見切りをつけられる。ということ
「誰かに見切りをつける」とは個人的にはネガティヴな印象でしかなかったのが そのポジティブな側面が急に分かったのでメモ的に。
人のご縁は必要な時に繋がり、その役目が終わると切れていくという。
その考えはまぁまぁ好きだったので人生の中で80%位の比重で採用していた。
この人間という肉体(器)において、他者とのご縁が繋がり、その肉体同士が出会い、そして会わなくなっていく。
もしかすると人によっては生きていくうちに、どんどんご縁の相手が増えていくだけで減る事は無い。という人もいるかもしれない。
私も「増えるだけ」そういう時期があったり無かったり。そして減る一方期の最中。(その後は増えてく、とかは今は端折る)
ここ数年、どんどんご縁が薄くなっていった人が増えてきていて
それはご縁というのか、好き嫌いというのか
きっとその人は私に対してこういう考えがあるだろうなぁ、とか。
あの時の私の発言で私を嫌いになったんだろうなぁ。とか、思い当たる節を感じたりもする時もある。
まぁ昔からそれらの感覚は大抵当たっていて、何となくそうだろうと感じていた事を人伝に聞く、という事もよくあった。
私はその都度それを結構ちゃんと時間かけて悲しみ超えていく。
結局人は学び合うためにしか繋げられないので
私の事を「どういう人であれば繋がるけど、どういう人かと判断したら繋がらないぞ。」と
ある意味「思ってたんと違って見切りをつけられる」事が増えてきた、
という事。
(昔からの友達は不思議とそういう事は起きにくいけど)
この肉体としての私からすると、見切りを付けられたな、と感じた時
もちろん凄く寂しく感じるし「もう必要のないご縁なんだ」と無理に考えを採用した気になり、そのショックを無いことにした事もある。(その後それをちゃんと感じさせる機会が必ず来るのだけど)
けれど、学んできた意識の事からすれば
私はこの現実を望んでいるらしい。
(人は自分の源が望まない現実を創り出さない)
人に見切りをつけられる事を望む理由。。
まぁ誠実さベースの探究をしない事には「コレか‼︎」という答えには辿りつかない事は分かってるけど
今ある私の表面意識限界に向けて
この事に関して何かメリットがあるとしたら?と自問してみたら
「死んだ時に悲しむ人が少なくて済む」って言葉が浮かんだ。
死んだ時に悲しむ人が少ない。。
たしかに 悲しみに満ちたお葬式の場などの波動は耐えがたいものがある。(毎回その場に行くだけで体がブルブル反応してしまう)
親しい人が亡くなり、人が変わったように落ち込み枯れていくような人も見たりするし、後を追うようにすぐ亡くなっていく親族。とかよく見てきた。何だろう、あの見えない魔物が闊歩する感じ。
直接知らない人でも、人の死を知るという事は、現代社会ではある程度のダメージがある。
人の死で与えられるダメージというのは最小限に抑えられるなら絶対その方が良いのだ。と。
私は「自分が死んだ時はある程度悲しむだろうけどいつまでも悲しまないように」と子どもたちによく言っている。(出来る出来ないは願うしかないけど)
死ぬのは怖い事ではないし、見方によってはこの肉体(ここ数年あちこち不調)を終えるのは私にとって楽な事でもあるんだよ。と
死ぬ時に悲しむ人が少ない。。
これほど良い事があるのかな!?って急に思えた。
私が死んだと聞いて 「え!!!そんな、、、」や
「ショック、、」と言うより
「あーそーなんだ」「まじ冥福」
という反応で良いと思っている事に気づき驚き。
小学生の頃によく見ていた夢が
「大好きな人が私の死の床に泣きながら駆けつけてきて私は最後に一目会えて死ぬ」という内容で
リアルに号泣していたし、夢から醒めても悲しみが抜けるまで時間がかかった。
その夢の作用からか、「好きな人に惜しまれて死ぬ事が幸せ」というような意識の転換があったようで
いかに自分の死で悲しむ人が増えるかが勝負✊ぐらいに思って生きてた気がする、無意識のうちに。(なんかことわざにもあるよね、生まれた時はみんなが笑って死ぬときはみんなが泣いて的な)
死ぬ時もみんなが笑って、が良いよな、、。
て、、
笑う違いな気もするけど。
たまに子ども達との会話で、変な死因ネタが出てきて
もしありえない死に方(どうしても笑ってしまう感じの)
した場合
「あいつこうやって死んだって…」って
その人の死について話す度
いけないと思いながら爆笑してしまうだろうね、って。
それ良いんじゃない!?って。
笑ってしまう死に方希望だなぁ、結構本気で思っている。
見切りをつけられた無反応より、
そっちの方が良いのかな🤔
とにかく、私は
私が死んだ時に なるべく悲しみは最小限で🙏と
子ども達以外に対してもそう思ってたんだ、と
気づきのメモでした。(長い
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