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分断の時代に生きるという事

どうやらバイデンの勝利に終わったような米国大統領選挙・・(この記事を書いている時点ではまだ本当に終わったのか断言できない)
今回の選挙は赤と青の二つに米国が真っ二つに分かれたといわれており、バイデンは勝利宣言ともに融和を国民に呼びかけた。

この分断について思うところをまとめてみます。

分断という状況

これについてなんでだろうと個人的に考えるきっかけになったのは日本の野党の発言からです。ぶっちゃけ日本国民のほとんどが「またあんなこと言ってる・・」とまゆを顰めるような上げ足とりの発言に終始していて、しかも全くそれを変えようとしない野党の党首の皆さんの発言を聞いていて「なぜこの人たちはこの論調を変えようとしないのか??」と疑問に思ったことです。

おそらくほとんどの人はうんざりしていて、ますます野党に期待しなくなっていると思うし、その結果ますます野党を支持する層が薄くなっているので、方向転換したほうが良いんじゃね?みたいな印象を持っている人がかなりいるのではと思っているのですが彼らはちっともそれを変えようとしません。

そういう意味では一種の思考停止状態に陥っているともいえるのではと思うのですけど、私たち一般市民からするとめっちゃ頭の良い人たちのはずで、そこまでおかしくなっているとも思えないので、何か理由があるんじゃないかと思っていたのですが、ある日、これについて自分の中で「なるほど!!」と思えるひらめきがありました。

それは分断が起きているのは米国だけではなく、日本でもとっくに起きていて私たちも実は同じような思考にとらわれているのではという仮説です。

そのロジックは一言でいうとファンベースの考え方です。

ファンベースの考えとは??

社内、外にファンを増やしそのファンを基盤にマーケティングを行ていくという考え方です。

ファンベース

実はコアなファンが売り上げの80%を多くの小売、BtoBでは、ファン上位20%が売上の80%を支えているという、パレートの法則が適用されます。また、「より熱量の高いファン(コアファン)」が30%から40%の売上を支えていることがわかっています。

なのでこうしたファンの期待に応え、よりこうしたファンを熱狂させるプロモーションを行うとこういう人たちが周囲の人たちに口コミで自社のファンを育てていってくれるのでコアなファンに特化したマーケティングを行うことが有効である、

ざっくりいうとこれがファンベースの考え方だと思います。

これを日本の政治の世界に置き換えてみると、実は日本の野党はこうしたコアなファンがついているのではとという仮説が立てられるのではと思うのです。そしてこうしたコアなファンたちに向き合って彼らの支持に応える話をしているのですがそれが、私たちから見ると「??」と思える発言を繰り返しているのが今の状況だといえるのではと思っています。

でもファンベースの考えからすると、それでは、こうしたコアなファンが周囲の人を巻き込んでファンを増やしてくれるはずで、だとするともっと野党の支持者が増えてもいいじゃなんか??という反論が成立する気がします。実際この図式で今回の大統領選挙を見ていると、トランプ支持派と、指示しない派の真っ二つに分かれて米国中が分断し、その結果史上最高といわれる投票率と得票数を記録しているわけでまさしくファンベースの考えで盛り上がった選挙だったといえるわけです。

では日本の野党の支持層が増えないのでしょうか?これは現在の支持層があまりにもほかの人たちと分断されてしまっていて、周辺にファン予備軍がほとんどいなくなっているんではと思います。とってもとっても個人的には残念なたとえになってしまうのですがスキーマニアゾーンと同じ感じですね~マニア間でどれだけ盛り上がっても周囲の人からドン引きされるだけで全然広がらないという・・・(笑)


情報の氾濫は自分にとって心地よい情報しかインプットしなくなる状況を生み出し、嫌な情報はシャットアウトし、心地の良いもしくは都合の良い情報ばかりを拾って自分の中に取り入れることを促し、その結果としてそれが事実なのかギミックなのか、よくわからないまま受け入れるという志向の人たちがどんどん増えているように思います。

そういう意味では私たちはまさしく分断の時代を生きてるといえるのでしょうね??

ではこんな時代をどうやって生きていけばよいのでしょうか?

一方で人類には長い歴史のを経てもよいものはよいと時代も価値観も超えて普遍的に伝えられてきたものがあるという事に気づきました。

そう、それは芸術や文学などの優れた古典作品(古典に限る必要もないと思いますが)ですよね。そういう意味では人類には本質的には良いものは良いと見抜く力が備わっているのではと思うのです。なのでそこをしっかり見極めて生きていく力がこれからますます重要になっていくんじゃないかと・・

コミュニケーションの手段は叫び声から言語に、そして文字に代わり、それを伝えるものもパピルスから紙、そして電子情報にどんどん変わってきていますが伝えたいものやことについてはそんなに変わっていないですよね。だから源氏物語がいまだに漫画や小説になったりするわけで、そういった普遍的な何かというものを見極めて生きることがこれからの時代でより価値が出てくるのではという気がしますし、そういう本質的に良いものに出会うことが人生の喜びを高めてくれるようになるのではと思っています。

したがって氾濫する真偽の定かでない情報からこうした本質的に良いものを見抜く力がこれまで以上に人生の価値を高めるうえで重要になっていくような気がします。アートの世界でいうところの審美眼ですね。

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ではこの審美眼はどうやってはぐくむことができるのかを考えてみると、アートの世界では良いものをたくさん見て目を養う事だといわれています。本物を知ることが大事だという言い方もあるように思います。人間には本来、そういった本物を見る目があってそれは数多くの経験を経、感性を磨くことでだれでもあるレベルまで身につけることができるのではと思います。「良いものは良い」そこには理由はないし、ロジックもデータもなく、ただ良いという事実のみが横たわっているということでしょうか?私たちはこれまでの社会や教育で理由、根拠、数字に基づいた説明を行うことを求められてきました。でもこれらって相対的な比較の中で何かを語るうえでの道具じゃないかと思うのです。絶対的に良いもの、真理といえるものの説明には理由は不要だし、それは情報における審美眼を鍛えることによって見抜く力が養われるという事でしょうか?

直観って大事だよねという話

直観って実は本質に近づくために必要な感覚なのではと思っています。私は実はあまり自分の直観を信じられなかった時期があります。特に対人関係でそこについてすごくもやもやしていた時期があって、例えばすごく社会的地位があってえらい人だからその人のいう事が正しいと思わないといけないし、自分よりその人の言っていることを信じるべき‥みたいな考え方にとらわれていたことがあります。でも結局のところほとんどの場合、自分の直観が正しかったと思えることが後から判明することが多くて、そういう意味では多くの後悔と反省の中から自分の直観を信じるという事になっていたように思います。ただこれについては自分の直観に対する信頼性が増してきたというより、自分の直観に従って行動するという過程に対しての自分の満足感を重視してそうなってきたような気がします(自分がこうだと思ったのだからもしそれが間違っていてもしょうがない、むしろそこで他人の評価や意見を気にしてぶれる方が自分にとっては嫌だ!という感じでしょうか?)。

真理は一つでない??

でも、直観的にこれだというものにはやはり好みや好き嫌いがあるようで、芸術についてもミケランジェロは好きになれないけど、ダビンチは好きみたいなものはあるわけです。そうすると情報における審美眼を養ってとしてもやはり皆が一つの真理に行きつくことはないんじゃないの?みたいな問いをたてることができるような気がします。ううーん、どういうことなんだあ・・!!

これっておそらく絶対的に良いものとそうでないものを見抜くというのが審美眼であって、そのうえで自分の好みがあるという考え方がしっくりくる気がします。絶対的に良い(良いという事が妥当が微妙)と思えるものを見ぬく直観が人には備わっており、それは鍛えることができるし、それによって見抜く力を高めることができるのだけど、そのうえで人それぞれの好みがあるという事でしょうか?好みには優劣なんかあるわけがないし、人と同じである必要があるわけがないのだけれど、やはり良いと思えるものとそうでないものには明らかに違いが存在している。

ジャッジ種目ってそういうことじゃね?

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これについては例えばフィギュアスケートスケートのようなジャッジスポーツがそういう事で成り立っているんではという気がします。自分の場合はアルペンスキーの中のジャッジ種目である基礎スキーという分野で大会に参加しているのですが、やはり良い滑りは良いという見方が成り立つような気がしています(そうでない話も山ほどありますけど(笑))。タイムで優劣を競うアルペン競技種目を見ていても、タイムの早い選手の滑りって見ていてもオーラが出ていることがあります。面白いのはやはり目の肥えた人の意見は一致していることが多いことで、そこについてはこれまでの考え方に当てはまる部分があるように感じています。

絶対的な良さと好き嫌いを分けて言語化すべき

基礎スキーの世界はこのあたりの言語化があまりうまくできていない印象があってかなり情報が錯そうし、かつおかしな方向に話が行ってしまったという黒歴史があります。そっちの話をしだすと止まらなくなるのでこれ以上っ買いませんが(笑)、いずれにしても絶対的な良さと個人の好き嫌いを分けて表現するという視点がもっと意識化されるべきように感じています。さらに言うとスポーツの世界においても一人一人の身体的特徴や能力に違いがあるのですから、絶対的な良さに近づく道筋は一つではないはずで、その違いがあることに前提として受け入れるという価値観が必要なのではと思います。そして、真理を見抜くための直観力を向上させることには謙虚でありつつ、そこに至る様々な違いをそのまま違いとして受け入れ、自分の好みと同じように他人の好みを尊重して生きていけるようになれば、分断という対立的な構造から離れた社会の実現に近づくのかなあというオチで今回のブログは終了とさせていただきます。


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