見出し画像

化粧と母と、パチンコ上京物語。

最近、メイクをしてない。都内に暮らす37歳。なのに顔については全く自信がないのである。

奥二重で腫れぼったく、鼻は団子っぱな。まるみがり低く、口はロゴボというらしい。インスタグラムをみていたら知った。

体重がここ10年で10キロ増えて二重あごだ。都心のキラキラフェイスからは程遠い。電車にのれば広告のビフォー全域を担当できそうな顔だ。

最近までとてもメイクが好きだった。大して変わらないかもだが、私がちょっと武装しているようで変身した戦士のようで嬉しかったのだ。顔に絵を描くように毎日描いていた。

そんな私が最近、化粧をしないでバーや職場に行ってみてる。そんなこと、刀を持たない侍のようだ。傷つくためにサボテンをハグするようなものなのに、なぜそんな道を選んでみたか書いてみることとした。

そんな前なのかよ。とつっこみたくなるが、幼少期の母との記憶を辿りたい。

パチンコ屋と母の蒸発


子供のころ、家庭の中は大荒れで毎日夫婦げんかが絶えず、夜ごはんの記憶がほぼ無い。冬にひややっこと冷たい食事をしてた記憶がある。夜中までパチンコ屋から帰ってこない日々。「どこにいるか探してきて」と父からの願いに、夜の19時頃に商店街をうろつく。全てのギラギラに輝いたパチンコ屋をまわる。煙草くさくて音が煩い、頭が割れそう。自動ドアの入り口で『うっ』となる。少し息を止めながら何件かのお店を隅から隅までまわった。数件まわったときに母を見つけると「帰ろうよ。お腹空いた。」と言って説得した。私の願いはこの2つに集約された。それ以外は言葉が分からなかった。お腹すきすぎて、早く返ってきてほしかった。母は、手元にある煙草に紅を残しながら「まだあとちょっと」とピカピカ光る台をみつめていた。

家に帰ると「どこいってたんだ!?」と母へ物を投げられた。やっとありつけるかと思ったが食事どころではない。
「やめてよ!」と限界突破した母は、私の手をひいて夜の扉を開けて外へ連れてってくれた。『このままどこか遠くへ行くのだろうか?』と想像していたら近くの駐車場の脇の草むらで、ひっそり隠れるように座り込むだけだった。

近所の目から逃げていたのだろうか。「もうそろそろ戻ろうか」と話された時、短距離すぎて少しガッカリした。

だから母が私を置いて蒸発したことは想定外だった。どんな牢屋でも母とは離れないものだと思っていた。

祖母の家で化粧に目覚める


母がいなくなってから借金取りに追われて、兄弟ともども祖母に預けられた。父が週末たまに会いに来た。その時、ひもじいことのないようにとお小遣いをたくさんもらった。茶色いお札を毎回もらった。

そのころ、何故か漫画を読んでいる自分がどうしようもなく恥ずかしい事のように感じた。誰に何を言われたわけでもないのに、りぼんとなかよしを卒業してみたのだ。キスや恋にあこがれてドキドキして楽しくて仕方なかったのに。毎月発売されたら両方を即座に買って次の月を心待ちにしていた。
そんな漫画推しだったのに夢のような世界を切る行為は、私自身からの離脱と蒸発だったかもしれない。

それから、高校生がたくさん載ってる雑誌を買うようになった。落合沙織ちゃんや竹下玲奈ちゃんがスパイラルパーマをかけて生き生きとした笑顔で高校生をしている。彼女らは、自分の可愛いを追及していた。夢中になり隅から隅まで雑誌を読んだ。新しい言葉で「超、チョベリバ、チョベリグ」などとという言葉が流行り。雑誌には載っていたので新しい言葉でブーム生み出す女子高校生に痺れた。父と母を月と太陽と思っていた私は、闇にいたため雑誌の世界を光に光合成していた。

そこから、田舎にあるスーパーで化粧品を買った。茶色いお札をパウダーファンデや眉毛を整えるハサミやアイメイク用品へと変身させた。

誰からも不必要な自分は、誰からも愛される無敵の可愛い人になってみたいと思った。一重でだんごっ鼻、ニキビで覆われていた顔が嫌で仕方なかったのだ。それは化粧で全て変わるものだと思っていた。雑誌を開いて下地やファンデーションの塗り方、眉毛の整え方を1つずつトライしてみる。眉毛が濃すぎて左右繋がりそうだったのに、雑誌の中の人に近づけたようで嬉しかった。肌はさほどカバーできず、ニキビっつらのままだった。

次の日、クラスで大笑いが起きる「眉毛がなんか変だよ」と。完ぺきに雑誌の通りだと思ったが「なんか変」だったらしい。

化粧は大人がするもので子供には罪なこと。という意識があったので、顔を真っ赤にして「そうかな?」と『なんもないけど』という風に答えた。どうしてそんな眉毛にしたか問われたが、まるで言葉にはできなかった。それからは皆とそこまで仲良くなれなかった。辛い時は詩と絵を書いた。

母が戻りパチンコ屋みたいな街へ上京

母から急に電話がきた。3年程帰ってこなかったから一生帰ってこないと思い、夢に何度もみていた。いざかかってくると、頭が白くなり思ったより盛り上がる会話はなかった。あたらしいパートナーと東京にいるとこのことだった。

それから半年後には、私も東京へ行くこととなった。兄弟は父に引き取られ、私は母のもとへ。

あのガレージにひっそり隠れていた何処にも行き場のない母子はどこにもいなかった。住んだ街はパチンコ屋みたいに街中がぎらぎらしていた。こんなに遠くまで来れるとは、知らなかったが似たような着心地の悪さ。ガッカリは消えたのに、あの頃のチーム感は無くなり母子の関係はコンクリートみたいに冷たくなった。

小さな頃は暗く牢屋みたいだったが振り返ると手を引く力に温度があった。急に私には興味がなくなったようだ。
田舎では夜は鈴虫の音が聞こえたが、サイレンやパトカーの音が夜もうるさい。排気ガスをあびて『うぅっ』となったら、息をとめて通学した。
お帰りもただいまもない家に帰っては、
隣の部屋からもれる、楽しそうな声に耳を塞いだ。

憧れの東京の女子高生になる。


東京の高校生になるとメイクをめげずに盛りに盛っていた。雑誌の中でみたあの景色に近づきたくて、極力毎日メイクをした。顔に絵を描いてようでずっと楽しかった。バイトで稼いだお金や、朝の1時間をつぎ込んで毎日違う私を歓迎した。もっと女子高生は常に彼氏がいて、皆からちやほやされると思い込んでいた。全くモテることはなかった。10回告白して10回振られた。思っていたのと違っていた。どんな化粧品を使ってもニキビは酷くなった。赤く痛いがファンデーションを塗装のように塗った。1人だけ、きちんと付き合って捨てられるのが怖くなり泣き叫んだ誕生日に別れて、キラキラな青春を思い描いてた日々とは違った。
親子関係は氷河期を迎え、泣いたり喚いたり家を出ていったりぶつかったこともあったが、隕石の跡のような大きな溝は埋まることはなかった。ブラックホールにいるような辛さがずっとあり、それを忘れるために、いつか生き別れた兄弟に会いたいな、と思い出していた。

社会に出る

高校を出て社会人となった。「メイクをした方が良いよ」と言われている同期がいた。

それまでメイクをすることが褒められたことではなかったはずなのに、そこに社会の暗黙ルールがあった。義務教育でメイクの時間は無いのに、皆できるという前提があること、不思議だった。「もっと社会人として頑張りたいから教えて欲しい」と言ったので一緒に洋服を買いに行って選んだりメイクをした。
自分が当たり前にできてる事で求められたのが、とても楽しかった。その次の日に同期は解雇命令が下り、私は業務用のシュレッダーの前で、心がちりじりになり、大泣きし続けて、先輩や皆が来てくれたが、泣き止まず大変だった。3年ほどで辞めてから、色々な転職を繰り返した。いつか兄弟に会う日を夢見てた。テレビで60代くらいで会う映像をみて、面影残しとかなきゃと、スポーツに勤しんだ。能天気に自慢の姉になりたくて自分磨きなどをしていたら、病気で亡くなって一度も会えなかった。知ってからは毎日泣いた。その頃、会社をやめて朝ドラを観るようになる。大概家族や兄弟が亡くなるので、わかってもらえてるようで少し気持ちが楽になれた。

現在の化粧


37歳になるまでメイクをずっとしていた。相変わらずパートナー1人もおらず。
なにかのために目は大きくみせたくて、涙袋を描いて口紅に色を落とし絵を描いた。肉がつきやすくなった頬にチークを塗り、コンプレックスだらけ。
すっぴんで出かけるのは怖くて仕方なかった。マスカラは20代ほど付きがよくない気がする。お馴染みメイクをしても大してすっぴんと変わらない気がしてきたくらい。37歳はもっと大人の色気と、穏やかさがプラスされるとおもって期待してたが全く違った。

変身願望も結婚願望も人から愛されたい気分も、どんどん消えてきてきたため、思い切って、BBクリームだけのすっぴんで過ごしてみることとした。

仕事場はそんなに皆気にする人がいないので変わらず。初対面はどうなのだろう?と、人と話すのが好きなのでバーや、読書イベントに参加してみたら、意外と誰も気にしてない様子。
色々な人と仲良くなった。『こんな私とも話してくれる人がいるのか!?』と謙虚になる。メイクしてないと人としてみられないかも。と不安だったのに、行った場所がよかったのか、ちっともそんなことがなかった。心がふわっと軽くなった。自分のままでいていいと勝手に言われてるような、どこかが治癒をしてる気分がある。小学校のとき以来のすっぴんでの初対面。恐れていたことはものすごくちっぽけだと知る。

母との関係は戻らないままだけど、今のパートナーと幸せならそれでよいと思う。きっとガレージから逃げ切れたことだけで、玉が切れてしまったのだ。

やっと私はあの頃の自分を迎えにいった気がする。家族も化粧や30代も思った通りにはならなかったけれど、コンクリートを熱い足で踏みしみて、どこまでいけるだろうか。

#創作大賞2024 #エッセイ部門



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?