ばぁちゃんの死

ばぁちゃんは元々体が弱く、小さかった私は何の病気かわからなかったけど、恐らく『膠原病』だったと思う。いつも両手指に薬を塗ったり、飲んだりしていた。でも、寝込むことは全くなくて、いつもニコニコ、怒られた記憶が全くない。
そんなばぁちゃんが大好きで、豆や野菜、いちごを育てたり、昼ご飯を一緒に作ったり、クレープを作ったり、キーホルダーを作ったり押し花を作ったり…とにかくばぁちゃんと一緒に何かすることが好きだった。
そして中学か高校の時、ばぁちゃんの部屋が居間の奥から横に移った。ヨタヨタとしか歩けなくなったから。その頃から時間がある時には行くようにしていた。

いつ頃から始まったかは覚えてないけど、ばぁちゃんは入退院を繰り返すようになった。私が高3の時、母から『末期の肺癌』と教えられ、ばぁちゃんには肺炎と伝えてることも合わせて聞かされた。私は母に『本当のことを知って心が折れるばぁちゃんじゃないし、それを踏まえて会いたい人とかやり残したこととか考えるばぁちゃんだから、本当のことを言った方がいい』と言っても、高校生の私に大人たちの考えを覆す力もなく、ばぁちゃんに本当の病名を伝えられることはなかった。

そして、大学1年の4月末。親から『ばぁちゃんが危篤だからすぐ帰ってこい』と連絡。頭は真っ白で帰りのJRの中ではずっと泣きっぱなし。
釧路駅から病院に着くまでも、涙って止まらないんだなって思うほど。そして病院に着くと小さくなって点滴にマスク姿のばぁちゃん。意識は朦朧としてるのがみてわかる状態。それでも声を掛けたら目を合わせてくれ、しばらくしてから『ひろみちゃんは頑張り屋さんだから、躓いたり迷ったら立ち止まってごらん。道はたくさんあるから』と絞り出すように言ってくれた。これが私が聞いたばぁちゃんの最期の言葉。今でも、これからも私が大事にする言葉。

そして、絶対に最期までばぁちゃんの側にいると腹を決め、病院に寝泊まりする予定だった。しかし、札幌から戻ったその日か次の日(記憶が曖昧)に、私が倒れてしまった。
病室からトイレに行ったところまでは覚えてて、その後意識を失い気付いたらばぁちゃんの隣のベッドで点滴をされながら横になっていた。医者や親族から『家に帰って休んだ方が良い』と言われ、両親と弟と私は帰宅した。その夜、ばぁちゃんは息を引き取った。
ばぁちゃんが死んだこと、看取れなかった悔しさと情けなさ、一番介護してきた母に私のせいで看取ることを奪ってしまった申し訳なさ、いろんな感情があって毎日夜になると泣いていた。しばらく辛かった。結果、時間の経過が心を軽くしてくれたけど、一番辛い時に助けてくれたのは手話サークルの同期だった。本当にありがたかった。

そして、時間はかかったけど、最期の苦い経験を経て、福祉職として看取り期には家族に自分の経験を踏まえて話ができるようになった。私は本当に悔やんでも悔みきれない経験をしたから、こんな思いはして欲しくないし、18歳の若者でも過労とストレスで倒れることもあると。
ばぁちゃんからは本当にたくさんのことを学んだ。今も絶対見守ってくれていると信じて、ばぁちゃんに『ひろみちゃんは頑張り屋さんだね』ってまた言ってもらえるように、これからも頑張っていこうと思う。

最後まで読んでいただきありがとうございます!!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?