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邪馬台国はどこか 〜魏志倭人伝を素直に読んでみた〜

邪馬台国はどこなのかとかいう論争は、新井白石(1657~1725年)の『古史通或問』における「大和説(畿内説源流)」と、後の「外国之事調書」における「筑後山門説(九州説源流)」から始まるので300年ほど続いている。柳田が解説する。

魏志倭人伝とは

280年ごろに西晋(せいしん)の官僚である陳寿が編纂した歴史書『三国志』の中の『魏書』第30巻『烏丸鮮卑東夷伝 倭人条』を、日本では『魏志倭人伝』と略している。原本はなく、最も古いのが12世紀のものになり、途中でいくつか後世の注釈が入っている。過去の転写時の起きたと思われる記載ミスもいくつか明らかになっており、「邪馬台国」が「邪馬壱国」、「壱岐国」が「一大国」、伊都国の人口「一万戸」が「千戸」となっていたりする。

『三国志』というと、日本では劉備玄徳や諸葛孔明の活躍する『三国志演義』(14世紀以降)という歴史小説と誤解する人が多い。これは小説であって史実と大きく異なる。歴史を語るときに、吉川英治や司馬遼太郎の大幅空想創作物語を基本として語るのは間違っている。史実に忠実な池波正太郎やみなもと太郎のように、横山光輝「三国志」よりもKING GONTAの「蒼天航路」の方が三国志としては史実に近い。歴史物語は正史もしくは史実の行間に空想を働かせるべきであって、正史もしくは史実を大きく捻じ曲げた物語は歴史ではない。

陳寿の『三国志』は『三国志演義』よりはるかにちゃんとした歴史書である。とはいえ、歴史書は常に時の権力者に都合のいいように捻じ曲げられる。西晋は魏・呉・蜀の三国時代から魏を元にして中華統一を果たした武帝(司馬炎)による王朝である。武帝の祖父である魏の武将 司馬懿(しばい)は2割増しくらいに書かれていると思われる。

とはいえ、魏だけでなく、呉や蜀の歴史も等しく編纂されており(陳寿はもともと蜀に使えていた)、信頼できる歴史書との評価を得ている。『三国志』編纂前に、王沈による『魏書』が編纂されており、これと区別するために日本では『魏志倭人伝」と略称が用いられた。

内容は、帯方郡にいる郡使が倭に訪れた際の報告書をまとめたものである。

なぜ揉めているのか

まず、国名、役職名、人名が日本側の発音に合う(賤しい)漢字をあてているので、読み音が複数想定されるためにダジャレのように何にでも当てはまってしまう。

邪馬臺国(邪馬台国)、これをヤマタイコクと一般的に呼んでいるが、新井白石は「ヤマト国」と呼んでいる。これらに関してはほぼ間違いないだろうと思われる。ゆえに、邪馬台国論争ではなく、ヤマト国論争というのが正確なところである。魏志倭人伝自体には邪馬壹国[邪馬一国:ヤマイ国]と表記されているが、『梁書』など12世紀以前の版の引用では「臺(台)」が使われているため、版を重ねる中での誤記とされている。

一番揉めているのが、距離と方角問題である。古代漢文なので、現在ではどう読んでいいのかはっきりしない部分があり、それゆえ多彩な解釈が可能である。

帯方郡から邪馬台国までの道筋をそのまま読むと、対馬→壱岐→唐津(旧松浦郡)→糸島までは、ほぼ現在の地名から九州北部海岸線で確定なのであるが、「奴国(福岡平野のどこか)」からおかしくなって、不弥国→投馬国→邪馬台国の順で行くと、九州の遠く南海上に出てしまい、訳が分からなくなってしまう。

3世紀に正確な測量などはしていない。方角に関しては、唐津海岸(松浦国)→糸島市(伊都国)を「南東」としているが、実際は「東南東ぎみ」なので、少し間違っている。

当時の1里はどのくらいであったのか、方角を間違っているのではないか、似た地名がこの辺に集まっているなど多彩な解釈をして、現在は日本中どこにでも邪馬台国が存在してもいい状態になっている。

放射状式読みの登場

奴国(東)→不弥国(南)→ 投馬国(南)→ 邪馬台国のルートを「連続式」読みといい、長年、散々議論されてきた。

1948年に、新しい読み方として「放射状式」(榎説)が登場する。

これは魏志倭人伝を読むと「至(ある状態を示す)」「到(到着する)」という2つの漢字が使われるが、伊都国(イト国:糸島)にのみ「到」が付いている。また、伊都国までは、方角→距離→至・到→国名の順での文体だが、奴国から方角→至→国名→距離の順になる。

伊都国は女王の治める邪馬台国の北方の国々を監視する役割を担っており、帯方郡からの使者(郡使)を迎えるときは伊都国がお迎えをする。糸島市の平原古墳では、紀元前後の銅鏡が多数埋葬された女王墓が見つかっており、邪馬台国との関係性が示唆されている。

これらのことから、伊都国以降の方角と距離は「伊都国を中心としたもの」と捉えられるというのが「放射状式」読みの根拠である。

伊都国(糸島市)→奴国(ナ国)が「南東100里」とあるので、南東方向の福岡平野では、那珂川(ナカ:ナの河)市付近かと思われる。現在でも那珂川河口は「那の津」と呼ばれており、ナ国は那国であっただろう。3世紀中頃に発展した集落である比恵・那珂遺跡群の存在によりほぼ確定している。

補足:『日本書紀』『神功皇后紀』では、福岡平野の東寄りの地域を含めて儺県(ナノアガタ)と呼ばれるようになり、江戸時代には福岡平野全体が儺県となっている。そして、明治時代以降に再編を繰り替えして、今の那珂川市ができている。

奴国の次の不弥国はフミ国と読み、ウミ国とも読めるので、現在の糟屋郡宇美町あたりであったと考えられる。古くは遠賀川上流の嘉穂地方が比定されていたが、1980年代の江辻遺跡や光正寺古墳の発見から証拠が揃ってきている。つまり、不弥国は奴国と隣同士で、奴国の北寄りに位置することになる。連続式なら奴国→不弥国、放射状式なら伊都国→不弥国が「東100里」となる。どちらの読み方でも大きな矛盾はないが、宇美町に対して方角・距離的により正確なのは放射状式である。

放射状式に則れば、投馬国と邪馬台国は伊都国の南に位置することになる。この2国までの距離は何里かではなく、水行(船便)と陸行(歩き)の日数で表記される。これは、郡使たちの移動手段が、これまでの2・3日で行ける100里単位で示した陸行ではなく、水行が第一選択であったためと考えられる。

水行には「川を上る」ことも含まれるが、多くの急な山々からなる日本の河川では「下る」ならまだしも「上る」には限界がある。それに比べて、帯方郡からの荷物を海で運んできたことを踏まえても、邪馬台国へは海岸線沿いに外海を船行し、各港拠点で宿泊しながらの方が安全で労力も少ない。

投馬国へは南へ水行20日とある。伊都国スタートで考えると、海岸線に沿って東か西へ行き、南下するルートが考えられる。投馬を「ツマ」と呼ぶと、都萬(ツマ)神社のある宮崎県西都市あたりが候補地となる。北の耳川から始まり、小丸川、一ッ瀬川、一級河川の大淀川がある南北60kmの広大な宮崎平野がある。水行で20日もかからないとは思われるが、里と同様に誇張されている可能性が高い。

興味深い考察では、投馬は「殺馬」を略したものであるので、読みは「サツマ」となり、鹿児島のどこかということになる。しかし、鹿児島を薩摩と呼ぶようになるのは、8世紀以降の話で、3世紀ごろは「阿多(アタ)」「大隅(オオスミ)」と呼ばれていた。

ヤマト国はどこか

邪馬台国はヤマト国のことである。では、ヤマトとはどこか。新井白石は畿内の大和であるとし、後に九州筑後の山門に修正した。しかし、ヤマトという地名は日本の至る所に存在する。Google mapで検索すれば、日本全国にたくさん出てくる。山門(ヤマト)とは「山に囲まれた土地」「山の麓」にあるありふれた地名なのである。

ここで、興味深い考察を紹介する。熊本県山中に「山都(ヤマト)」という町がある。宮﨑の高千穂峡にすぐ近く、伊勢という地名もあり、こここそ邪馬台国だとする論がある。ちなみに、山都町という地名は2005年の三町合併時に「全国公募」にて命名された由緒正しき歴史を持つ。

一方、筑後川流域の「山門」は、古くからある地名であり、伊都国の南に位置する。

しかし、あまりにも伊都国から近すぎる。糸島市から山を避け、大野城市経由でみやま市に行くルートで100km程度である。1里を75から100m前後とする「短里」が魏志倭人伝では用いられているようなので、大袈裟に言っても100里ほどしかない。

魏志倭人伝には、邪馬台国は南へ水行10日陸行1月とある。水行AND陸行なのか、水行OR陸行なのかは後で議論するが、陸行1ヶ月なら1日4kmほどしか進まない計算になる。もちろん、今のように道は平坦ではなく、場所によっては険しかったろうし、行く途中で歓待を受けたりして多少日程が延びることはあるだろう。だとしても、2週間ぐらいが限界のように思える。1日の移動時間が3時間だとして、郡使はおかごに乗ってゆっくり時速1km(普通に歩くと時速4km)で移動する状態だろうか。

投馬国が宮崎県西都市だとして糸島市から「水行20日」かかるならば、邪馬台国へはその半分の航海日数となる。糸島から西の海岸線に行き、長崎を外回りにぐるっと回って、島原湾から北上して有明海に入るのならば、西都市へよりも半分の日数で到着できそうである。

このあまりにもゆっくりな陸行という矛盾さえ無視すれば、「山門説」は、かなり有力な説である。魏志倭人伝で記録される1里も魏の公式距離の1/10程度なので、水行陸行の日数も1/10にして水行1日陸行3日が実際の日数であったとの説もあり、「山門説」には説得力がある。

しかし、伊都国からの出発ならば陸行でも近いので、山門までそもそも水行する必要がない。「水行10日」は陸行の前に書かれており、第一選択は海路であったということになる。先の投馬国(西都市)への陸路は考えられないくらい遠いので、海路しか示されなかったと思われる。

つまり、水行AND陸行なのか、水行OR陸行なのか、という問題だが、この考え方ならば「OR」でないと矛盾が生じる。伊都国から邪馬台国までは海路と陸路の2つがあり、一般的には海路で向かっていたということである。そこで糸島から山門までの距離が近すぎる問題を解決するために、距離を2倍に伸ばすと熊本県の菊池川から緑川にいたる領域が候補として上がってくる。水行10日にもさほど矛盾ない。

この候補地に現在は「ヤマト」というような地名は見当たらないが、古くは菊池郡山門郷と呼ばれていた(和名抄:10世紀)地域がある。現在は菊池市野間口であるが、そのすぐ近くには3世紀中頃の邪馬台国時代に栄えた方保田東原(カトウダヒガシバル)遺跡がある(山鹿市)。菊池川周辺の環濠集落であり、筑紫平野と同様に多くの鉄器が出土している。

放射状読み変法ー倉本説の登場

連続式読み同様、放射状読みも幾つものマイナーチェンジが行われている。その中でも倉本一宏博士による放射状読み変法は、投馬国水行20日、邪馬台国水行10日陸行1ヶ月問題を大きく解決する。それは、伊都国からではなく、帯方郡からの行程であるとするものである。

狗邪韓国→対馬、対馬→壱岐などは1000里を水行1日で渡ったと考えると、唐津(松浦国)までの10000里の移動は水行10日かかることになり、ぴたりと一致する。帯方郡から邪馬台国までが12000里との記載があることから、陸行は2000里ということになる。短里に従えば、残りは唐津から150〜200kmというところである。1日10km進んだとして陸行1ヶ月に大きな矛盾がなくなる。

この考えで邪馬台国を比定すると、筑紫平野が最も有力となる。菊池市野間口はギリギリ範囲内にあるが、熊本平野は難しいだろう。現在知られている邪馬台国行程を最も矛盾なく説明する考え方である。しかし、まだ「有力説」であるので、今後の福岡県南部と熊本県の考古学調査を期待したい。

邪馬台国は筑紫・熊本平野に存在した

ヤマト(山門・大和)という名前の由来である「山の麓」を踏まえてみれば、菊池川から緑川にいたる領域だけでなく、実際に山門のある筑紫川流域全体の広い地域が邪馬台国領域であったとする方が無難な予想かもしれない。

今の所、ヒミコがいたとされる神殿のような遺構は発見されおらず、巨大な集落は見つかっていない。今後の遺跡発掘に期待したい。女王の墓は「径100歩」とあるので、直径70mほどの円墳であろうと思われる。これが見つかり、さらに「親魏倭王」の金印が見つかれば、邪馬台国は確定する。

よく卑弥呼の墓として話に出てくる纏向遺跡の箸墓古墳は、円墳ではなく280x150mの巨大前方後円墳であるので、ヒミコの墓である可能性は常識的にあり得ない。炭素14年代法による小枝や桃の種の結果では、3世紀だけでなく、4世紀を示す結果も出ている。畿内説は考古学界では最も有力とされているが、九州北部で出土する舶来銅鏡などの出土があまりにも少なく(三角縁神獣鏡は日本製)、魏志倭人伝に記述される「南」を「東」へと方角を90°も変更する科学界ではやってはいけない極端な解釈と合わせて、邪馬台国畿内説は相当苦しい。そもそも奈良盆地が「大和(ヤマト)」と呼ばれるのは奈良時代以降である。

奈良盆地南東に突然現れる纏向遺跡は、神武東征との関係が深いと思われる。邪馬台国云々よりも、4世紀以降の大和国誕生にとって非常に重要な遺跡であるので、そちらの方の解釈を中心に考察していただきたい。

もう一つの邪馬台国候補として吉野ヶ里遺跡があるが、3世紀中頃には衰退していることがわかっていて、邪馬台国である可能性はかなり低い。

狗奴国はどこか

山門説のもう一つ有力な根拠として、狗奴国がある。

狗奴国は邪馬台国の南にあり、女王に反する男の王「卑弥弓呼(✖️卑弥呼)」がいて、官職に狗古智卑狗(クコチヒコ)がいたという記述がある。ややこしい卑弥弓呼は別で述べるとして、クコチヒコだがクコチは菊池の古い呼び名(久々古:ククチ)と似ている。ゆえに、菊池川流域に狗奴国が存在したとして、菊池川の北、筑紫川・矢部川流域の山門説はさらに支持されるものとなっている。

しかし、狗古智卑狗は官職名である。狗古智卑狗と菊池川は関連性があるのは確かだが、狗奴国の場所の根拠としては弱い。他の国の比定は国名の音を頼りにしているので、それに倣えば、狗奴国はクナ国→クマ国→球磨(熊、隈)となる。有明海に次ぐ大きな内海である八代海、そこへ流れる球磨川流域が有力な狗奴国候補地である。

狗奴国による邪馬台国侵略とヒミコの死は関係している可能性が高く、騒乱後の「トヨ」の擁立など、興味深い内容が魏志倭人伝には記載されている。この辺の考察はかなり長くなるため、別に書きたいと思う。

邪馬台国の周辺国々

魏志倭人伝には「詳細はわからないが」として邪馬台国の治める周辺国々を奴国を含めて21国が列挙されている。下に示すように、最後に奴国で締めているので、他の20国には地理的な順番があったようだが、詳細は不明である。

斯馬国、百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国

九州説に則って、斯馬国(シマ国)→志摩、對蘇国(トス国)→鳥栖、邪馬国(ヤマ国)→耶馬、支惟国(キイ国)→基肄などの九州北部の地域が比定されている。ただし、畿内説、四国説、出雲説、越前説などでも同様の比定が可能であり、九州説の根拠となるものではない。

まとめ

魏志倭人伝をかなり素直に読んだ場合は、九州の有明海平野部に邪馬台国があっただろうことがわかる。

歴史は過去を遡るほどわからなくなる。文献のオリジナルは残っておらず、後世の多くの手による誤記は否めない。また、書かれた時代の背景から、事実を歪められた可能性もある。ゆえに、この柳田の考察はあまりにも素直すぎる解釈であるかもしれない。

多くの古代文献がそうであるように、多様な解釈の余地が魏志倭人伝にはあり、謎(ミステリー)を作り、多くの人を惹きつけることになった。現在も邪馬台国ビジネスは健在である。

考古学にはお金がかかる。考古学者たちが研究を進めるには、「卑弥呼」や「邪馬台国」を出して、注目を集めない限りは発掘や保存がままならない現状がある。ゆえに、考古学者たちの安易な邪馬台国発見報道は批判を受けるが、結果的には吉野ヶ里遺跡や纏向遺跡の発見は、日本の古代文化を明らかにしてくれた。

今後も考古学や文献レベルでの新発見が邪馬台国論争に一石を投じるだろう。炭素14年代法の精度は±20年ほどだが、当時の気象条件によっても変わってくるため±100年の大きな誤差は考慮しないといけない。遺伝子解析はさらに数百年の誤差がある。ゆえに、今後、新発見の報道があった際は、推定年代が邪馬台国時代である3世紀中期であるか否かには注意が必要である。

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