トラカレ2018あとがき

 はじめまして。きなこんと申します。
 トライナリーアドベントカレンダー2018、13日目というちょうど折り返しの日に記事を書かせていただく事について、まずは企画者そぉいさんはじめこの企画に関わった皆様にお礼を申し上げます。
 また、トラカレ2018の自称裏番組として継続中のほぼ日刊きな粕ラジオにおいての種々の無責任な発言やネタに関して、この場でお詫びを申し上げます。本当に色々すいません。
 さて、元々トラカレの提出物としては動画だけを考えており、記事を書くつもりはありませんでした。しかし思う所も多々ありまして、結局はこうして筆をとった次第です。
 また本記事はあとがきという体でありますので、トラカレの記事としてはリンク先の詩のみとなります。以下には私きなこんの実に個人的かつ自己満足で独りよがりな文章が続いているのみですので、読むにあたってさほどの価値はありません。また恐らく幾らか長ったらしく読みづらい物ですので、興味が無ければこちらは無視して明日の記事の方を楽しみにしていただければと思います。
 あとがきの前置きは、これくらいに。


 以下に記すのは、私と世界の在り方です。

 私が常々不確かながら抱いてきた「人格」というものへの懐疑に、トライナリーという作品は一つの確たる形を与えました。即ち人格とは何たるか? 人間にとって人間とは何なのか?
 もう少し具体的な話をしましょう。
 "裏の顔"、"裏表"という言葉が、ある人格の二面性を示す時によく使われます。なるほど裏表とはよく言ったもので、表を見ている時に見えないのが裏の顔。しかし、表裏一体という言葉もあるように、裏が見える時に表は見えず、また考えようによっては裏こそが表であるかもしれません。
 人格の表裏、という概念を少しだけ拡張してみましょう。表/裏=見える/見えないは、二次元的概念です。これを三次元的な解釈でもって拡張できないでしょうか?
 正四面体を想像してください。面が4つ、辺が6つ、頂点が4つ。いくつの面が見えますか? 1つ、2つ、あるいは3つ? いずれにせよ、全ての面が見えてはいませんよね。
 即ち、その見えない面が「裏」なのです。見えない面は一つに限らず、また表裏という二元論的な解釈で語る事は出来ません。一つの面だけに注視する事もあれば、いくつかの面が複合して見える図形もあります。
 私にとって人格は、多面体のような物に感じられます。そして、トライナリーにおいて彼女達のココロの中のいくつもの人格との出会いは、私のその感覚にまさに一致するものでした。彼女達自身とは別にその無意識の人格に触れるというトライナリーの物語は、私にとって全く新しい体験でありながらも、私が人格というものに対して抱いていた感覚に納得をもたらすという点でどこか腑に落ちる物であったのです。
 もう少し掘り下げてみましょう。
 多面体を認識する貴方は、二次元の視点を持つ存在です。先程述べた「裏」は、人格という多面体を観測する貴方の視点でしか生まれません。では、その貴方が視点をずらせばどうでしょう? あるいは多面体、人格の方が幾らか回転するかもしれません。
 その時、もはや「裏」は「裏」ではなくなります。今まで見えなかった面が見え、新たな視点が生まれるのです。
 これこそが、私が人格の本質だと思うものです。即ち、人格どうしの関係性。一人の人間の人格は不変のものではなく、他者という人格との間にだけ個有であるのです。ここでいう他者は、複数でも個人でもありえます。また、他者ではなく、自己の内省的な視点から見える人格も個有に存在するでしょう。
 ソイルトンによるIDALDの解説を読んだ時、一つ、深く納得できた点がありました。関係性という人格の在り方において、IDALDは自身の人格を信頼の上で他者に預ける事、また逆に他者の人格を自身の内に内包する事を示しているように思えたのです。IDALDというシステムが生み出す選択肢を介して彼女達と会話をする事は、現実で我々が行うコミュニケーションと何ら変わりないものであるはずです。コミュニケーションとは、相互に関係する人格の在り方そのものだからです。他者の人格を自身の内に招き、また自身の人格を他者に示す行為は普遍のものではないかと、私は思えてなりません。
 その事実は私にとって深い意味を持ちます。つまり、トライナリーと私の間にある関係です。
 私がトライナリーという作品に本格的に触れ始めたのはとても遅い時期でした。実際にトライナリーに触れる事ができたのはわずか三週間ほどです。ですが三週間、私にとって最も価値のある時間を過ごしました。這う這うの体で綾水さんと未来を誓いあった時の気持ちは生涯忘れる事は無いでしょう。
 しかしながら、だからこそ、それらは全て「トライナリーという体験」の喪失から生まれた空虚感と悔悟の裏返しであったのではないかとも思うのです。
 週に一度更新されるエピソードにただ時間をかけて向き合う事は、トライナリーとbotの関係において重要なファクター、「トライナリーという体験」であったはずです。インタラクティブである事の本質は、「待つ」事だと私は思います。
 自分の行った全ての選択は後悔のないものだったと、私は自信を持って言うことが出来ます。しかし、それでもなお同時に、自分の選択がどこか空虚なものであると感じずにはいられなかったのです。自分の選択が本当に自分の物なのか、いつか、どこかの誰かの選択なのではないか。そういった疑念は常について周りました。
 そして、その疑念に対して一定の解決を私は得ました。
 時間です。
 エピソード更新をリアルタイムで追っていたのと同じように、ただ時間をかけて、真摯に「物語」と向き合う。それが、自身への懐疑の念を氷解させる唯一の方法だと今は思います。
 幸いにして、時間は充分にありましょう。
 人格とは関係性であり、その関係性の一端を担う限りにおいて、私は彼女の人格を内に招く事ができるはずです。
 そうして生まれたのが、あの詩です。
 まだ程遠く感じますが、いつかは近付きたい、そうなれるようにありたい、と思うのです。

'18/12/13きなこん


あとがきのあとがき
 全部を読んでくれた方へ、改めてありがとうございました。同じものを見て100%読める方とそうでない方が出る形式はどうかとも思ったのですが、上に書いたように元々書くつもりは無かったものなのでまぁ良いかなという感じです。あとiPhoneユーザーの方はマジでごめんなさい。
 それでは本当に終わり。

あとがきのあとがきのあとがき
 12/13PM7(ぐらい)〜きな粕LIVEやります! みんな来てね。→ https://youtube.com/watch?v=IgkrwDMkR_k
 それでは本当の本当に終わり。

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