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歎異抄の旅(12)司馬遼太郎を襲った死の不安、坂本竜馬の生き方と『歎異抄』

 京都には、親鸞聖人(しんらんしょうにん)と『歎異抄(たんにしょう)』に関係する場所が、多くあります。
 今回は、東山(ひがしやま)のふもとにある円山公園(まるやまこうえん)へ向かいましょう。

 新幹線で京都駅に到着。
 駅前から地下鉄烏丸線(からすません)に乗り換え、二つめの駅・四条(しじょう)で降ります。乗車時間は、わずか4分でした。
 地上へ出て、にぎやかな四条通(しじょうどおり)を東山方面へ歩きます。この辺りが、京都で最大の繁華街・四条河原町(しじょうかわらまち)です。大通りの両側には、大丸、高島屋などのデパートや土産物店、飲食店などが立ち並んでいます。

四条河原町交差点の近く。写真中央の奥に見えるのが東山

 鴨川(かもがわ)にかかる四条大橋(しじょうおおはし)を渡ると祇園(ぎおん)。真っ正面にそびえる東山のふもとが円山公園です。

鴨川にかかる四条大橋。正面の東山のふもとが円山公園

円山公園の近くに
  法然上人の吉水草庵

 公園へ入ると、
「名勝 圓山公園(まるやまこうえん)」
と刻んだ大きな石柱が立っていました。

緑豊かな円山公園は、人々の憩いの場になっている

 ここは桜の名所でもあります。
「祇園しだれ桜」と呼ばれる大木があり、ライトアップした夜桜が有名です。
 今回は秋だったので、残念ながら桜の花を見ることができませんでした。

 法然上人(ほうねんしょうにん)は、約800年前に、この近くに寺を建て、仏教を説いておられました。清らかな水がわき出ていたといいます。そのため、法然上人の寺は「吉水草庵(よしみずそうあん)」、または「吉水(よしみず)の禅房(ぜんぼう)」と呼ばれていました。
 円山公園には、河原町の繁華街から歩いて約10分で着きます。
 おそらく吉水草庵は、静かな山のふもとにありながら、都の中心部からも近いので、一般の人々が仏教を聞くのに集まりやすい場所だったのでしょう。たちまち参詣者があふれたと伝えられています。

『歎異抄』を愛読した
  司馬遼太郎

 公園の中央には、ひょうたんの形をした大きな池があります。

背後の東山と池が一体となって、美しい庭園を造っている

 背後にそびえる緑の山と青い空が水面に映り、とても美しく、心が癒やされます。
 池の中央にかかる石橋を渡って公園の奥へ進むと、右手に大きな銅像がありました。
 日本刀を手にした坂本竜馬(さかもとりょうま)と中岡慎太郎(なかおかしんたろう)の像です。

坂本竜馬(左)と、中岡慎太郎(右)の銅像

 この2人の名前が出てくると、すぐ思い浮かぶのが歴史小説家・司馬遼太郎(しばりょうたろう)の『竜馬がゆく』です。二千万部を突破する大ベストセラーとなっています。
 実は、司馬遼太郎も、『歎異抄』に魅了された一人でした。
 彼は、どんな時に『歎異抄』を読み、何を感じていたのでしょうか。
 その答えは、朝日新聞社が発刊した『司馬遼太郎全講演』の中にありました。昭和39年7月、大阪市での講演で、次のように語っています。

 仏法とは仏の教えのことですが、いまおまえさんはどこにいると教えてくれる一枚の地図だと思います。
 地図がなかったら、寂しいですよ。
 私には悪い癖がありまして、どこに行くにも地図を持っていきます。
 知らない土地に行って、土地の人に地図をのぞき込んでもらい、いろいろ教えてもらって安心します。ああ、あれが畝傍山(うねびやま)かと、安心する。
 われわれは自分の位置関係をはっきり把握しながら歩くものですね。人生にも、一枚の地図が必要です。
 仏法という地図は、世界でもいちばん精巧で、正しい地図だと私は聞いています。もし、仏法という地図が私に与えられるならば、仏法に参入したいとも思います。
 しかし、どうも私は迷いが多いのですね。地図一枚を信じることがなかなかできません。
 信じることは難しいですね。
 私などはショックを受けなければだめです。私だって信じたことがあるのですよ。それは兵隊に行くときのことでした。
 急に兵隊に行くことが決まり、ずいぶん驚きました。いままでは人が行くものとばかり思っていたからで、お葬式のようなものですね。
 お葬式は人のものだと思っていますから、お葬式に行ってあの人に会ったらどうしようとか、いろいろ考えます。人が死ぬことは考えても、自分が死ぬことはちっとも考えないから、ニコニコ暮らせるわけです。
 生死は人生の地図の重要なものですが、なかなかそこに人間は参加できません。やはり人間はのんべんだらりと暮らしている間はだめで、ショックが必要になります。
 私は兵隊に行くときにショックを受けました。
 まず何のために死ぬのかと思ったら、腹が立ちました。
 いくら考えても、自分がいま急に引きずり出され、死ぬことがよくわからなかった。自分は死にたくないのです。

 なぜ、人生には、不安がなくならないのでしょうか。司馬遼太郎は、うまく表現していますね。
 私たちが「生きている」ことを、「地図を持たずに見知らぬ土地へ来ている」ことに例えています。
 初めて訪れた土地で、今、自分がどこにいるか分からなくなったら、とても不安になります。
 これは私たちが、「こんな毎日の繰り返しに、どんな意味があるのだろう」「何をしたら満足な人生を送れるのだろう」という漠然とした不安を感じながら生きているのと同じではないでしょうか。
 私たちは、「人生」という旅の終着点は「死」であることを知っていても、そこがどんな所なのか、それまでに何をしておけばいいのか分かりません。
 しかも、終着点に着くまで、まだ時間があるのか、もう間近に迫っているのか、まったく予想できないのです。
 旅人にとって、これほど大きな不安はないでしょう。だから私たちは、好きなことに熱中したり、楽しいことを探したりして、心の奥底に横たわる不安を、忘れよう、忘れようと努力しているのです。
 しかし、ある日突然、「死」が目の前に現れると、慌てざるをえません。
 司馬遼太郎の場合は、戦争への学徒出陣(がくとしゅつじん)でした。昭和18年、20歳の時に、大日本帝国陸軍(だいにっぽんていこく)の戦車隊への配属を命じられたのです。当時を振り返り、司馬遼太郎は語ります。

 死んだらどうなるかが、わかりませんでした。
 人に聞いてもよくわかりません。
 仕方がないので本屋に行きまして、親鸞聖人の話を弟子がまとめた『歎異抄』を買いました。非常にわかりやすい文章で、読んでみると真実のにおいがするのですね。
 人の話でも本を読んでも、空気が漏れているような感じがして、何かうそだなと思うことがあります。
『歎異抄』にはそれがありませんでした。本当のところ、『歎異抄』は理屈ではわからない本です。(中略)
 どうも奥に真実があるようでした。
 ここは親鸞聖人にだまされてもいいやという気になって、これでいこうと思ったのです。兵隊となってからは肌身離さず持っていて、暇さえあれば読んでいました。私は死亡率が高い戦車隊に取られましたから、どうせ死ぬだろうと思っていました。

 戦争に出陣する若者の中には、『歎異抄』を持っていった人が多かったといいます。なぜ、『歎異抄』を選んだのか。
 それは、司馬遼太郎が自らの体験を語っているように、
「死にたくない」
「死んだらどうなるのか」
という強いショックを受けた時に、心に強く響く本だったからでしょう。
『歎異抄』には、仏教の真髄(しんずい)が語られていますので、何の予備知識もなく、一度や二度読んで分かるものではありません。
 それでも、司馬遼太郎が、
「読んでみると真実のにおいがする」
と言ったのは、親鸞聖人の言葉の重みを感じ取ったからだと思います。
 親鸞聖人は、「死んだらどうなるのか」という、後生(ごしょう)の一大事の解決に向かって、20年間も比叡山(ひえいざん)で厳しい修行に打ち込まれました。それでも救われない自己の姿に驚かれ、山を下りて、法然上人からハッキリ解決の道を聞かれたのです。
 そのような求道を背景とした親鸞聖人の言葉からは、「空気が漏れているような」とか、「何かうそだな」という感じを受けることはありません。そこが『歎異抄』の不思議な魅力だと思います。

司馬遼太郎が描いた
  『竜馬がゆく』の生き方

 なぜ、円山公園に坂本竜馬と中岡慎太郎の銅像があるのでしょうか。
 それは、司馬遼太郎の代表作『竜馬がゆく』に描かれた幕末動乱の舞台が、この近くに多くあるからです。

鴨川に並行して流れる高瀬川。この川沿いに、土佐藩邸、長州屋敷などがあった

 司馬遼太郎が、小説『竜馬がゆく』を発表してから、竜馬のファンが爆発的に増えていきました。竜馬の、どんな姿が、多くの人を引きつけたのでしょうか。
 竜馬は、江戸時代の末期に、土佐藩(とさはん・現在の高知県)の下級武士の家に生まれました。少年時代には、塾の勉強についていけず、友達から「泣き虫」とバカにされていたといいます。
 竜馬は海が好きでした。浜辺に立ち、打ち寄せる白い波を見つめていると、心が癒やされてきます。
 青く広がる海と比べたら、人間の社会なんて、狭くて、小さなものに思えてきます。バカにされ、心を傷つけられても、「それが、どうした」と、はね返す元気がわいてきます。
 竜馬は、こんな歌を詠んでいます。

世の中の 人は何とも 云(い)わばいえ
 わがなすことは われのみぞ知る

 勉強の成績が悪い者、古い慣習を守れない者は、ダメ人間なのか?
 そのような枠をはめようとする考えに、強烈に反発しています。
 人生は一度きり。しかも短いのです。他人の目を気にして生きたくはない。自分は、自分で考えて、自分らしく生きるぞと、志を述べているのです。
 また彼は、
「世に生を得(う)るは事を成すにあり」
と言っています。
「人間は、大事な目的を果たすために生まれてきたのだ。その目的に向かって突き進んでこそ、人生は輝く」という信念で生きていました。
 このような、前向きな姿に感動し、「自分もそうありたい」と願う読者が多いのではないでしょうか。

 竜馬の生きた時代には、政権を握る徳川幕府(とくがわばくふ)と、幕府を倒そうとする革命勢力の間で、激しい争いが起きました。
 地位も学問もない竜馬が、次第に薩摩藩(さつまはん・現在の鹿児島県)の西郷隆盛(さいごうたかもり)、長州藩(ちょうしゅうはん・現在の山口県)の桂小五郎(かつらこごろう)などから信頼され、革命勢力のリーダーになっていく姿が、『竜馬がゆく』に躍動的に描かれています。
 慶応3年(1867)10月。
 ついに時の将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は、竜馬たちの要求を受け入れ、幕府を閉じる決断をし、政権を返上しました。
 目標は、ひとまず達成できたのです。
 しかし、その1カ月後、坂本竜馬は、京都で反対派の刺客に襲われ、暗殺されたのです。33歳の若さでした。竜馬の盟友・中岡慎太郎も、ともに惨殺されました。2人が新政府の船出を見ることもなく殺されたことを悼んで、円山公園に銅像が建てられたのです。

三条通の池田屋騒動の跡。近藤勇、沖田総司らの新選組が、旅館・池田屋を急襲し、革命勢力側の武士を殺害、捕縛した。この時、竜馬の友人が何人も殺された。池田屋は、現在、居酒屋になっている

 では、明治の新政府は、竜馬が理想とした平和な日本を築くことができたのでしょうか。
 明治元年から1年半にわたって、新政府軍と旧幕府軍との間で戊辰戦争(ぼしんせんそう)が繰り広げられ、多くの命が奪われました。
 さらに新政府は、西洋の諸国に追いつくことを目指し、経済の発展と軍事力の強化に力を入れます。それは世界を相手にした戦争の始まりでもありました。
 日清戦争(にっしんせんそう)、日露戦争(にちろせんそう)へ突入。
 さらに第2次世界大戦へ。
 司馬遼太郎は『竜馬がゆく』に、
「昭和初期の陸軍軍人は、この暴走型の幕末志士を気取り、テロをおこし、内政、外交を壟断(ろうだん)し、ついには大東亜戦争(だいとうあせんそう)をひきおこした」
と書いています。
 戦争によって国土は焼け野原となり、どれだけ多くの人々が、言葉に表せないほどの苦しみを味わったかしれません。

揺れる「善悪」の判断基準

『歎異抄』に、親鸞聖人の衝撃的な言葉があります。
「善悪(ぜんあく)の二つ、総じてもって存知(ぞんじ)せざるなり」
 これは、「親鸞は、何が善やら悪やら知らないし、まったく分からない」という意味です。
 私たちでさえ、「自分の考えは正しい」「善悪ぐらいは心得ている」と思っています。それなのに、なぜ、親鸞聖人のような方が、こんな発言をされるのだろうか、と疑問に感じてしまいます。
 しかし、幕末から昭和までの戦争の歴史を見るだけでも、人間の判断は、何が正しくて、何が間違いなのか、ハッキリと言い切れないことが分かります。
 時代や環境によって大きく変わる「善悪」の判断基準に、人々は翻弄され苦しんできました。
 親鸞聖人の言葉には、表面的にとらえただけでは分からない、もっともっと深い意味が込められているはずです。
『歎異抄』を読むと真実のにおいがする、と司馬遼太郎が言ったのは、このような衝撃的な言葉が、たくさんあるからだと思います。

無人島に一冊
   持っていくなら『歎異抄』

 司馬遼太郎が、
「無人島に一冊の本を持っていくとしたら『歎異抄』だ」
と語ったことは、よく知られています。平成8年に発売された『週刊朝日』に掲載されています。
「無人島」という設定が、とてもインパクトがありますね。
 無人島だから、周りの人に気を遣う必要がありません。楽です。
 お金を稼ぐために、あくせく働く必要もありません。
 地位、名誉も意味がなくなります。誰も褒めてくれないのは、ちょっと寂しいかもしれません。しかし、悪口を言われることはないので、心が傷つく心配はありません。
 無人島では、仕事のことも、家族のことも、世の中のことも、すべて忘れて、自分のことだけ考えていればいいのです。
 さて、そうなると……。
 一人の人間として、素っ裸になった時に、気になるのは何でしょうか。
 無人島にいても、どこにいても、人間は生まれてきた以上は、いつか必ず死ぬのです。
「死とは何か」
「死んだらどうなるのか」
 この、人間にとっての究極の問いが、頭をよぎってきます。
 司馬遼太郎は、20歳の時に学徒出陣を命じられて、「死」と向き合った経験から、人間にとって、最後に必要な本は『歎異抄』だと確信していたのだと思います。
『歎異抄』の真価に、なかなか気づかない私たちに向かって、司馬遼太郎は、次のように音読を勧めています。

 法然上人のお弟子さんが親鸞聖人ですが、さらにそのお弟子の唯円(ゆいねん)という方にお話しされたのが、『歎異抄』ですね。大変な名文でして、私は若いころからこの本を愛好しています。
 私は学生の半ばで戦争に取られまして、いきなり死について考える事態に立ち至りました。
 生きて帰れることはないと思いましたし、しかし平素、死ぬということを考えたこともなかったのです。いろいろなことを考え、読みもしました。そして『歎異抄』も読んでみました。最初はつまらない感じがしました。(中略)
 現代人の目から見れば、『歎異抄』は単純な書き方です。物足りないどころかつまらない感じがして、これではおれは救われないと感じていました。
 ところがある日、ちょっと音読してみますと、全く違うのです。
 これは皆さん、法然上人の『一枚起請文(いちまいきしょうもん)』でもいいのですが、声に出して読めばよくわかります。
 私は『歎異抄』を黙読してわかった気になっていましたが、これは誤りであることがわかりました。
 声を出して読むと、リズムがわかってくるのです。親鸞聖人、そしてこの本を書いた唯円という、あまり知られていない僧侶の心の高鳴りが、声を出すとよくわかってきます。

『司馬遼太郎全講演』昭和42年5月、京都市での講演より

 司馬遼太郎の勧めに従って、『歎異抄』を、声を出して読んでみませんか。
『歎異抄』には、親鸞聖人の、常識破りの発言が繰り返されています。師匠の言葉を間近で聞き、驚き、感動し、ドキドキしながら書き記している唯円の姿が浮かんでくるようです。
 では最後に、今回の内容を踏まえて、『歎異抄』後序の中から、次の部分を音読してみましょう。

(原文)
 聖人(しょうにん)の仰(おお)せには、「善悪の二つ、総じてもって存知せざるなり。そのゆえは、如来(にょらい)の御心(おんこころ)に善(よ)しと思(おぼ)し召(め)すほどに知りとおしたらばこそ、善きを知りたるにてもあらめ、如来の悪(あ)しと思し召すほどに知りとおしたらばこそ、悪しさを知りたるにてもあらめど、煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)・火宅無常(かたくむじょう)の世界は、万(よろず)のこと皆もってそらごと・たわごと・真実(まこと)あることなきに、ただ念仏(ねんぶつ)のみぞまことにておわします」とこそ、仰せは候(そうら)いしか。

『歎異抄』後序

(意訳)
 親鸞聖人が仰せられたことがある。
「親鸞は、何が善やら悪やら、二つともまったく分からない。そうではないか、如来が『それは善である』とお思いになるほど知りぬいていれば、善を知っているともいえよう。如来が『悪だ』とお思いになるほど知りぬいていれば、悪を知っているともいえるだろう。
 なんといっても、火宅のような不安な世界に住む、煩悩にまみれた人間のすべては、そらごと、たわごとばかりで、真実は一つもない。ただ弥陀(みだ)より賜った念仏のみが、まことである」

意訳は、高森顕徹著『歎異抄をひらく』より
鴨川にかかる三条大橋から下流を眺めた風景。川の左側(東)に円山公園、吉水草庵跡、青蓮院がある。川の右側(西)には、土佐藩邸跡、長州屋敷跡、池田屋騒動跡、坂本竜馬の海援隊※京都本部跡などがある

※海援隊……坂本竜馬が作った、海運業を中心とする組織。

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