見出し画像

歎異抄の旅(7)「恋に疲れた女が…」で有名な大原の里。仏教界を揺るがした大論争の舞台を訪ねて

 比叡山(ひえいざん)のふもとに広がる自然豊かな地・大原(おおはら)は、「癒やしの里」と呼ばれています。
 こう聞くと、
「京都 大原 三千院
 恋に疲れた女がひとり……」
   (「女ひとり」 作詞・永六輔)
という昭和の名曲が浮かんでくる人も多いのではないでしょうか。
 昭和40年に、デューク・エイセスが京都のご当地ソングとして歌い大ヒット。その後、由紀さおり、石川さゆり、テレサ・テン、島倉千代子などの女性歌手によってカバーされてきました。
 大原の里に、心の癒やしを求める歴史は古く、平安時代から多くの貴族や文化人が、都を逃れて隠れ住んでいました。
 その中でも、平家が滅んだ後に、清盛(きよもり)の娘・建礼門院徳子(けんれいもんいんとくし)が大原の寂光院(じゃっこういん)でひっそり暮らしたのは有名です。

なぜ、同じ仏教なのに、激しく対立したのか

 文治2年(1186)、この静かな山里で、日本の仏教界を揺るがす大事件が起きました。
 世に名高い「大原問答(おおはらもんどう)」です。
 天台宗(てんだいしゅう)や真言宗(しんごんしゅう)など、仏教の伝統的な宗派を代表する学者たちが、法然上人(ほうねんしょうにん)を大原へ招いて、激しい討論を行ったのでした。「討論」といえば聞こえはいいのですが、実際は、大勢で法然上人を打ち負かそうとしたのです。
 なぜ、そんな暴挙に出たのか。背景を説明しましょう。
「仏教」は、今から約2600百年前に、インドで活躍された釈迦(しゃか)が説かれた教えです。

釈迦の経典は、インドから中国、そして日本へ伝わった

 釈迦の教えは、経典に書き残されました。『法華経(ほけきょう)』『阿弥陀経(あみだきょう)』『大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)』など、その数はとても多く、全部で七千巻以上もあるのです。
 経典は、インドから中国へ運ばれて翻訳され、さらに日本へ伝わりました。多くの人の努力があったからこそ、今、私たちは仏教を聞くことができるのです。
 仏教といっても、今日、いくつもの宗派があります。しかし、大きく分けると、「聖道仏教(しょうどうぶっきょう)」と「浄土仏教(じょうどぶっきょう)」の二つになります。

「聖道仏教」は、「自力の仏教」ともいわれ、自分の力で難行苦行に励み、この世でさとりを開こうとする教えです。天台宗、真言宗、禅宗(ぜんしゅう)などです。

「浄土仏教」は、「他力の仏教」ともいわれ、阿弥陀仏(あみだぶつ)の本願(ほんがん)による救いを説きます。この世で、阿弥陀仏に救われた人は、死ねば極楽へ往って仏に生まれられると教えます。

仏教の争いには、決して武力を使わない

 法然上人は13歳で、天台宗の比叡山へ登られました。聖道仏教の勉学と修行に、その後30年間も打ち込まれたのです。しかし、真剣に修行すればするほど、見えてくるのは、体では立派な行為ができても、心の中には欲や怒り、愚痴の煩悩が燃えている姿でした。
 このままでは、死後の行き先は真っ暗だと驚かれた法然上人は、どこかに救いの道はないかと、すべての経典を何度も読み続けられました。そして、ついに、阿弥陀仏の本願に救われられたのです。

法然上人は、比叡山の報恩蔵で、釈迦の経典を何度も読み続けられた

「このような悪ばかり造っている法然でも、このような愚痴の法然でも、阿弥陀仏は救ってくだされた」
 法然上人は、直ちに比叡山を下りて、京都の吉水で、すべての人が平等に救われる阿弥陀仏の本願を説き始められました。吉水には、一般大衆だけでなく、武士や貴族も集うようになり、浄土仏教は大発展するのです。
 聖道仏教の各宗派は、
「このままでは、日本中の人が、念仏を称えるようになる」
と危機感を抱くようになりました。
 仏教の争いには武力を使いません。あくまで、釈迦の経典を土俵として、どちらが正しいかを討論し、勝敗を決します。このような討論を、仏教では「法論(ほうろん)」といいます。
 天台宗、真言宗などの学者が団結して、法然上人を法論で破り、浄土仏教の勢いを止めようと計画したのです。
 まず、比叡山延暦寺(えんりゃくじ)の高僧・顕真(けんしん)が、法然上人のもとへ、「大原の勝林院(しょうりんいん)へお越しください。浄土仏教についてお尋ねしたいことがあります」と招待状を送ってきました。
 法然上人は快諾されます。
 上人の弟子たちは警戒しました。何か魂胆があるに違いないと感じていたのです。
 しかし法然上人は、何の躊躇もされず、「すべての人が平等に救われる教えを明らかにする絶好の機会だ」と微笑され、大原へ向かわれました。

なぜ、熊谷蓮生房は刃物を持っていたのか

 3月中旬に、京都市内から高野川(たかのがわ)に沿うように国道367号線を北上し、法論の舞台となった勝林院へ向かいました。
 高い山と山の間を抜けるように進んでいくと、やがて大原の里に着きました。田畑が広がり、黄色い菜の花が咲いています。

黄色い菜の花が咲く大原の里

 大原といえば、しば漬けが有名です。道路沿いの漬物店で、勝林院への行き方を尋ねました。
「勝林院は、三千院(さんぜんいん)の近くですよ。国道の東側の道を山へ向かって上ってください」
 車が、やっと1台通れるくらいの道が、山の中腹へ続いています。行き止まりの所で、車を有料駐車場へ入れると、目の前が三千院でした。

この階段を上ると三千院
三千院の門前を、真っすぐに進むと勝林院が見えてくる

 三千院は広大な寺院です。正面には、城のような高い石垣が長く続いています。その石垣が切れる辺りに「熊谷鉈捨藪(くまがいなたすてやぶ)」と刻まれた小さな石碑を発見!

熊谷直実が、鉈を捨てた藪の跡に建つ石碑

 すぐ横に立て札があり、次のように書かれています。
「勝林院での法然上人の大原問答の折に、その弟子の熊谷直実(くまがいなおざね)は、『師の法然上人が論議に敗れたならば法敵(ほうてき)を討たん』との思いで袖に鉈を隠し持っておりました。しかし、上人に諭されて、その鉈をこの藪に投げ捨てたといわれています」

 熊谷直実といえば、元は源氏の武将でした。侍大将として、平家と戦った豪傑です。
 しかし、一谷(いちのたに)の合戦(現在の兵庫県での戦い)で、17歳の平敦盛(たいらのあつもり)を討ったことをきっかけに、自分の生き方に、大きな疑問がわいてきたのです。
「ああ、いくら戦争とはいえ、わが子と同じ年頃の武者を殺してしまった。俺は今まで、戦場で、どれだけの人を殺してきただろうか。恐ろしい罪を造ってしまった。こんな罪深い者は、死んだらどこへ行くのだろうか……」
 居ても立ってもおれなくなった熊谷直実は、京都の法然上人のもとへ走り、仏教を聞き求めるようになりました。そして、阿弥陀仏の本願に救われて、生まれ変わったのです。
 彼は、法然上人の弟子・蓮生房(れんしょうぼう)となり、かつて、戦場で「我こそは日本一の剛(ごう)の者・熊谷直実なり!」と叫んだ口からは、「南無阿弥陀仏」と念仏の声が絶えることはありませんでした。

 大原の勝林院には、聖道仏教の各宗派の学者や僧侶が380人以上も待ち構え、殺気だっていたと伝えられています。
 熊谷直実は、いざという時には、命懸けで師匠を守る覚悟で、鉈を隠し持って、法然上人についてきたのです。
 しかし、法然上人から心構えの誤りを叱られて、素直にこの藪へ、鉈を捨てたのでした。
 大原問答は、それだけ緊迫した雰囲気の中で始まったことを示すエピソードです。

各宗派の代表が、法然上人に挑む

「熊谷鉈捨藪」の位置に立つと、坂を下りた突き当たりに、寺の大屋根が見えます。あと100メートルくらいで勝林院です。

「熊谷鉈捨藪」から、坂を下りた突き当たりが勝林院

 山門をくぐると、境内は、緑の苔に覆われていました。真ん中に石畳の参道があります。大原ならではの、独特な雰囲気です。

勝林院の境内は、緑の苔に覆われている

 本堂正面の大柱には「大原問答」と、白い文字で大書されていました。800年たった今も、この寺の歴史を代表する出来事として語り継がれているのです。

本堂正面の大柱には「大原問答」と大書されている

 本堂に入ると、本尊の両側に「問答台(もんどうだい)」と書かれた高座が置かれていました。左右対称になっています。
 質問者と回答者が、向かい合った形で高座に座り、討論したのです。
 しかも、答えるのは、法然上人1人。質問する側は、各宗派を代表する学者と僧侶の連合軍。
 数の上では、法然上人が圧倒的に不利な中で、2日間にわたって討論が続きました。
 その内容は専門的なので、ここには書けませんが、ポイントは、
「浄土仏教と聖道仏教、いずれが優れているか」
という争いです。
 法然上人は、次々に投げられる質問に明快に答え、すべて論破されました。
 感服した聖道仏教の学者と僧侶たちは、法然上人を、「智恵第一の法然房」「勢至菩薩(せいしぼさつ・智恵を象徴する菩薩)の化身」と称賛しました。
 念仏の尊さを知らされた人々は、皆、「南無阿弥陀仏」と称え、その声は、3日間、大原の山野にこだましたのです。

「大原問答」は、誰のために

 法然上人は、次のように言われました。
「聖道仏教は、いずれも高遠な教えです。そのとおり修行すれば、さとりを得ることができましょう。しかし、私のように愚鈍な者は、聖道仏教の器ではありません。阿弥陀仏の本願でなければ、救われなかったのです」
 法然上人でさえ、聖道仏教では救われなかったと告白しておられます。
 はたして、今日の私たちは、山に入って修行に打ち込んだり、経典を学んだりすることができるでしょうか。
 そんなことは、とてもできない私たちのために、法然上人は、男も女も、知者も愚者も、すべての人が平等に救われる浄土仏教を明らかにしてくださいました。
 だからこそ親鸞聖人(しんらんしょうにん)は、『歎異抄(たんにしょう)』で、次のように教えておられるのです。

(原文)
煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)・火宅無常(かたくむじょう)の世界は、万(よろず)のこと皆もってそらごと・たわごと・真実あることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします。

『歎異抄』後序

(意訳)
火宅のような不安な世界に住む、煩悩にまみれた人間のすべては、そらごと、たわごとばかりで、真実は一つもない。ただ弥陀より賜った念仏のみが、まことである。
※火宅……火のついた家のこと

『歎異抄をひらく』(高森顕徹著)より

悲劇のヒロイン・徳子の寂光院へ

 せっかく大原まで来たのですから、『平家物語』の悲劇のヒロイン・建礼門院徳子が、ひっそり暮らした寂光院へ寄ってみましょう。
 寂光院は、三千院から見ると、国道をはさんだ反対側の山にあります。ふもとに車を留めると「寂光院まで八百メートル」と標識が出ていました。

寂光院へ続く道

 田畑が見える細い道を歩いていくと、女性観光客と、よくすれ違いました。やはり三千院と同じように、女性に人気があるようです。
 寂光院は天台宗の尼寺です。

寂光院の山門までは、長い石段が続いている

 道路に面した、さりげない入り口から、長い石段を上ると「寂光院」と掲げられた山門がありました。

建礼門院徳子が入った寂光院の山門

 境内には、緑の植栽や池があり、静かなたたずまいです。観光客が巡る順路が、数字でハッキリ表示されています。
 寺のパンフレットには、次の歌が載っていました。

ほととぎす 治承寿永(じしょうじゅえい)の御国母(おんこくも)
 三十にして 経(きょう)よます寺

(与謝野晶子)

 与謝野晶子(よさのあきこ)といえば、明治時代を代表するロマン主義派の歌人です。彼女が寂光院を訪れた時には、ホトトギスが鳴いていたのでしょう。
「治承」「寿永」は元号です。平清盛の娘であった徳子が、高倉(たかくら)天皇の皇后となり、華やかな生活を楽しんでいたころを指します。徳子が生んだ子が安徳(あんとく)天皇となり、ファーストレディの地位を確立します。
 しかし、平家を打倒する動きが活発になり、源氏の大軍が都へ迫ってきました。
 寿永2年(1183)、平家は、自らの屋敷を焼き払って都から脱出します。この時、徳子は、息子の安徳天皇を連れて、平家一門とともに西海への逃亡生活を余儀なくされました。

「おごれる人も久しからず。唯(ただ)春の夜の夢のごとし。たけき者も遂(つい)にはほろびぬ、偏(ひとえ)に風の前の塵(ちり)に同じ」

『平家物語』

 平家は、一谷の合戦、屋島の戦いで連敗し、北九州方面へ撤退。ついに、壇ノ浦の戦いで滅んでいきました。
 徳子の最愛の息子・安徳天皇は、わずか6歳で海の底へ消えていきました。徳子も入水自殺を図りましたが、意に反して、源氏の船に引き上げられ、都へ護送されてしまいました。この国の、トップクラスの栄誉に輝いていた女性が、あっという間に捕虜に転落したのです。
 与謝野晶子が、
「三十にして 経よます寺」
と詠んだように、徳子は三十歳で出家し、大原の寂光院へ入ったのでした。それは、法然上人の大原問答が起きる前年、文治元年(1185)のことです。

寂光院の本堂。平成12年に、放火によって全焼し、再建された

 かつての徳子を知る女性が、寂光院へ見舞いに来たことがあります。彼女は驚きました。
 二年前には、色鮮やかな服をまとい、宮殿で暮らしていた徳子が、今や、墨染めの衣を着て、粗末な部屋に住んでいるではありませんか。しかも、宮中では60人以上の女性が側に仕えていたのに、ここにはわずか数人しかかしずいていません。あまりの変化に涙があふれ、こんな歌を詠みました。

今や夢昔や夢とまよわれて
 いかに思えどうつつぞとなき

「今が夢なのか、昔が夢なのか、判断に迷ってしまいます。どう考えても、これが現実とは思えません……」と嘆いているのです。
 誰も予想できないことが、いつ起きるか分からない、それが、この世なのです。
 親鸞聖人の、
「この世のことすべては、そらごとであり、たわごとであり、まことは一つもないのだよ」(『歎異抄』)
のお言葉が、身にしみてきます。

自分の未来は、自分で変えることができる

 このような経緯を知ると、建礼門院徳子は、寂光院で、泣きながら余生を送ったのではないかと思われがちです。
 ところが、徳子の心は、光に向かって輝いていたことが、『平家物語』灌頂巻(かんじょうのまき)に記されています。

 ある日、後白河法皇(ごしらかわほうおう)が、寂光院を訪れました。後白河にすれば、徳子は息子の嫁です。その後、どうしているか、心配になったのでしょう。
 わびしい庵室(あんしつ)の前に立って、
「誰かいないか、誰かいないか」
と呼んでも、答えがありません。やがて、一人の尼が出てきました。
「徳子は、どこへ行ったか」
「山の上へ、花を摘(つ)みに行かれました」
「そんなことまで自分でやっているのか。まことにいたわしいことだ」
 すると、この尼が首を横に振って答えます。
「徳子様は、もう、悲しんだり、嘆いたりはしておられません。釈迦の金言、
『過去の因を知らんと欲(ほっ)すれば、現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲すれば、現在の因を見よ』
をお知りになってから、前向きに生きていらっしゃいます」

過去の因を知らんと欲すれば、現在の果を見よ
(過去に、善いことをしたか、悪いことをしたか知りたければ、現在、自分が受けている結果(運命)を見なさい。どんな結果も、すべて過去の自分の行為が原因となって現れてきたのである)
未来の果を知らんと欲すれば、現在の因を見よ
(未来、幸せになれるか、不幸になるかを知りたければ、現在の自分の行為を見なさい。善い行いをしていれば幸せになれる。悪い行いをしていれば不幸になるのである)

 徳子は、未来の運命は、これからの自分の行為によって変えられることを知ったのです。
 人を恨んだり、憎んだりして、愚痴の日暮らしをしていたら、さらに罪を造って、未来は、もっと暗くなります。
 現在、苦しい目に遭っているからこそ、前向きに生きていこう、善いことをしていこうと、心を入れ替えたのでした。
 後白河法皇にすれば、「平家を追討せよ」と、源氏に命じたのは自分です。
 徳子から、「私の母や子を殺したのは、あなたです」と責められてもおかしくありません。徳子の様子を聞いて、後白河法皇も、少しは救われた気持ちがするのでした。

 やがて、山の上から、濃い墨染めの衣を着た徳子が、細い道をつたいながら下りてきました。
 徳子は、後白河法皇に心境を語ります。
「このような身になったことは、一時的には哀れに見えるかもしれませんが、来世の往生(おうじょう)のためには、喜ぶべきことなのです。
 私は、こうして仏教を聞かせていただき、阿弥陀仏の本願に導かれ、浄土に往生することを願っています。
 それにしても、いつまでも忘れられないのは、亡くなったわが子の面影です。忘れようとしても、忘れられません。悲しみに耐えようとしても、耐えきれません。親子の情愛ほど深いものはありませんね。わが子を思い、朝夕、お経を拝読する毎日です。まさに、亡くなった子が、私を仏道へ導いてくれているとしか思えないのです」

寂光院の本堂の隣に「建礼門院御庵室遺跡」がある。
徳子は、この場所にあった粗末な建物で暮らしていたという

 後白河法皇が、
「人の世の儚(はかな)さは、今さら驚くべきことではないが、そなたの姿を見ると、あまりにも悲しくなるのだ」
と言うと、徳子は、さらに語り続けます。
「私は、太政大臣(だいじょうだいじん)・平清盛の娘として、天皇の母になりましたので、天下のことは、すべて思うがままでした。大臣、公卿(くぎょう)にかしずかれ、文武百官に仰ぎ尊ばれました。
 春は桜を愛でて暮らし、夏は泉の水をくんで心を慰め、秋は雲の上の月を眺め、冬の寒い夜は衣を重ねて暖かく過ごしました。明けても暮れても楽しみの毎日でした。
 ところが、源氏の来襲を恐れて、一門の人々は皆、住み慣れた都から逃れ、ふるさとを焼け野原にして、船に乗って西へ落ちていきました。
 さすがに哀れに思われ、昼は、果てしなく広い海上を進みながら涙に袖を濡らし、夜は海辺で鳴く鳥とともに泣きあかす日々が続きました。
 私は、およそ人間界で受ける苦しみの、すべてを体験したように思います」

 徳子は、源平の合戦の中で、この世の地獄を味わってきた経験を、切々と話すのでした。

 後白河法皇が寂光院を訪れたのは、勝林院で大原問答が行われたのと同じ年のことです。
 法然上人は、すべての人が救われる阿弥陀仏の本願の尊さを明らかにされました。大原の山野にこだまする念仏の声を、徳子も耳にしたと思います。一緒に念仏を称えていたかもしれません。
 彼女は、今は亡き息子の菩提を弔いながら、ひたすら仏教を聞き求めていきます。儚くも、三十代半ば過ぎで世を去りますが、阿弥陀仏をたのんで念仏を称え、念願かなって、浄土往生を遂げたと『平家物語』には書かれています。

 寂光院の境内を一回りすると、鐘撞(かねつ)き堂がありました。
 その梵鐘(ぼんしょう)には、「諸行無常の鐘」と、名前がつけられています。
「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無常(しょぎょうむじょう)の響きあり……」
『平家物語』冒頭の名文が、頭に浮かんできます。
 大原の山野に800年も響き渡る美しい鐘の声は、私たちに何を語りかけているのでしょうか。

寂光院の梵鐘は、「諸行無常の鐘」と名づけられている

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?