歎異抄の旅(10)生け花のルーツは京都の六角堂に! 池坊と聖徳太子、親鸞聖人の深い関係
私たちの体の真ん中には、「へそ」があります。
同じように、京都の中心にも「へそ」があるそうです。
冗談かと思ったら、京都市中京区の寺に「へそ石」があり、観光客に公開されているとか……。
さて、どこでしょうか。
ヒントは、聖徳太子(しょうとくたいし)によって創建されたという、非常に古くて有名な寺です。
特徴は、本堂の屋根の形が、六角形であること。
もうお分かりですね。
六角堂(ろっかくどう)です。
今回は、親鸞聖人(しょうとくたいし)と六角堂の関係を調べてみましょう。
古都の玄関・京都駅は、モダンな装い
新幹線で、東京から京都に着くと、まず、驚くことがあります。駅ビルの雰囲気の違いです。
首都の顔である東京駅は、赤レンガ造りのレトロ感を大切にしています。
それに対し、千年以上の歴史を誇る古都の玄関・京都駅は、斬新なモダン建築です。駅ビルの烏丸口(からすまぐち)を出ると、そこはまるで深い谷底のようです。右にも左にも、上層階へ向かってエスカレーターが延びています。
「京都市街を見渡せる場所はないだろうか」と思い、吹き抜けの空間を、エスカレーターを乗り継いで昇っていくと、細長い広場に出ました。見晴らしのいいガラス張りの展望台があります。
駅の真正面には、白い京都タワーがそびえています。街を照らす灯台をイメージして、昭和39年に建設されました。まさに、京都のシンボル。高さは131メートルあります。
実は、この京都タワーには、鉄骨が一切、使われていません。そこが、東京タワーや東京スカイツリーと大きく違うところです。
京都タワーは、飛行機や船のように、特殊な鋼板シリンダーを溶接してつなぐことによって造られたのです。
日本の「生け花」は、六角堂から始まった
京都タワーの東側を、真っすぐ北へ延びる道路が烏丸通りです。
今回の目的地である六角堂は、京都駅から約2.5キロメートル先。ゆっくり歩いてみることにしました。
京都タワーの隣が、ヨドバシカメラ。
やがて東本願寺。
京都だからといって、寺ばかり並んでいるわけではありません。東京と同じように大通りの両側にはビルが建ち並んでいます。
京都駅から30分ほど歩くと、六角通りと交差します。この角に、ちょっと変わった外観のスターバックスコーヒーの店舗がありました。全面ガラス張りになっていて、ビルの向こう側に建っている寺が透けて見えるのです。
歴史の街の景観を守るための工夫だとか。そうです。ガラス越しに見える寺が六角堂です。
本堂の屋根が六角形なので、「六角堂」と呼ばれていますが、正しい名は紫雲山頂法寺(しうんざんちょうほうじ)。天台宗の寺院です。
山門から境内に入ると、本堂のすぐ前に、「へそ石」がありました。中央にくぼみのある六角形の石です。
立て札には、昔の本堂の基礎石だと書かれています。約1200年前に、六角堂を北へ15メートルほど移動させた時に、一つ、置き忘れたのでした。
ちょうど京都の中心にあり、形がおもしろいので、「へそ石」と呼ばれるようになったのでしょう。境内のお茶所には、へそ石餅まで売っています。遊び心で、観光客へのサービスとして生まれたものに違いありません。
本堂の裏には池があり、ハクチョウが悠然と泳いでいます。
しかし、池の柵に、
「かみつきますので白鳥に近づかないようにして下さい」
と書かれているので要注意。
587年に、京都を訪れた聖徳太子が、この池で体を清めたことがきっかけで、六角堂が建立されたのです。
この寺を守る役割を担ったのが小野妹子(おののいもこ)でした。女性のような名前ですが、男性です。聖徳太子に仕えていた外交官で、遣隋使(けんずいし)として中国へ派遣されたことでも有名です。
聖徳太子の指示で日本へ仏教を伝えることにも貢献した小野妹子は、出家して六角堂の住職になりました。
仏教では、仏さまに美しい花をお供えします。中国へ行って、お仏花の素晴らしさに感動した小野妹子は、六角堂の住職になってから、自ら花をいけて、ご本尊にお供えするようになりました。
これが、日本の「生け花」の始まりだといわれています。
僧侶の住まいを「坊」といいます。
小野妹子は、聖徳太子が体を清められた池のそばに住んだので、「池坊(いけのぼう)」と呼ばれるようになりました。
以来、六角堂の住職は、代々、華道の家元・池坊が務めています。境内に、池坊会館が建っているのは、そのためです。
なぜか、「親鸞聖人」を強調する六角堂
六角堂の本堂は、土足のまま通り抜けられる造りになっています。天井を見上げると、
「見真大師(けんしんだいし)」
と大書された額がありました。これは、明治天皇が親鸞聖人の功績を讃えて贈った名前です。
さらに、その横には「見真大師御詠歌(けんしんだいしごえいか)」として、
「寒くとも たもとに入れよ 西の風
弥陀(みだ)の国より 吹くと思えば」
が額に入れてありました。
しかし、何の解説もありません。おそらく六角堂を訪れる人の中で、この歌の背景を知る人は、ほとんどないのではないでしょうか。
親鸞聖人は、40歳過ぎから関東へ赴き、多くの民衆に仏教を伝えられました。
ある大雪の晩、親鸞聖人は道に迷ってしまわれたのです。やっと見つけた一軒家で、朝まで休ませてほしいと頼まれましたが、断られてしまいます。その家の主、日野左衛門(ひのざえもん)が、
「オレは坊主が大嫌いだ!」
と言って追い払ったのです。
そこで親鸞聖人は、
「あんな日野左衛門にこそ、弥陀の本願を伝えたい」
と、雪が降りしきる屋外で、石を枕にして休まれたのでした。その時に詠まれた歌が、
「寒くとも たもとに入れよ 西の風
弥陀の国より 吹くと思えば」
だったのです。
この歌に込められた親鸞聖人のお気持ちは、次のように拝察できます。
「この西の風は、弥陀の浄土から吹いているように思われる。だから衣の袖に入り込む寒風も、親鸞、拒みはしない。ただ知らされるのは、阿弥陀如来(あみだにょらい)の広大なご恩である」
このあと日野左衛門は、親鸞聖人から仏教を聞くようになるのですが、詳しいエピソードは、別の機会に明らかにしましょう。
六角堂の本堂の横には、「親鸞堂」が建立され、親鸞聖人の木像が安置されています。
それだけでなく、旅姿の、親鸞聖人の銅像まで建っていました。
これだけ親鸞聖人との因縁を強調する六角堂ですが、残念ながら、境内には、親鸞聖人の教えを伝えたり、解説したりするものは何もありませんでした。
親鸞聖人の奥様の手紙から見えるもの
六角堂と親鸞聖人には、どんな関係があるのでしょうか。
その答えは、親鸞聖人の奥様の手紙に記されています。
奥様が、娘にあてて出された直筆の手紙が、大正10年に西本願寺の宝物庫から発見されたのです。全部で10通あり、恵信尼文書(えしんにもんじょ)として国の重要文化財に指定されています。
第3通には、「亡くなられたお父様は、このような方だったのですよ」とつづられています。この中に、
「山を出でて、六角堂に百日こもらせたまいて、後世を祈らせたまいけるに」
と記されています。
「山を出でて」とあるように、親鸞聖人は29歳で、比叡山を下りられ、六角堂に百日間、籠もられたのです。
その目的は、あくまでも「後世を祈る」ためでした。
これは、何を意味しているのでしょうか。
親鸞聖人は、幼くして両親を亡くされました。死は、情け容赦もなく、突然、襲ってきます。親鸞聖人は、
「次に死ぬのは自分の番だ」
と驚かれたのです。
死を、「旅立ち」ともいいます。
しかし、旅立つ先がハッキリしないのです。
「死んだらどうなるのか」と、えたいの知れない不安を抱かれたのでした。
これは、誰もが、いつか必ず直面する大問題です。
この大問題を、仏教では「後生(ごしょう)の一大事」といいます。
後生の一大事を解決し、この世から永遠の幸せになることが仏教の目的なのです。
親鸞聖人は、9歳で出家を決意し、比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)の僧侶になられました。
延暦寺は「自力の仏教」です。欲、怒り、恨み、ねたみなどの煩悩を抑えて難行苦行に励むことによって、後生の一大事を解決しようとする教えです。
親鸞聖人は、この教えに従い、比叡山で20年間も、煩悩と格闘されたのです。
しかし、どれだけ真剣に修行に励んでも、「死んだらどうなるか分からぬ心」が晴れません。
精も根も尽き果てられた親鸞聖人は、ついに、
「比叡山では、後生の一大事の解決はできない」
と見極められ、下山を決意されたのでした。
そして、聖徳太子が建立された六角堂へ、100日間、参籠する誓いを立てられたのです。
その目的は、恵信尼文書に、
「後世を祈らせたまいけるに」
と明示されています。
「後世」とは、「後の世」「死んだ後」のことです。
親鸞聖人は、六角堂に籠もって、
「後生の一大事を解決する道をお導きください」
と、一心に祈願を続けられたのでした。
95日めの夜明けのことです。
親鸞聖人の夢の中に救世観音(ぐぜかんのん)が現れ、どんな人でも、ありのままの姿で救われる教えがあることを示されました。
しかし、この時の親鸞聖人には、どこへ行って、どなたからお聞きすればいいのか、全く分かりませんでした。
絶望された親鸞聖人は、まるで夢遊病者のように京都の町をさまよい歩かれるのでした。
鴨川(かもがわ)にかかる四条大橋(しじょうおおはし)の上で、親鸞聖人がたたずんでおられると、たまたま通りかかった一人の男性が、
「おや、親鸞殿ではござらぬか」
と声をかけてきました。
かつて、比叡山で一緒に修行していた友人・聖覚法印(せいかくほういん)だったのです。
聖覚法印は、次のように語ります。
「親鸞殿、私も、『死んだらどうなるか分からぬ心』を解決したいと、長い間、苦しみました。山を下りて、どこかに、救われる道がないかと、探し回りました。そして、吉水の法然上人(ほうねんしょうにん)にお会いすることができたのです」
「法然上人……」
「そうです。その法然上人から、教えを頂き、阿弥陀仏の本願によって救われたのです」
「阿弥陀仏の本願……」
「はい。阿弥陀仏の本願によってです。阿弥陀仏は、男も女も、賢い人も、愚かな人も、必ず絶対の幸福に救い摂ると、誓っておられます。だからこそ、私のような罪深い者も、救われたのです。親鸞殿、あなたのその苦しみは、必ず解決できます。ぜひ、法然上人に、お会いしてください」
親鸞聖人は、ようやく一条の光を見つけられ、吉水の法然上人を訪ねられました。
それは、建仁元年(1201)、29歳の春のことでした。
恵信尼文書には、次のように記されています。
法然上人に会われた親鸞聖人は、
「この方こそ、真実の仏教を説いてくださる先生だ」
と確信されたのです。
そして、雨の日も、猛暑の日も、どんな強い風が吹き荒れる日であっても、決して休まれず、法然上人のもとへ通われ、ご説法を聴聞されたのでした。
かくて、親鸞聖人は、阿弥陀仏の本願によって、絶対の幸福に救い摂られたのです。
その喜びを、次のように詩の形(和讃・わさん)で表現されています。
(意訳)
弥陀の本願に救われてからは、もう迷い人ではないのである。欲や怒り、ねたみそねみの煩悩は少しも変わらないけれども、心は極楽で遊んでいるようだ。
また、「死んだらどうなるか分からぬ心」が微塵もなくなった喜びを、次のように表しておられます。
(意訳)
苦しみの波の絶えない海に、永らく、さまよいつづけてきた私たちを、阿弥陀仏の本願の大船だけが、乗せて必ず浄土まで渡してくだされるのである。
法然上人が、阿弥陀仏の本願を説いておられた「吉水」は、京都の東山のふもとにありました。親鸞聖人が、聖覚法印と出会われた四条大橋から歩いて15分ほどの場所です。
次回は、法然上人の吉水草庵跡(よしみずそうあんあと)を訪ねてみましょう。
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