3Dクーロンはどうしたんだ?

いまだに「3Dクーロン」じゃないのか、と問い詰められることがある。まぁ仕方のないことだ。

実際、企画立案した2019年秋から2022年3月まで、実に2年半にわたり、自分自身、「3Dクーロン」は絶対にイケていると確信していたわけだから。
また、会う人ごとに「3Dクーロンは面白そうだ」と異口同音の反応を返され──あたかも周囲から鼓舞されているような状況だった。
この周囲から鼓舞される感覚、なんと驚くべきはネットを通じてユーザー側からもしっかりと響いていた。ユーザー側にも「面白そうだ」のイメージが伝わっていた証左だ。

結局、どういうことなのか──?
ゲーム性とシステムとが整合性を有していない──まさしく理屈の領域だ。
この理屈にたどり着けたのは、2021年10月から本格的に検証を始めた評価版(プリプロ版)の存在があったからに他ならない。
評価版への量産実装とプレイを繰り返しながら、半年にわたり「面白い」という呪縛を解く作業が続いたことになる。
最初こそ、3D九龍城に放り込まれてテンション爆上げになるが、比較的早くに飽きる。あとは次の会話イベントを探して九龍城内を歩き回る──ここが絶望的につまらない。

でも、ハロー効果というか、最初のインパクトが強いぶん、1人称ステルスゲーム『ディスオナード』のような考え抜かれたギミックを期待してしまう。あるいは、FPS大作『コール オブ デューティ モダンフォーフェアⅡ』のような、鮮烈な3D体験があるのだろうと──(そもそも予算的には無理なのだが)

実感と期待とが錯綜して、つまらなさの核心を覆い隠してしまっているのだ。だから、アタマで、理屈でこれはダメだと判断していても、ハートで、気持ちの中では3Dクーロンに望みを託すところがあるのは否めない。
──今でも3Dクーロンには未練タラタラの自分がいるのも正直なところだし。

今でも未練がましく3Dビルドしたバージョンを動かしている
緑色のマーカーがサブシナリオを受け持つ路人だ

 いや、おもろないって!
 いやいや、案外、おもろいかもしれんがな……

独断ながら言うと、自分のような関西人は未練がましい(ないしは、ひつこい)気質だと思うが、まさにそれだ。心のなかで「いや、いやいや~」がひたすら繰り返されている。同じところを行きつ戻りつ。

ともかくこんな状況で、例えば釈明会見でも開こうものなら目が泳ぐこと必至だ。言行不一致な爆弾を抱えているわけだから、絶対の揺るぎなさをもって何かを語ることなんてできそうにもない。

ふと考えることがある。
初期の事業イメージ通り、PS5、PCで3DRTシステムとしてリリースすれば──
ちなみにCS機対応が難しいだの何だのは、技術的に(あるいはプラットフォーマとの契約で)解決できる。ゲームPC入門機程度のGPU性能なら動く。
この事業計画のポイントは、とりもなおさず「3Dクーロン」の外面の良さを利用して売り逃げを図るということだ。
年を追うごとに冷え込むCS市場を鑑みると、今や逃げ切れない可能性のほうが高いが、それはさておき──
結果として、大量の積みゲーを生み出してしまうことになるだろう。
禍根を残すとは、まさにこういう事を言う。

どうすれば「3Dクーロン」は成立するのか?
3D空間を歩き回ること自体をゲーム性の中心に据えればいい。ではどんなゲーム性がふさわしい──?
今のダンジョン構成を活かす前提なら、忽然と人の消えた街を舞台として、路地裏で残留思念に触れて周り、最終的には、何かの真相が明かされるとともに陰界を脱出するゲームだろうか。Escape from Yin-World──
ゲームカテゴリーとしては脱出系だ。3D脱出ゲー。
シナリオは──残留思念だからカタコトの単語だけ、言語は英語オンリー、Steamで世界配信──やりこみ要素を加えれば地味ながらゲームとしては成立することはする。
これを手掛けたい! というヒトがいれば是非とも名乗り出てほしい。Unityプロジェクトをそのまま譲渡する。

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