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言ってはいけないことを言ってみたら アラフィフおひとりさま

幸せになる脳を育てる
カウンセラー/コーチ 宮田です。

投げられた石にとって 昇っていくことが善でも 落ちていくことが悪でもない
マルクス・アウレリウス・アントニヌス

ローマ帝国の皇帝マルクス・アウレリウスは哲学者でもあり就寝前に「瞑想記録ノート」をつけていたらしくて、その中の言葉ですが、空中に投げられた石にとって落ちること昇ることに善いも悪いもないのに、受取手が勝手に善し悪しを決めているってことですよね。

世の中に出ている本やSNSなどを見てると昇ること、乗り越えることが大事で、それを教訓に学ぼうとする、過去の大変な出来事、さまざまな困難を乗り越え、底から歯を食いしばって這い上がり成功する、順風満帆に見える人の裏には知られざる苦労がある鉄板のストーリがもてはやされ溢れている気がして、それが正解のように感じてしまってるような。

私はそれにちょっと「んっ?」ってなるんだなぁ。
もちろんそういう自分にないものを持っている人できないことができる人はみんな凄いと思うし、尊敬するし、それを再現できたらいいんだろうなと思うのだけど、、、
じゃぁ、そこから教訓を得て真似たら上手くいくかというと、ちょいと無理っぽいなっとも思ふ。


うまくいった人って努力や苦労もしたかもしれないけど、たまたま運がよかったとかもないかな、まぁ運も実力のうちと言われればそうなのだけど、、、

その人ならではの特殊能力があったりとか、他の人には苦労や努力のように見えるものが実はただ好きだからやってることだったり、その人と相性が良くてたまたま上手くいったとかあるんじゃないのかな、だったら、それって自分にとっての教訓や戦略や生きる術になるのか?

それこそ生存者バイアスに拍車をかけているような気もする。

感情を揺さぶられるような他人の成功ストーリーを真似るより他にあるんじゃない。まだやってない事、やってはいけないって思っててしていないこと、言ってはいけないって思い込んでいたことを試してみる方がもしかして自分にはいいのかもしれない。
一昔前ならこうすれば間違いない鉄板だってことあったと思うけど、これから未来は予測不能だってことを考えた時、過去を振り返ってどう成功したか、どう乗り越えたかを頼りにするのはリスキーじゃないかなって。

一般常識?みたいな、みんなと同じようなことをやって、とりあえず波風立てず、問題がないよね、コンプラ基準に引っかからないように正しい発言だけをすることが本当に安心安全に生きていく術なのかしら?とひねて考えてしまう。

でもねー、頭で理解していても今までと違うことを行動しようとすると恐怖心がでてきて、やっぱりやめた方がいいんじゃないかってことが起こる。それは仕方ないよね。これまでずっと常識的であることがいい事として生きてきたんだし、非常識に生きてもいいんじゃないって思ってこなかったからね。

それこそ幼少期から人に迷惑をかけないように社会に適応できるようにと躾けられたりしてきて、無意識に「人としてちゃんとしなければいけない」って、人の嫌がることはしない、言ってはいけないって教わってきたでしょ。だからタブーとしてきたものに逆らうのは怖い。未知なものにはアラートがなるようになっているから、この先どんな恐ろしいことになってしまうのか、、、ネガティブな妄想がどんどん広がってそれが現実に起こってしまったかのような気がして体が震える。

でもその「人としてどうなの」って基準も成長や立場や進みたい方向だったりで、見直したり変えたりしていかないと不都合が起こるから、そんな時がくるとこれまでと逆な事をよしとした方が上手くいったりして、ものの善し悪しなんてものは絶対って事がなくて、変わるものなんですよね。

認知的脱フュージョンのワークをしていて、自分の無意識に持っている囚われに気づくと、そこ変えなきゃ次に進めないってことが出てくるのだけど、人それぞれ認知の違いがあるから誰かにとってはなんて事ない些細な事でも、ある人には震えるぐらい恐ろしいことだったりする。頭でわかっていても身動き取れなかったりってこともある。でもそこの認知が書きかわると何故そんなことを恐れていたんだろうって、ため息が出たり、馬鹿馬鹿しくなってきたりして、笑えてきたりして、目の前に見える世界が違ってくるから面白い。

今までよしとしてきたことを壊す、やったことのないことをすると言うのは程度の差はあるけど、みんな怖い。

ある人が自分は爆弾で自分の言った言葉がその人を傷つけて人間関係が壊れるんじゃないかと心配になって、その人のために入ってあげた方がいいと思ってもなかなか本音を素直に言えないと相談されて、人当たりも良くて思いありのある人だからその方が思ったことを伝えても人間関係が壊れて無くなることはないんじゃないかなって思ったのだけど、その方にとってはどうしょうもなく怖いことらしい。

壊す、破壊する、爆弾って言葉にあまり良いイメージが持てないかもしれないけど、壊す、破壊することってとてもエネルギーが必要で、本当はパワフルなのにそれを出さないように抑え込んでいるから苦しくなっているのかも。周りを破壊してしまうほどのエネルギーを持っている自分が感情的になって何かを言ってしまったら、取り返しがつかないことになるんではないだろうかと。

確かに、爆弾のエネルギーで周りもろとも焼き尽くすみたいな面もあるけど、人はそうそう何もないのに感情的に怒ったり爆発したりすることはできないから、そんな場面があったとしたらそれは必要で起きたことなんじゃないかな。爆弾を落としたからこそ変えられた未来があったのかもしれない。でもそれって実際には回避できているから気づけなかったメリット。
だから違う場面で似たようなことがないか想像してみると、、、

本当にヤバい時とかすごく大事な人に感情的になって思ったことをぶちまけたりしてたこと
その時は嫌な雰囲気になったり、口をきかなくなったり、悪態をつかれたりしたこともあったりして

でも、感情的に怒っても大丈夫だった出来事が思い出されてくる。逆にあの時感情的に怒られたこと、爆発したことで時がたって振り返るといい感じになってたってことが出てくる。
それって目の前の出来事だけ見ていても分からないことで、その時の自分ができることがあるとしたら、ただただ未来は絶対に良くなると信じることなのかも。
そう未来は整合する。
失敗しない、どうせ成功する上手くいくからって、根拠なく信じることですね。


これまでの自分の中につくった常識、ルールを変える
事勿れ主義よりも、言ってはいけないことを言う勇気を!
爆弾って破壊するだけでなくて、停滞していたものを動かす、新しいものを生み出す、進むエネルギーにもなるなって、そんなことを考えていたら、SEKAI NO OWARI 『Habit』の歌詞が頭の中に浮かんできた。


大人の俺が言っちゃいけないこと言っちゃうけど
説教するのってぶっちゃけ快楽
酒の肴にすりゃもう傑作
でもってきみも進むキッカケになりゃ

そちゃそれでWin-Winじゃん?
こりゃこれで残念じゃん
そもそもそれってきみ次第だし
その後なんか俺興味ないわけ
SEKAI  NO OWARI Habit

他の歌詞もいいんだよねこの曲。


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