自然と会話が切れて終わるのに、この男子生徒はいつまで経っても話を続けてくる。
「その辺にしろよ。困ってるだろ」
隣の三上が男性生徒を諫める。気の抜けたへいへいと言葉を繰り返し、そのまま前に向き直す。
「あの、ありがとうございます」
「別にいいよ」
口数の少ない三上はそのままノートと参考書を開く。そこには数式が埋め尽くされる様に書かれていた。
もしこれがパパなのだとしたら、私は相当過去に来てしまったのかもしれない 。
パパならば、初めて口をきけた事はとても嬉々たる想いだった。こんな人だったのか。
そうしている間に東出は教科書を取り出し授業を始めた。教室内ではそれぞれに愚痴や何か言葉を伸ばしたりと騒がしくなった。
黒板に教科書に載る数式を書き始める。どうやら数学の授業らしい。私は何も知らずに潜り込んだ為に、今日何の科目を行うのかも知らない。鞄の中も何も入っていない。
何もせず座り呆ける私に三上が声を掛けた。
「どうしたの?」
美形とは言い難いが、好き勝手な方を向く短い髪に、目尻がはっきりとした顔立ちと、細身の身体付き。日頃体を鍛えている様には見えず、恐らく運動はあまりしないのだろう。益々パパにそっくりだった。
「えっと、何も持ってきてなくて」
嘘は云っていない。鞄しか持っていないのだから。
三上は面食らった様に目を見開いた。それからふっと笑みを零す。
「意外と抜けてるんだね」
そう云って、自身のペンケースからシャープペンシルとノートから一枚用紙を切り離した。
「これ使って。後参考書で良ければ貸すよ」
私の机にその三つを置き、三上は前を向き直す。
「ありがとう、ございます。三上さん」
高校生同士は敬語を使わないと何処かで見た記憶はあったが、私はそれに慣れていなかった。丁寧な言葉遣いだったのか、三上はまた笑みを見せる。
「敬語じゃなくていいよ。同い年なんだし」
今度は私の方を向く事は無かった。黒板に羅列していく数式を自身のノートに書き写すのに忙しいのだろう。
見えていないと解っていても、私は数回頷いた。
「じゃあ、昨日の復習で解ける者はいるか」
数式を書き終えた東出が生徒に向かって発言する。一番後ろに居る私から前の生徒は皆挙手する様子が無い。黒板に書かれているのは二次関数の式。そこから座標を求めるだけの簡易な数式だった。だが誰も答えようとしない。
隣の三上は既に解き終わっているのに、黒板すら見ていない。
私はそっと手を挙げた。東出が驚いた様に私を見たが、前に来るように指示を出す。
教室の視線がまた私に向く。こそばゆく、恥じらいは感じるものの、黒板の前に立ちチョークを手にするとその解を導き出し最後にグラフを添えた。
東出に答えを乞うと棒立ちになり式を凝視する。もしや間違いがあったのか、焦る気持ちと裏腹に、そのまま丸印が付けられた。
「ちょっと捻った問題だったんだけど、三上さんには簡単だったか」
言葉通り、通常の式に数字を当て嵌めるだけではなく、数字を先に求めなくてはいけないのは応用問題に近かった。だが解けない程難しくはないだろう。
席に戻る様に促され、私は席に座った。その間も、賞賛の声が聞こえ、恥の念を感じずにはいられない。三上も驚いた様で眉が少し上がっていた。
「すごいね。数学得意なの?」
「ちょっとだけかな」
今度は高校生らしい言葉遣いが出来ただろう。しかし三上はそんな事を微塵も気にしてはいなかった。それどころか式を解いた事をやたらに褒めた。
「あれは数字を先に求めないと解にはたどり着かないよね。ちゃんと気づいたんだ」
「うん、似たような問題を見たことがあったから」
懸命に話についてく私と、嬉々とした三上。気が付けば数学の話で盛り上がっていた。まだ先の公式についての話や過去の公式の応用について、まだ三上は私程には達していないが相応の知識はある様だった。
「そこ二人、盛り上がるのは後にしろ」
次第に声が大きくなり東出に叱責されてしまった。それでも二人で笑い合う。誰かとこうして意見を交換し、共有出来るのはこんなにも楽しいのか。
授業はただ数式を解いていくだけで効率の欠片もなかったが、周りに人が居ながら一丸となって同じ問題を解くのはとても楽しかった。
気が付けば終了を告げる鐘の音が鳴り響く。東出は授業を終え十分の休憩を挟んだ後に体育館への集合を命じ廊下を歩いて行った。
その瞬間教室の生徒が一斉に私の下へ集まった。口々に私を賞賛したり、容姿を褒め讃えたり、何処に住んでいたのか一斉に言葉が投げつけられ、私は困惑していた。
「ちょっと男子は後後! ね、三上さん髪結わったら絶対可愛いと思うんだけど、結わいていい? いいよね」
女子生徒のぐいぐいと迫力ある物言いに、私はただ頷く事しか出来なかった。そのまま私の背後に回り髪を弄りだした。ママ以外に触られた事の無い髪を弄られるのは何だか不思議な経験だった。
「ねね、さっきの式解くの凄かったんだけど。数学教えてくんない?」
「私でよければ」
「マジ!? 助かる!」
「三上くんと苗字一緒だけど家族か何か?」
「偶然かな……。よくある苗字だと思う」
答えては次々に投げかけられる質問に活気を感じる。若さに由来しているのか、それともこの時代にはこれ程活気があったものなのかは定かではない。だが悪い気持ちはしなかった。
「出来た!」
背後にいた女子生徒が髪を結い終えたらしい。大きめで板状の手鏡を前に置き、髪型を確認させた。耳からやや後ろの上部に髪を後ろに引き、左右から垂れ下げた髪型。
「インカラーが良く見える様に、サイドアップにしたの! 可愛くない?」
女子生徒はこぞって髪型を褒め、その生徒と話を始めた。
鏡に映る私は、目元に少し隈があり、やややつれている様に思える。だが先程のスプレーは背中の外には染まらず内側にだけ色が付いていた。これをインカラーと呼ぶとは知らなかった。
「困ってるんだからその辺にしてやれよ」
三上がまた生徒らを制する。
「何だよ斗真。ヤキモチか?」
「違う。質問攻めにしすぎだっていってるんだ」
「そうだったの? ごめんね三上さん」
「大丈夫、でも少し疲れたかも」
申し訳なさそうに落ち込みを見せる女子生徒達に私は手を振って言葉を返した。然し気疲れしたのも事実だった。
「明日も居るんだから日を跨げはいいだろ」
明日、その言葉によって現実に戻された。
私に明日は無い。今日中に死ぬつもりでいた、だから此処にいるクラスの人には今日が最後だ。約束もすべきではなかった。黙り込む私に、三上は声を掛ける。
「大丈夫?」
「あ、うん。ちょっとぼーとしてて」
本当は考えていただけだった。だが私は嘘をついた。どの道話したところで意味なんてないのだから。
鐘の音より前に東出が教室に戻って来ると、クラスの全員を体育館へ誘導した。列を成す集団に私も続いていた。
体育館には全学年の生徒であろう人数が揃っていた。膨大な人数、こんなにも多くの生徒を抱え込む学校の施設に驚きが隠せなかった。生徒は学年別、クラス別に二列に整列し、その場に座った。
静かになった体育館の壇上に立ったのは物々しい雰囲気の、小太りの中年の男性だった。生徒を見渡し、一度咳払いをすると口を開いた。
「えー、皆さん。勉強は好きですか。勉学に励むことは将来の自分への資産になります。どんなものであれ、学ぶことは自分を変えていきます」
長々と続く演説に、生徒らは皆飽き飽きとして上の空だった。折角話をしているのに、これでは時間の無駄だろう。もっと効率的に話を進めて欲しいものだ。
「そんな勉学に励んだ一人の学生を紹介します。ではどうぞ」
男性は私から見て右を向くと、左側へと捌ける。
そこに現れたのは、長いブロンドに水色のシャツと短く黒いタイトスカートに薄いタイツ姿を纏める白衣に身を包んだ女性だった。
私は、その姿を一目見ただけで心臓が高鳴った。
あれは見間違える筈もない。若い頃のママだった。
ママはそのまま演台の後ろに立つと、マイクに向かって言葉を告げる。
「皆さん、初めまして。綾織・ガルシアです」
私は耳を疑った。ママの昔の記事は皆、三上綾織で統一されていた。ガルシアと云う外国籍の苗字は聞いた事がない。
私が時間を移動した事でママ自身を変える結果になってしまったのだろうか。
「わたし私はハーフですが、そのほとんどを日本で過ごしました。この高校は私の母校です」
思い返せば日本人で髪が金髪と云うのは聞かないだろう。染めていたとばかり思っていたがあれは地毛で、海外の血が混じっていたからだった。それに気が付かない私もどうなのだろう。
「今日ここに招待されたのは、老化に至る原因解明により賞を受賞したことです。私は人づき合いより、勉学の方が好きな人間でした。ですが、そんな私にもこの高校は優しくしてくれました。友人を作り、科学者になる後押しをしてくれました。ですから今は勉強が嫌いであったとしても、それはいつか必ず役に立ちます。勿論、無理はしない様に、身体を壊してはいけませんから」
少し恥じる様に髪を耳に掛ける。
「そして何より今を楽しんでください、それは何物にも代えがたい財産です」
壇上から頭を下げるママに小太りの男性が生徒に拍手を促す。揃った拍手に体育館は包まれた。ママはまだ恥ずかしそうにしている。
「ではガルシアさん、ありがとうございました。最後にいくつか生徒から質問を受けていただけますか」
ママは頷くと、男性は生徒の方へ向き質問が無いか聞いて回る。だが誰も挙手する事は無かった。こんな貴重な経験はそうそうないだろうに、何も聞かないのは勿体無い事この上ない。だがここの生徒達はその価値を見出せていないのだろう。
「貴重な時間を割いて来ていただいたのに、誰も質問しないのか?」
誰も彼もが顔を見合わせて、何とも云い難い空気が流れていた。そこに私が手を挙げようとすると、三上が先に手を挙げた。
男性は三上に駆け寄り、マイクを手渡した。三上は立ち上がる。
「三上斗真です。お時間いただきありがとうございます。俺は科学者を目指していますが、それには何が必要ですか」
話した内容には触れなかったが三上は将来、科学者を目標としている。その為にあれだけ数学に力を入れているのだろうか。
少し考えた後、ママはその問いに答えた。
「質問ありがとうございます。そうですね、分野にも依りますが、数学と科学には力を入れると良いかと思います。科学者になれば同業者になりますね、共に研究できれば幸いです」
最後ににこりと笑む。三上はそれに答える様に頷いた。
見つめ合う二人の姿が、私の中であの写真に合致する。三上斗真は私のパパで、綾織・ガルシアはママなのだ。
恐らくママはパパと出会い婚姻を結び、苗字をパパのものを選択したのだ。記事の苗字が三上なのは、ほぼ全てが修正されたからなのではないか。私が居た時代では苗字を変更後、記事が書き換わることは能く在る事だった。二人はここで出会い、共に研究する仲になった。その瞬間に私も居る。認知はされていないが、それも構わない。何故なら二人が生きているのだから。
男性に座る様求められ、三上が座ると周囲の男子生徒は三上を揶揄っていた。
美人だったな。ああ云うのがタイプか。
それを掻い潜り、いなす。三上は、パパは人付き合いが上手かった。だからママとも出会う事が出来たのだろう。
最早、此処に留まる必要はない。もう十二分に私は幸福だ。
教員が先導し、それぞれの生徒が元の教室に戻って行く。私は東出にママと話せないかと交渉する。唸る様に首を回したが、少しだけと許可してくれた。頭を深く下げ、私は生徒とは反対方向へ走り出した。
この時代のママに聞いても仕方がないのだが、どうしてもママに訊きたい。
その私をパパが制止する。
「三上さん、どこ行くの」
「聞き逃したことがあるの、だから訊いてくる。三上斗真くんも元気でね」
不可解な表情を見せるパパに、私は笑みを見せる。そしてそのまま、ママの元へ駆けていく。
ママは男性と話していた。感謝と功績を伝えられ、ママは照れている様だ。
「あの」
私の声にママが顔を向ける。
「質問でもあったかしら」
その様に解釈してくれているのならば都合が善い。
「そうです」
「すみません校長、また後ほど」
校長は然し、と口にしたが渋々承諾してくれた。私の横を通り過ぎて行く校長は、失礼のない様にと云いたげな視線を向けていた。
だがいざ目の前にすると言葉が出てこなかった。あんなに訊きたい事を頭の中に焼き付けていたのに、それは何処にも存在してい無かった。
口を紡いだ私を心配する様に、ママは顔を覗き込む。
「どうかした?」
溜め息を漏らすしか出来ない。何の為に許可を貰い、ママの元迄来たのか。
「私、」
言葉が止まる。ママの後ろに置かれたスタンドミラーに人影が映っている。それは生徒の姿ではない。瞬時に防人だと判別した。逃げなければ。
何を思ったのだろう。私はママの手を掴んでいた。そしてそのまま走り出す。壇上の階段を下り、一目散に駆ける。玄関を目指そうとしたが、そこにも防人の一人が居た。踵を返し階段を駆け上る。上には逃げ場がない、何処かで下らなければ。走りながら私は地図を脳内に浮かべていた。
「ちょっと、ちょっと待って!」
ママの腕の力に、今度は私が引っ張られた。
「いきなり走り出して、さっきの人は何」
玄関前に居た防人に気が付いていたらしい。その説明を私に求められた。もし此処で防人の話をしたら、未来はどう変化するのか。私が産まれない可能性が起こるのではないか。瞬時に幾つもの事象を考えるが、どれも噛み合わない。
ママは上がる息の合間に私に問い掛ける。
「貴女、何か関係してる、でしょう。何なの」
「私、」
話しても善いのだろうか、話す事でママが死ぬ未来があり得るのではないか。
迷った末、私は未来が変わる可能性に賭けた。
「私は、未来から来た」
走りながらそう答えた。
「未来で貴方の子供」
「へっ?」
気の抜けたママの声は聞いた事が無かった為か、私は笑い出していた。
「あれは防人っていって私を捕えに来たの」
背後から複数の足音が階段を駆け上がる。一人が追い付き、私とママに銃を向けた。
単発でなく、複数の照射にママの左足が擦れる。
「っああ!」
声を上げその場に倒れ込む。私は肩を貸し、ママをより上へと連れた。
三階まで上がり切り、残るは屋上のみ。私は階段から一つ離れた教室に隠れた。何故か防人は上がってこない。屋上へ逃げたと思われたのならば時間が稼げるのだが。
その場にしゃがむママの左足を見る。照射は浅く、傷の割に血が滲んでいるに過ぎなかった。症状は重くなく、私は安堵した。
「ねえ、未来からって、私の子供って、どういうこと」
痛みに耐えながら、ママは私を見つめる。白衣が乱れ、倒れた拍子に血が付着している。
「そのままだよ。私は遠い未来で貴方の娘、そしてママが死ぬのを変える為にここまで来た」
理解は得られない。そう思っていたのに、ママは不思議とそれを飲み込んだ。
「何となくね、私と顔立ちが似ているの。それに昔の私を見ているみたいで、何だかそんな気がする」
困った様に眉を下げて笑う表情は、歳をとった後も変わらない。
「信じられるの?」
「だってわたしの娘なんでしょう? 何でかしら、信用できるの」
私は、ママに抱き着いていた。私が時間跳躍を繰り返したのは無駄ではなかった。今までもママには伝わっていた。なのに私が一人奔走していただけ。ママを助けたいのに、助けられなかった。それを重ね、私はもう、投げ出してしまった。
「ママは未来で不死化の研究をするの。でもそれは行ってはいけなかった。だから不死化の研究はしてはいけない」
「不死化の実験……」
ママは何か思うところがあった様だが、それでもその実験を行ってはいけない、それを修正すれば未来は変えられる。例え私の存在が無くなったとしても。
「そう、それは私の夢だった。でも行っていけないのね」
「うん」
頷く私の頬をママは触った。ママにこうして触れられたのはいつ以来だろう。懐かしくて涙が零れそうだった。
そっとその手から離れ、私は教卓に鞄から回転式拳銃を取り出し置いた。これは過去に拝借した物だった。だが銃の経験もない私には使いこなせず、最後の一発になってしまった。
ママはぎょっとした表情を見せるが、そのまま続けた。
「未来に戻る端末は壊れてしまった。だから私はここで死ぬ」
「死ぬこと、はないんじゃないの?」
「多分、私が死なないと未来は変わらない」
それは私が何度も経験した。ママの死が確定したものである以上、私の存在が不明確になればそれが変わる。あくまでも仮説に過ぎない。だがやるだけの価値はある。
「でも、出来ればママに撃ってほしい。ママからの最後の贈り物として」
ママは私の話と、経由は把握した様子だった。ママはやはり頭が善い。だからこうして話が出来るのだ。私が死ななければ、変化は確定しないだろう事も。
狼狽えているが、ママはふらふらと教卓に近づく。そして徐に銃を手に取った。
「……わたし、ずっと子供に憧れてた。子供を望めない身体だけど、未来では貴女を望めるのね」
「そう。私は紛れもないママの子だよ」
「……わかった」
震える指で一発の弾丸を弾倉に込め、照準を私に向ける。撃ちやすい様に私は教卓に膝を付き、姿勢を前にした。
「最後に、何を聞かれても答えちゃ駄目だからね」
「ええ、わかったわ」
愛してる。
乾いた音が響いた。
五章
「ママ、パパ」
私は五歳になった。
空は相も変わらず、雲に覆われている。青い空はいつ見られるのだろう。
「累、また空の話か?」
パパは私を抱き上げた。しかしパパには少し私は重かったらしく、辛そうにしている。
「空が好きだものね、話してあげたら。パパ」
近づいてきたママの足には傷がある。
どうして傷があるのと聞くと、ママは大切な記憶だからとしか教えてくれない。
その内教えてくれるだろうか。
その傷の事を。