"即興性"と"絶叫" 『betcover!! "危機" 2022.02.06 LIQUIDROOM』
偉大なるサックス奏者ジョン・コルトレーンはこの世を去る僅か一年半前に『Meditations』という作品を残した。"Meditation"、すなわち"瞑想"と題されたこのアルバムは、ファーストトラック「父なる神、御子キリストと聖霊(The Father And The Son And The Holy Ghost)」の13分間の音の洪水に始まり、ファラオ・サンダースとの2テナーによる捲し立て、阿鼻叫喚の嵐を展開していく。そして最後の「静寂(Serenity)」に着地した瞬間に、我々はアルバムタイトルの本意を知ることとなる。キャリアの中期頃からインド音楽ならびその精神世界へと傾倒し、その要素を大胆に吹き込んだ作品を、敬愛するラヴィ・シャンカール(インドのシタール奏者)に否定されてもなお、彼は自らの信念を貫き通すように、スピリチュアルの深淵へと挑むように、ただ"絶叫"を続けた。まるで自らの死期を自覚しているような悟りと、無調性のサックスを吹き鳴らし続ける暴走が綿密に録音された、文字通り"危険作"である。
『betcover!! "危機" 2022.02.06 LIQUIDROOM』靄がかかったブルーのステージで、ヤナセジロウが最初にサックスを暴発的に吹き始めた瞬間にわたしは、この公演に"危機"と題された意味の端くれを、動物的感覚でもって理解した。ライブは無調性のサックス(あるいはギターやベース)と調整の効いた鍵盤、その間を縫うように叩くドラム("Meditations"におけるエルヴィン・ジョーンズの役割と同じく)と、消極性と反乱性を共存したボーカルのインプロビゼーションによって、時には原曲の様相をまるっきり塗り替えるように進行する。生の時間を共有することによって体感性が増すというライブ・コンサート・ギグにおける最大の旨みと、アンサンブルの緩急の差異の幅広さによって、このバンドが完成されきったものでなく、実験的な試行を重ねる段階であることを明確にしていく様子を、わたしはジャズの即興性を重ねずして観ることができなかった。末期コルトレーンが藁をも掴むようにして紡いだ音像のモードに、彼はもう既に飛び込んでいる。あのサックスの吹き方は、見よう見まねで成立できるものではない。無調整でありながらバンド・アンサンブルとしてかくも奇抜で、濃密な音像を生み出していた。なにより、グレーのハットとスーツ、ストライプのネクタイで決め込み、ステージに立つヤナセジロウの姿は、どこか悲しげな様子であった(とわたしは感じた)。その"悲壮感"と楽曲に潜む"狂気"は、言わば隣り合わせであり、その振り子がどちらに傾くのか、おそらく本人ですら自覚しないまま客前で音楽を鳴らす彼の姿は、なにが"危機"なのか、彼はなにを危惧しているのかと、こちらの想像を掻き立てられるという点のみでもっても、ジャズマン、いやショウマンとして実に完璧だった。その"余白"を生み出すことのできるフロントマンは数少ないと思う。彼の絶叫はとにかく切実であった。この時代"だけ"に叫んでいるわけではない。
既に多くの人に指摘されている通り、betcover!!の音楽に浮かぶ、裸のラリーズや浅川マキ、早川義夫やフィッシュマンズ(など...挙げればキリがない)などといった歴史の偉人たちに通じるフリー・インプロビゼーションのエッセンスを如実に提示したステージであった。とにかくバランスの取れた、均一で整合性に重点を置いた音楽が蔓延する大衆音楽シーンを憂うつもりは一切ないが、今夜、渋谷区の片隅で撒かれたあまりにも危機感に満ち溢れた音楽に心の底から興奮が止まらなかった。配信を敢行してくれたことを感謝します。
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