千年刻みの日時計

田中泯さんの講演のこと。

2015/11/14の記録。

冒頭で流されていた30分ほどの映像の中では、今目の前にいる人と同一人物だとは思えない形相の田中泯さんが踊っていた。踊っているといっていいのかわからない艶かしい動きは、気のふれたような怖さがあって、これは生で見てしまうと憔悴すると思った。五感ではない感覚で受け止めてしまう得体の知れないエネルギーは、どんな形であっても発散しないとダメになる。人間はそんなにいろんなことを抱えきれない。

映像を観たあと、思想史家、神大教員もされている市田良彦さんとの対談が講演がみっちり2時間あった。踊ること、身体について。人前で話すことを生業とされている市田先生がいらっしゃったことで”言葉"の扱い方が議題に多くあがった。

「言葉は不幸だ。例えば「好きだ」と言えば、往々にしてそのまま受け取られ、その意味しか残らない。」とおっしゃられていた。"好意があります”だけでははかれない様々なことは、きっと伝わらない。だからこそ身体で会話しろと。

身体をつかってパフォーマンスされる泯さんは、割と言葉を必要としない対話、コミュニケーションの大切さを問われていて、とても難しかった。言わなくてもわかる、という感覚はわたしはとても怖いものだとおもっている。頭の中がこんがらがっているので、考え込んでしまう、これは性格というより性質で、頭の中のチャンネル数は簡単には増やせない。あらゆる問題を自己完結してしまう。過敏に感じ取るからこそ言葉にとても重きを置いて生活しているつもりでいる。人と人との間では対話は最も重要で、言葉で説明できないことは吸収しきれていないんじゃないかという不安。質問には回答がいる。放棄するのは怠惰。納得と理解。言わなければいい、として終えることへの戸惑い。

(結局、他意にしろ故意にしろ口からでた言葉には責任をとらないといけない。悲しいほど、この歳になっても、いやいくつになっても、大事な場面でこそ、こんなこと言いたいわけじゃなかった、とおもうことが多すぎる。)

泯さんは、踊るときは”シフト"している状態だという。この振りがスタートということではなくて、スイッチが入り高揚しているといったよう。世界に宙ぶらりんになったような感覚だから、快感だと。本当はずっとシフトして生きていたいけど、そうすると病院にいれられるか、早くに死ぬかどっちかだと笑っていた。

一片だけでだれかを嫌いになることはない。と力強く断言もされていて、人を嫌いになることが苦手なので、とても励まされた。人間として癖があったとしても、なにかしら憧れられる部分があれば愛してもいいんだと。それでも《孤独こそ最高の快楽》であるから、人は孤独であれ、と説かれて対談は終わった。

まとまらなかったけど、大事だとおもう、感じたことを残しておくことは。そしてこういうことを受け取るよりも発信したいなと思える自分に改めて気づいた。

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