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Netflixを解約するまで後29日〈サンクチュアリ第6話〜最終話〉

とうとうNetflixに堕ちてしまった哀れな人間による恥の多い備忘録である。せめて心までは堕ちぬよう抵抗していくために筆を取る。
Netflix、お前は「キャンセルや解約は簡単にできますのでお気軽にどうぞ!まっどうせそんなことできないでしょうけどね!こぉ〜んなに面白いコンテンツだらけの我がNetflixですから!」とのたまっているが、絶対に思い通りにはさせない。

『サンクチュアリ -聖域-』第6〜8話(最終話)

完走。前回の5話からいろいろな情報が増えてこれどう畳むつもりなんや…と思ったが最終話ラストの2分を観て納得。このシーンを描きたかったがためにこの作品を作り上げたのではないかと思うほどだった。「こういう相撲の作品を作りたかった〜!」という熱意がこの身体作りやセット、演出全てに表れていたように思う。
Netflixオリジナルを観たのはこの作品が初めてだったが早くもNetflixの利点のようなものを味わえたのではないだろうか。

前回から気になっていた「『聖域』とはなんなのか」という話だが、6話以降でかなり『聖域』らしさが浮き彫りになってきた。
タニマチの存在や八百長の打診、業界に蔓延するルールなど我々が想像している「各界ってこういうことが蔓延してるんでしょ」の一歩だけ先を行ったものがお出しされるので驚きと納得のバランスが丁度いい。この作品の魅力である王道らしさが損なわれない程度の塩梅で安心感ある。

様々な『聖域』が明らかになる中、猿桜にとっては「ただただ相撲に向き合い強くなること」以外必要がないというのが美しい。
角界には確かに『聖域』があるが、猿桜が向き合うのはあくまで相撲そのもの。
「角界ぶっ壊す!」と息巻き、その破天荒さでアウトローな魅力を打ち出してきた猿桜が最終的に辿り着いたのは、角界をぶち壊すことではなく寄り添わないことだった。

前回も書いたように、聖域の中にも日常があると同時に、日常の中にも聖域がある。
猿桜には猿桜の相撲を続ける理由、ライバル静内にも悲しい過去故の相撲への執着がある。その聖域はただ静かに立ち燃えて表舞台には姿を見せない。
あるのは土俵だけ。倒すべき相手だけ。

我々も物事に都合の良いストーリーをつけて楽しんでしまう性分があるが、本当のところは結局誰にも分からない。
我々が観ているそのテレビの中の取り組みが、そしてそれを観て湧き上がる感情のみが全てである。
聖域のある日常だからこそ、我々はどれだけ聖域に惑わされず何かに一本気になれるか。そんな教訓めいたものを勝手に受け取ってしまった。
それこそが自分に都合の良いストーリーなのでとんだブーメランなのだが。

そんなわけでめちゃおもろかったです。
普通に2期とかもやれそうな空気あるけどあの終わり方ならここでスッパリ終わってもいいのではないか。もしくは違う視点でスピンオフとか。

いきなり良質な作品を浴びてしまいNetflix側の術中にハマっている気がしているが、俺は絶対に負けたりしない。この感情だけは本当だと思いながら次に何を観るか物色していく。


Netflixを解約するまで後29日

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