価値の幅
安い物には安い理由があり、
高い物には高い理由がある。
吉野家は500円あれば牛丼が食える。
資さんうどんは1000円あれば腹パン。
この辺に関しては、味がどうの、という価値の付け方ではなく
価格とボリュームの対比が第一。
私の嫌いな「コスパ」という言葉が当てはまる。
吉野家なんかは、「380円で牛丼が食える」と言うこと自体に価値があると思っている。味やサービスや何やは半ばどうでもよい。
外食に対するお金の使い方で、得られる体験の種類が変わり、人間の思考や行動特性に表れてくる。
わたしは高級店史上主義者ではないが、どちらかといえば高級店に行くことが多い。安価なお店は、たまにバランスを取るために行くようにしている。
なぜ高級店に行くのか。
種類豊富な体験を得るため。
高い=正義
安い=悪
だとは微塵も思っていない。ただそこには、価値の種類、価値の幅なるものに差があると思っている。
高級店に行けば、はだての生うにが食べれるし、天然鰻も食べられる。四季折々の室礼も、歴史ある器にも触れる事が出来る。
大衆居酒屋に行けば、ホッコリおでん、どこか懐かしいゴロっとした肉じゃが、気の利くおばちゃんのタメ口接客に談笑し、あぐらをかいて焼酎が飲める。
生み出している価値、良さ、が違うのだ。
自店の性質的に、私は学びの為に高級店に行く事が多い。
安価なお店では、提供できるモノ、空気感、人までも、だいたい想像がついてしまうからだ。
低単価のお店側が出来ることというのは、非常に限られてくる。それは即ち、お客としての価値体験にも限りがある、と認識している。
自店の客単価は平均8〜9000円。
これより上の単価のお店での学びを噛み砕いて自店の血肉にしていくしかない。アイディアをパクろうとしているのではなく、もっと掘り下げた根本の部分で突き詰めていく必要がある。
自店のポジショニングとしては、高級店と居酒屋の間。宙ぶらりんといえば宙ぶらりんだ。
しかし、一部の常連様からは、「何万円も払わなくても、きんもちがあるならそれでいい」と言われている。そのお客様は、名だたる高級店に行き尽くした結果、ウチを良しとしてくれている。「これだけの料理が食べられて、飲んで、10000円であれば大満足」とも言われている。ありがたい話だ。
2万、3万、4万のお店を知っているからこそ、ウチが生み出そうとしている本質を理解してもらえる。大衆居酒屋がパターンとして多い客層は、遅いだ少ないだ味が薄いだ何だと、批判的な意見が多い。そもそもそのメガネをかけて見てもらいたくない、という思いもある。
一度上質な価値体験をしてしまえば、そこが基準になる。上を見ればキリがないほどだ。
物事を相対的にでしか判断できない人間という生き物は、
10000円でこの程度?と思うか、
10000円でこれだけのものが!と思うかは、
10000円以上の店と、10000円以下の店での価値体験を、判断材料として可能な限り多く積んでおく必要がある。
5〜6000円のお店10軒の内の1軒として白金きんもちを判断するのか、
同じ10軒であっても、
5〜6000円のお店5軒、15000円のお店5軒、価値体験を積んでいる人間の相対的評価の方がどう考えても信憑性がある。
コストパフォーマンス云々は、好きではない。
「安く済ませたい」という概念が根本にあるようにしか思えない。
それだけの価値があるならお金は払う。
お金は価値の対価。その価値判断は、相対的な視点でしか下すことは出来ない。
価値のないモノなら100円でも払わない。
価値のあるモノなら100万円でも払う。
だからこそ、まだ見ぬ沢山の価値ある物に触れていく必要がある。
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