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かわいいの発見

「こういうのは、あとでググればいいからさ」と呟きながら、気だるそうな男子二人が私の目の前を足速に去ったのは、原田治展「かわいい」の発見の入り口に設置された、作者の解説パネルでの出来事だった。

展示には、原田治のさまざまなテイストの作品が並んでいた。さまざますぎて、狂気を感じたくらい。とにかく、彼の中に複数の人がいるんじゃないかと思うようなバリエーションの多さだった。私は、彼がイラストレーターとして試行錯誤して生み出した、さまざまなテイストの絵を楽しんだ。その一方で、彼の変幻自在な作品の中に彼の核のようなものがあるんじゃないかと、私は探していた。その答えはわからなかったが、展示の最後のパネルに決定的な彼の言葉を見つけた。それは「可愛い」とは普遍的なものだということ。みんなが共通して持っている、親しみを感じるものを人は「可愛い」と感じるのだと彼は、商業的ニーズを探すうちに発見したというような趣旨だった。

作品は確かに可愛い。本当に可愛い。しかし、休日正午の美術館で彼の幼少期から晩年期までを展示で辿るうちに、私はもやもやしていた。この展示では、ほとんどの作品が撮影OKで、多くの人が複数の治作品を撮っていた。一つの展示スペースに、5分くらいかけてスマホカメラを構えてアングルをどうしようか迷っていた人もいた。あまりに長いので、観察してしまった。その人はスマホ画面の端の方に作品を配置して、写真はほぼ白壁が占めていたので、そこに文字を打ってストーリーに載せるのかな?とか、想像して見てしまった。私はどうしても写真が撮れなかった。仮に写真に残したとして、私は後でそれを見返すだろうか?でもなんの記録?模写でもするか?いや、絶対にしない。学生時代に行ったヨーロッパで、教会のステンドグラスを見た時も撮れなかった。作品の写真を撮ると、作品の純度が下がると感じて私が嫌になるからだ。

引っ張りだこイラストレーターになった原田治は、離島に自身のアトリエを構えた。そこで創作したのは、抽象的な絵画やコラージュ作品。絵柄が異なりすぎて、本当に同じ人がこれを?と衝撃を受けた。題名のない作品が多いのだそう。これらのうち今回展示されていたものだけでも、それらは「可愛い」の反対にあるような印象を受けた。彼は「終始一貫してぼくが考えた『可愛い』の表現方法は、明るく、屈託が無く、健康的な表情であること」だと言っていた。これはインスタバエのことに聞こえた。原田治が辿り着いた「可愛い」を今日も多くの人がインスタで消費していた。インスタでパフォーマンスされる「可愛い展を観に行く私」として使われた作品たち。正直どっちが消費されたのか分からない。まさに可愛いの発見だった。

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