京都と八王子

今日、自分の卒業展示会で「危機感」をテーマに、目を背けたくなるような主張や危機感について話す父親と同世代の建築家を見た。

私の父親は研究者だ。学問は経済学を専攻している、というか人生が経済学専攻って感じだ。

私は、その建築家の話を聞いてる中でなぜ自分が東京へと戻ることに固執したのか、またなぜ実家や地元が嫌いなのか、その理由にハッキリと気付いてしまった。話を聞いてる間はモヤモヤとしていた、モヤモヤとした逃げ出したいような気持ちを自転車に乗って帰るその道中で、ハッキリと言語化してしまったのだ。

私の父親は、昔から嫌なことばかり言う男だ。
みんなが持っていたキラキラした鉛筆や、シール、洋服、そういうものが私は欲しかった。父親は、それを与えるのを極端に嫌い、特に「みんなが持ってる」というワードが大嫌いだった。

小中学校では流行りのものや遊びが私の生活には1番大切だったが、家では流行りというものが1番のタブーであり、私は日々行われるその価値観の切り替えに悩んだ。
家では、社会の欠点や制度の改善点、どん暗い日本の未来の話ばかり話す父親。
学校では、家での価値観を捨てきれずに集団に染まりきれない自分。
席替えで女の子のグループを作る度に、人数調整のために5班から2班に移動を頼まれたりする自分がとても嫌いだった。

落語、本、ラジオ、演劇。インプットが非常に多い別世界に一番敏感で貪欲だった頃だと思う。

大学進学と同時に私は居住拠点を移す機会を得た。
八王子から離れ、父親や地元の人間と別離した京都に来た。

本を読まなくなった。
社会やこの世界について、悩む材料を常に頭に流し込んでくる父親が私の日常から消えた。
鬱屈した気持ちにさせる人間も、社会とそのズレに苦しむ環境も消えた。
好きな物、好きなこと、好きな人とだけ関わって、生活の全てを自分で取捨選択出来るようになった。
京都での生活そのものが私にとって、逃避だった。

卒業論文がうまくいかなかった。
裏付けのない、口調だけそれっぽい中身のない、網羅的なフィールド調査だけが書かれた卒業論文。言い訳は色々ある。
でも、それは紛れもなく「逃避した生活を延長し、このままひっそり適当に就職し、生活のために生きようとしてる私」と「どこかで自分は非凡であり、これから芽吹く種子だと信じている社会的な私」が闘わずしてなあなあに提出した卒業論文だった。



講演会で、危機感の話を学生にする卒展ゲストの建築家を見て、ふっと父親のことを思い出した。
講演会の直後のモチベーションはみんな最高潮だ。そこから徐々に生活で手一杯の日常へ、雑誌の生活や視覚的に豊かな暮らしに逃避する循環へとみんな戻っていく。私もそうだ。自分のいる環境に染まっていくことすら無自覚のまま。

私は東京へと戻らなければという気持ちを4年間ずっと持っていた。関西に根を張ることは微塵も考えなかった。

心のどこかで、私が危機感を抱く場所が実家であり、父親がその「講演会で話す彼」、つまり自分の世界へ問題や違和感を投じてくる存在だと信じているのかもしれない。
私の日常には存在しない危機感の中で生きる父親に、頼っている。父にとって、大学や研究室がそういう存在であったように。

私は今、少し背伸びして入った大学院の新しい研究室や環境が不安だ。孤独と鬱屈、そして目を背けたくなる世界を提示し続ける父親の影。

私はまたあの場所に戻ろうとしている。

大丈夫、大丈夫。
京都に来て手放しの自由も、悩ましいと知れた。

どの選択が自分にとっての逃げなのか、それとも別の道なのか知れた気がする。

私は東京へ戻る。
私も嫌なことばかり言う人間になる。

楽しい生活の中で得たものに満足してない自分を少しだけ肯定する。

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