『いのち』はいつも死と隣り合わせ
今、新型コロナウィルスの感染拡大とともに、世の中が激変しています。いち宗教者として、一刻も早い収束を!と祈りつつ、こんなことも思うのです。
「そうか。『いのち』はいつも、死と隣り合わせだったな」と。
人の死亡率は100% 遅かれ早かれ、生まれてきた人は、いつか必ず死を迎えますよね。その理由は先天的な病気、疾病、生活習慣病、老衰、事故、事件等・・・様々なものがありますが。
確か、統計的にどれがどのくらいっていうのもファクトフルネスに書いてあったような気がしますが・・・忘れてしまったのでここでは割愛させてください。
それに、全体的な統計や確率はあっても、「私」や「あなた」がどれに当てはまって、いつ死ぬかなんてのは、誰にも分からないことですし、もしかしたら明日、運転事故で死ぬ、なんてことも100%ないとは言い切れないのが現状です。
そうやって、「死は隣り合わせだった」ということに気づくと、今まではテレビやネットでずっとコロナウィルスのことが報道され、「怖いことが起こったな・・・どうしてこんなことが?早く収束して欲しい。」と恐怖に感じていたことが、「いやいや待てよ、私たちはコロナウィルスが出てくる以前から、もともとそういう『死』がある世界に生まれてきたんだった」という思いに変わってきました。
もちろん、死ぬリスクを減らし、収束を願い、感染対策をすることはとても大切です。
けれどもそれらと、必要以上に恐怖を感じるということは別物です。
収束を願い、対策をしながら、さらに今まで以上に「今生きている」ということを実感し、その喜びをもって生きることを大切にしていく。これも大切なことだと思うのです。
「死と隣り合わせだからこそ」
今思うことを大事にし、今食べているものを美味しくいただき、今動ける体に感謝し、今いただいている様々な人とのご縁をありがたく繋がせていただいて。
今できることをめいいっぱい、堪能して。
今だからこそ、そんな一日一日を過ごしていけるようになっていきたいものです。
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