体験から経験へかえていく
先日、傾聴ボランティアの研修会に参加してきました。月に1回、6人前後の人たちが集まって、実際の会話記録をもとに「どうやって、何を聞けば良いのか?その人の気がかりは何だったのか?」ということを話し合います。
何十年も傾聴ボランティアを続けている講師の先生が「参考になるから」と資料を提示してくれることもあります。今回、その資料の中で面白いと思ったのが「体験は語ることではじめて経験となる」という言葉でした。
だいたいの内容は、下記の通り。
人は自分が意図せず出会った出来事や頭の中で考えていることについては、それが言葉で語られるまでは単なる体験としてあるだけで、自己からは遠いものとして存在する。人は言葉として体験を語ることではじめて、その体験を自己のものとして認識し、経験とするのである。
つまりは、自分の思いも、様々な体験も、語ることによってはじめて、それが自分にとってどのようなものであったのか意識的に認識することができる。それを経験という。
ということなのかなぁと私は理解をしています。
人生、様々な出来事に出会います。もちろん、それは自分が出会おうと思っていなかった(出会いたくもなかった)事も含めて。それらを自分の視点で、自分の口で語ることで初めて、その出会いが自分のものとなるけれど、うまく言葉にならないこともとても多いと思う。その言葉を、丁寧に聴かせていただいて、話し手が「理解してもらった!」と思っていただくことを繰り返して、体験を経験にしていってもらうのが、傾聴の役割でもある。
そうであるならば、そこに、さらに神さまからの視点を加えて自分で語ろうとすることが、金光教の中での「取次をいただく」ということにもなるんじゃなかろうか?
「お結界」の前に座ることは、神さまと向き合うことでもあるので、自然と『神様と自分』の視点が生まれる。「自分の体験の中で、神さまはどう思っていたのだろうか、どういう願いがかけられていたのだろうか」と意識を向けながら語る体験が『自分と神さまとの経験』になっていくのだろう。
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