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「おじゃましました」(塩屋で刺繍)



 青い景色がみたくて、ちょうど海の近くで気になる展示がやっていて。
 行くなら今日で、空もさわやかに澄んでいて、電車で聴くのによさそうな曲を見つけて、水色の表紙の本もかばんに入れて、出掛けた。

 玄関を出たら、壁にかたつむりがいた。地面には緑色に光るカナブンだかコガネムシだかがひっくり返っていた。すずめは飛び跳ねながら食べ物を探しているようだった。

 最寄りの駅で電車を待つあいだ、本を取り出すと、裏表紙の紹介文に目がとまった。
 本はいろんな要素をふくんでいる。ひらいてみれば言葉が並び、並ぶ言葉が自分の心と結びつく。自分ではまさか気にしているとも思っていなかったことでも。

 電車で片道2時間はかかるから、あれだけもう行き先は決まっているようなものでも、「やっぱり近場で」「あの川沿いなら」と代わりを探してみようとする。
 迷う時間がほしくて、乗り換えの駅のひとつ手前で降りて、本屋に入って、隣のカフェで一息つく。
 あいさつの明るい声が、高い天井の店内で交わされ、生き生きした空気が巡る。お客さんに気持ちよく過ごしてもらうための仕事。夜寝ただけではとりきれなかった疲れが、少し回復する。
 休みの日。私にとっての、休日。
 近いところのすばらしさも知っているけれど、今日は、少し遠くまでわざわざ行って、その道中なにをするでもなくて、そしてあの青色をみる。
 ようやっと気持ちがしっかりして、はちみつで優しく甘い飲み物を飲みきった。

 この曲の名前を、英語から日本語にするとしたら、【あのひと】はどうだろう。【女】を「ひと」と読ませるのは少しくどいからやだな。そんなことをぼんやり思いながら、持ってきたメモに書き取ることもなく、電車に揺られる。
 行ったり来たりして、まっすぐにいけたら無駄がないんだろうもったいなくないんだろうと思いつつ、これも全部いまの私だからそのまま包んで抱えていく。


 動く景色のなかの空と海が見たかった。
 電車の窓から海が見えていた。少し遠いところには、たくさんの人が乗れそうな大型の船。海岸からつき出した、あれは舟を寄せる場所だろうか、そこで並んで釣りをしている二人。鳥も飛んでいる。あの鳥は、海辺の鳥たちは、どんなふうに鳴くのだろう。
 学校や仕事に向かう、家に帰る時に、そうやって海が見えているって、それがいつも通りって、どんな暮らしなんだろう?


 一回しか来たことがないのに、道を覚えていて、坂道の途中ふり返って見える景色がちゃんと懐かしくて、不思議だった。
 またきました。お久しぶりです。
 最後の坂がいちばん急だった。


最後の坂を登りきったところ


 やもりがすすすす、と道を横切る。坂を囲む木々のなか、ウグイスの鳴き声が響きわたる。

 時々出かけては、絵や、今日だったら刺繍の展示をみる。いったいこれはなんなんだろう、何をしてるんだろう?と思う。誰かにその話をしようとして、言葉につまる時、特に思う。急に気持ちがしぼんでくる。
 それでもこうして結局足を運ぶのは、あの場所にしかない、今しかない、ひとりの人にしか生み出せない「なにか」がそこにあると、毎回感じるから。
 後で消えてしまうから、後であやふやになるから、それくらいなら行かないほうがいい?そんなことはまったくない。
 お互いが生きていて、片方は生み出して、もう片方は受け取って、そこでやり取りされるものにそれぞれが安らいだり癒されたりする。


 薄く、むこうが透けて見える生地のうえに、枠いっぱいのお城、草花、そこに住んでいるのか、はたらいているのか、ちいさな人たち、動物たち。立てかけられた窓から、白くやわらかい陽が差し、彼らを照らす。
 如雨露がかかっていた。さっきと同じ生地でできている、じょうろ。ティーカップは赤い糸で、じょうろは青い糸でふち取られていた。紅茶と水。
 この家に住むあの子は/あのひとはきっと、絵を描いてはクッキーをかじり、沸かしたての熱いお湯をたっぷり注いで淹れた紅茶をすすり、庭に出て、季節ごとに色を変えてゆく草花に水をやり、雨の日には窓をつたう雫を眺めているのだろう。
 水の出てくる穴が、青い糸でひと息に縫われているから、点と点をつなぐ線があちこちを向いていた。それは勢いのある草の葉先が、日の当たる場所を選んでそれぞれに伸びていくようすに近く、見ていてつい頬がゆるんだ。
 こうして過ごした日から、私の日々のなかに、針と糸で絵を描くひとの存在がちいさな光として宿る。


 人の動く気配がして、体をずらし、駅に降りる人々を見送る。じきに乗り換えの駅に着く。
 動き出した電車の窓を、見慣れた川や街並みが流れていく。

 まぶたを閉じて、瞳のなかの暗闇に、あの青色を映し出す。
 選んだものや、見たもの、感じたこと、行くと決めるまで迷った心。ぜんぶがわたしの大切なたからもの。またいつか出掛けていくその時まで、わたしはわたしを生きていよう。


✳︎
「おじゃましました」


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