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「的を得る!」

「的を『射る』が正しいんだよ」と指摘されるのが嫌なので「射る」を使うようにしていますが、「的は得るものじゃなくて射るものだよ(笑)」的にエラソーに言う人を見ると、ひねくれもののわたしは「べつに的を得たっていいじゃん」と思ってしまいます。

わたしと同じくらいひねくれものの長女も「的を得るの方が言いやすいんだから、そっちのほうがいいじゃん。言葉は変化するものだよ」と言うので、どうすれば「的を得る」を正当化できるか考えてみました。

「とは言え、弓道場の的を盗むのはマズいね...」
「あれじゃない?夏まつりにあるやつ」
「夏まつり?ああ、射的!」

そうです。的を撃ち落としてそれを得る、お祭りの射的はまさに「的を得る」遊びです。一件落着。これで「的は得るものじゃなくて…(笑)」と言われても「おまえ、夏まつりに行ったことないの?的は得るものだよ」と言い返すことができます。

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ところで「的を射る(得る)」はどんな時に使いますか?

「的を射た(得た)意見」は「物事の本質を捉えた納得させられる意見」みたいな感じで使うのではないでしょうか。

では、より適切なのは「的を射る」?
それとも「的を得る」?

「的を射る」は、あらかじめ決められた中心に矢が当たる感じがします。一方、「的を得る(射的)」は目的を落とすイメージです。

考えてみてください。
大事なのは「定められた中心に当てること」ですか?
そうではなく、中心から少しずれていたとしても、本質を捉えつつ目的を落とすこと、納得させることが大事なのはないでしょうか。

答えは出ました。「的を『得た』意見」のほうが「物事の本質を捉えた納得させられる意見」を表現するのにふさわしい言葉なのです。ああ、なんだか「的を射る」なんて言うのが恥ずかしい気すらしてきました。

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だからといって、明日から積極的に「的を得る」を使おうとは思いませんが(そもそも日常生活で「的を射る」という言葉を使う機会はほとんどありませんが)、「的を得た意見だね」と言っている人に会ったら「よっシャテキング!」と合いの手を入れて応援するくらいのことはしてもいいかなと思っています。

皆生温泉の射的屋さん、なくなったんですね。

「科学」と「写真」を中心にいろんなことを考えています。