幼少期から高校時代

これから事業所を立ち上げるにあたり、『私はこんな人です』を説明する1つの手段として記事を書いてみることにしました。

私は釧路市の隣に位置する田舎町で長女(2個下の弟がいます)として生まれました。
両親が共働きだったので、母方の祖父母宅で過ごすことが多く、自然とばぁちゃん子に育ちました。ばぁちゃんが大好きで、ばぁちゃんの近所のお友達とも仲良かった程(笑) ばぁちゃんが保育園に迎えに来てくれて一緒に帰ったことや近所にいた大きい犬(ゴン太)に餌をあげたことはうっすら記憶にある程です。

小学校高学年になると部活(バレー部)が忙しくなり、反抗期も始まり、中学時代は部活と友達付き合いが楽しくなりました。小・中は部活でキャプテンをしたり学級委員長をしたり、その頃から上に立つことへの憧れや欲があったのかもしれません。

そして高校時代。
絶賛反抗期中だった私は親が言うことを全然聞かずにいたんですが、1つだけ不思議と聞き入れたことがあります。
それは部活。父が野球を長年続けていて(町役場の選手としても監督としても全国大会に出場する程)、父はソフトボール部があるらしいぞと遠回しに勧めてました。そんな中、母の友人の娘が在学中で、バレー部よりソフトボール部の方が良い人が多いとの情報から、入学後に両方見学に行き、あれよあれよと言う間にソフトボール部へ入部。
これが大正解。高校時代は部活に生きました。JR通学だった私は始発で行き、最終で帰ってくる毎日。でも毎日が本当に楽しくて、土日は朝から夜まで練習して、日焼け止めも塗らず、ついたあだ名は『くろんぼ』 でも忘れられない青春です。
そして高3の夏。進路。親からは釧路に残って欲しいと何度も説得をされましたが、私は一貫して『絶対家を出る』と。どこの大学にしようか考えていた頃、ばぁちゃんが肺がんの末期で家にヘルパーさんがきてたり、母が保健師だったり、福祉が身近にあったこともあり、『福祉の大学に行く』と決めたのでした。
変わり者の私は、第一志望の大学に推薦してもらえてたのですが、『一度きりの大学受験ならセンター試験も受けたいし、受験を味わいたい』と推薦を蹴り(受験に失敗する頭は皆無)受験に臨むのでした。
時を同じくして、ばぁちゃんの容態が悪化し、高3の秋には入院生活になってました。
母兄弟はばぁちゃんに『肺炎』と告げており、肺炎は移る病気だと思ってたばぁちゃんは面会にきた私を『うつったら困る』とすぐ帰してました。車もない私が毎日学校帰りに一人でバスに乗って行ってたので、薄々何か気付いてたのかもしれないなと今では思います。ばぁちゃんが死んじゃうかもしれない…と、とてつもない寂しさに、毎日泣いて帰ってたことを鮮明に覚えてます。
そして無事に大学受験を終え、札幌の大学に合格した私は女子大生(言ってみたかっただけです…)としてまたまた楽しい時間を過ごすのでした。
次回は大学時代編です。ここまで拙い文章を読んでいただきありがとうございます!!

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