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認知的脱フュージョンで自分らしく アラフィフおひとりさま

幸せになる脳を育てる
カウンセラー/コーチの宮田です。

「自分らしく、幸せに面白い人生を生きよう」と私は決めているのですが、思うようにいかない時もあります。そんな時ってだいたい感情に囚われ現実をそのまま見れなくなっていたり、自分なりの思い込みで周りを見てしまっていたり、不安から現実を見ないように、無かったことにしてしまったりと、ちょっとおかしな事をやっているんです。

脳は見たいものしか見ない

そもそも人の脳は現実をあるままに見ていなくて、自分の見たいように見ているという習性があります。

「幽霊の正体見たり枯れ尾花」っていうことわざは、恐怖心や疑いの気持ちがあると、なんでもないものまで恐ろしいものに見えることの例え。この尾花というのはススキの穂のことだそうで、恐ろしいと思っているとススキの穂さえ幽霊に見えてしまうし、正体を知って仕舞えば実はなんてことないものだったり。

私も子どもの頃は、夕方薄暗くなってくると家への帰り道に何かが突然現れるんじゃないかと漠然と怖かった。勝手にお化けでも出てきそうな妄想をして、昼間だとなんでもないいつもの帰り道を走って帰ったりしてました。
それも大人になるまでに一度もお化けに遭遇したことないし、経験値も上がり多少のことはなんとかなるでしょって思えるので平気になりましたけど。図太くなったとも言う。

過去の出来事や勝手な妄想、思い込みで在るものを消し去ったり、存在しないものも見えたりする。SNSで見かける捏造された記事や写真なども、反応は人それぞれで、事実とは異なることも「やっぱりそうだったんだ」ってオリジナルストーリーを勝手に作ってたりするから怖い。
それって本当?出どころはどこ?客観的に見てどうなんだ?って少し上から見てみるような感じで、疑うことも必要なんじゃないかと思うのだけど。

人は育ってきた環境だったり、コレまでどんな経験をしてきたかとか、その人なりの思考の癖みたいなものがあって、それが感情に影響したりしてますよね。
同じ体験をしてもなんとも思わない人もいれば、不快になる人、怖がる人もいたり。

ネガティブな感情も必要だった

人は得体の知らないものは怖いと感情が動くし、過去の不安や怖かったり嫌な体験などと現実の出来事をごっちゃにしてしまって感情が動き不快な気持ちになったりしていることがあります。

恐怖心や不快感、ネガティブな感情は人類が生き延びてきた歴史から考えると必要なものなのだったのですが、今の日本だとそうそう生きるか死ぬかな危機的な状況に身を置くことは少ない。昔々はそれこそいつ敵に襲われて食べられるか分からないし、ちょっとした環境の変化を予測しないと命取りみたいなこともあったでしょうから、ネガティブなことを察知して回避する能力が必要でそれがあったからこそ生き延びてきたんでしょうね。
でも事実とは違う感情に囚われてしまい「不快な感情はダメ!」ってなってしまって、ネガティブなことを避けてばかりいては自分の行動を狭めてしまいまうから、本当の意味で自分らしくはいられないと思うんですよね。

人生100年時代とか、80代90代の先輩方もお元気な方が多い。50年とかある人生だったら今までとは違うことに挑戦してみようって思ったりすると思うのだけど、変化すること、経験したことがないことする時って感情が動く。それは自分が知らないこと、新しいことを取り入れるのには大なり小なり恐怖心が伴うものだからそういうものなのだけど、こんな時に不安になってチャレンジをやめてしまったりするんですよね。回避するとちょっと安心するからやっぱりやらなくて良かったってなって楽になるのだけど、それはその時だけで、やっぱり変わらないのも嫌になってくるから、ネガティブな感情は悪くない、不安はなぜ来るのかを見てみるのもいいですね。

こんな事だったのかと笑ってしまうようなことが原因になっていたりもするから。

認知的脱フュージョンで自分らしく

現実と感情や思考がごっちゃになってしまっている状態が「認知的フュージョンの状態」なんだね。感情は動くけど大丈夫なんじゃない。過去の出来事はこうだったけど今の自分はどうなんだとか、ごちゃごちゃにしてしまわないで切り離す。いつまでもそこに囚われないで本来すべき行動ができるようになれるともっと自分らしくいられるんじゃないかと。

「自分らしく生きていく」を考えたときに、今までやってきたことは本当にやりたくってやっていたのか、実は恐怖心だったり、生存戦略的に選んでいるのかもしれない。長い間、習慣的にやっているとそれを変えることは本当に恐怖。そして、自分が当たり前のようにしていることって、何がおかしいのかさえ気づくことができないのが厄介で、他人がいないと見つけることができなかったりするんですよね。

人のことはよくわかるのに自分のこととなると分からないものですから、認知的脱フュージョンは一人では難しくて、他人が必要でそれも共感してくれる人ではなくて、俯瞰して上の方から見てくれる人が必要なんですよね。

それと本当に素直に自分を出すことができる心理的安全性は必須。



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