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【無料公開】岐路メシREPORT完全版|6/28亀丸一弘さん

6月28日(土)の岐路メシゲストは、
柳ヶ瀬でライブハウスと音楽スタジオ、そしてミュージックバーを経営しながら、バンド活動で全国でライブを繰り広げる現役のプレイヤーでもある、柳ヶ瀬ANTSのオーナー・亀丸一弘さんです。

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(モデレーターはみんなの沼 ぎふメディアコヌモヌプロジェクトより、後藤麻衣子が務めました!)

今回は特別に無料公開!岐路メシREPORT完全版

通常、アーカイブ動画チケットを販売している岐路メシですが、今回は特別に無料公開の完全版!

1〜2つ目までの岐路メシを話してくださっている前半は、全内容を書き起こしたテキストレポート(この記事です)
3つ目の岐路メシから、今の亀丸さんのディープな話が聞ける後半は、YouTubeで公開しました。

特別に無料で楽しめるアーカイブレポートですので、是非是非お付き合いください!

全国で活躍、岐阜の音楽シーンを牽引する亀丸さん

全国、世界規模で活躍する“MASTER K”こと亀丸さん。
つい数年前にカナダツアーをしたり、国内では全国ツアーを何本も回ったり、大規模な音楽フェスにも出演したりと、ロックミュージックシーンで知らない人はいないと言っても過言ではない、レジェンド的アーティストです。

さらに、岐阜の音楽界、ロックミュージック界を牽引してきたと言っても過言ではない、岐阜音楽界のキーパーソンでもあります。

全国ツアーで全国各地をまわる中で、各地の美味しいものを食べるようになり、とてもグルメな舌の持ち主。
ライブで岐阜に来る県外バンドマンたちは「亀さんに聞けば絶対美味しいところ教えてくれる!」と頼りきりの、グルメなライブハウスオーナーとしても知られています。

今回は、そんな亀丸さんのこれまでの音楽人生を、グルメな亀丸さんならではの「岐路メシ」とともに振り返ります。

高校時代の岐路メシは、一楽の「味噌カツダブル」

音楽を始めたのは15歳のとき。
「小学生から洋楽が好きで、中学に入ってギターを買ってもらいたくて、でも買ってもらえず、高校生のときに、一生懸命バイトをしてやっとギターを買ったのが始まりでした」

高校生のとき、念願のギターを手に入れてからずっと、音楽一筋30年の亀丸さんです。

「高校生ってお腹が空いてるから。
記憶が確かなら、一楽さんはご飯の大盛り無料だった気がするんです。
今でこそ、学生特盛り!とか、掟破りの大盛り定食!とかいろんな店がありますけど、当時はこんなサービスってなかった。
でも一楽さんは、学生にすごい優しくて、それでいてめちゃくちゃ美味しくて。衝撃もあったし、味も記憶に残っています」

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育ち盛りの男の子でも大満足するほどの、味噌カツW(ダブル)。
お皿から溢れんばかりのカツがずらりと並んで(重なって?)います。

「学校帰りにみんなで行くのが楽しかった。
狭い店内、男子が何人も行って、みんなで大盛りのご飯にがっついてましたね」

岐阜駅の近くの音楽スタジオで練習したあと、柳ヶ瀬でお腹いっぱい味噌カツ定食を食べるのが本当に幸せだった、その頃の思い出です。

現在は、少しだけ場所を変えて移転されていますが、柳ヶ瀬商店街で今も元気に営業されています!
パワーが欲しくなった時にぜひ訪れてほしい、柳ヶ瀬の味噌カツの名店「一楽」です。

その頃の亀丸さんの秘蔵写真!笑

高校生のときに組んでいたバンドでの音楽活動はとても順調で、ファンもたくさんいたそうです(さすが!)。

高校生の頃の亀丸さん!

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「こういう可愛い男の子が、35年するとこうなるんです(笑)」
(中央が亀丸さん)

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「音楽一筋、好きなものは音楽しかない」という亀丸さん。
高校を卒業して地元岐阜での就職が決まり、仕事をしながらバンド活動を続けていくのかと思いきや…!?

入社前日に内定を蹴って、大阪へ

当時付き合っていた彼女(なんと、現在の奥様!)が、大阪の大学への進学を決め、着々と準備を進めていたところ、急に「行きたくない」と…。

「奥さんは歌を歌っていて、才能は本当にすごかったから、それに賭けてもいいんじゃないかと思って。
『じゃあついてくわ』って、その場で決めました」

(奥様は、現在ソプラノ歌手として全国で活躍されている足利真貴さん。7/10になんと岐路メシにご登壇いただきます!)

「就職が決まっていた会社に、翌日から出勤するはずだったんですが、電話をかけて『明日から入社予定の亀丸ですけど、この話、なかったことにしてください』と。
電話の向こうから『また急にどうしたの』と言われて『いやー、大阪行くことに決めたんで。バンドで一旗上げてきます!』と。
親父には『ちょっと大阪行くわ。荷物運ぶから、車貸して』と言い残し、車を借りて荷物を運び、翌日車を返して、そこからずっと大阪です。5年間」

なんと、潔い行動力…!!
そこからすぐ仕事もバイトも探して…。

大好きな音楽活動は…?

「今の大阪と当時の大阪は雰囲気が違う。アメ村なんて、怖くておっかなくて歩けなかった。
メンバーを探すのも大変でした。いろんなライブ見に行ったり、スタジオやライブハウスに通ったり、友達に紹介してもらったり…。メンバー探してバンド組むまでに2年くらいかかりました」

1991年、大阪で結成したバンドが「WRESTLING OF TALKIN' COCKS」
その後1992年に「WRESTLING CRIME MASTER」を結成し、精力的に活動を広げていきます。

さすが実力者、「大阪期待の新星!」と言われるようなバンドに育ち、人気はうなぎのぼり。
「きっと俺はここでずっとこのバンドやっていくんだろうな」と思っていた矢先…

彼女が「卒業するから岐阜に帰るね!」

なんと、彼女が大阪から岐阜に戻ることに。
もともと、彼女が来たから一緒に来た場所。
絶好調のバンドはあるけれど、大阪に残るのか、岐阜に戻るのか…

でもそこで亀丸さんは迷わず、「ごめん、俺、岐阜帰ることにしたわ」とメンバーに告げ、脱退というかたちでそのバンドを去ることになりました。

「今現在ね、ライブハウスのオーナーをしてて、いろんなバンドマンたちの話や悩みを聞くわけですよ。
ある若者がね、『彼女から、“私とバンドどっちが大事なの!”って言われて困ってる』なんて僕なんかに相談してくるんですわ。
まあドヤ顔で『そんなの比べることじゃないやろ』『それにお前、バンド好きなんやろ?音楽捨ててどうする』って偉そうにアドバイスしてますけど、当の本人は彼女について大阪へ行き、彼女について岐阜に戻ってきましたからね(笑)。説得力ないですよね(笑)」

会場を笑いの渦に包みながらも、「それでもきっとあの決断は間違ってなかったと思える人生を歩みたいと思っている」と、話してくださいました。

音楽と離れた、辛かった3年間を支えた岐路メシ

岐阜に帰ってきて、また音楽活動を復活するのかと思いきや、そこからなんと、大好きな音楽と離れる辛い3年間が始まります。

「ずっと音楽やってきたけど、岐阜に戻ってきたのをきっかけに“3年間は仕事だけする”って決めたんです。
それは何か目指すものがあるとか、理由があるとか、意地を張ってるとかではなく、帰ってきたときに自分で決めた約束だったから、絶対に守ると決めていた」

まだ20代半ば。
周りは好きなことばかりに没頭している中で、亀丸さんが「決めたこと」でした。
その意志からも、亀丸さんの芯の強さがうかがえます。

そんな、音楽が大好きな亀丸さんにとって辛かった3年間を支えたのが、YUMINの「和風ラーメン(+チャーシュー)」

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現在は岐阜市茜部にある「YUMIN」ですが、当時は各務原市にありました。小さなコンテナで営業している、とても変わったラーメン屋でしたが、その味は格別で、県内外からラーメン好きが集まっていたそうです。

そして今のように、大将がこだわってつくる現在のラーメン店のようなところは岐阜にはかなり少なく、とても貴重な存在だったそう。

「夜中までやってる店も少なかった。ラーメン屋なんて特に、こんなに美味しい店、他にはなかったんです。衝撃でした」

夜遅くに各務原まで車を飛ばし、コンテナの前で1時間待って、夜な夜な食べるラーメンは最高だった、という亀丸さんの思い出。
バンド活動をしたい気持ちをおさえ、辛い時期ではあったけれど、そんな亀丸さんの、とっておきの楽しみだったそうです。

「分厚いチャーシューももちろんなんですけどね。
スープも美味しいし、ちょろっと入っていた海苔も、最高に美味しいんですよね。とにかく衝撃で。革命的なラーメンだと思っていました」

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今もずっと音楽一筋の亀丸さんが、絶頂期とも言える20代の大切な3年間に音楽を一時休止。
今振り返ると、あの3年間は亀丸さんにとってどんな3年間だったのでしょうか。

「35年のバンド人生の中で、
あの3年間があるから
今もバンドも続けられてると思ってる」

「今でも、その決断が正しいのかどうかわからないし、辞める必要のない時に辞めていたという“後悔”のような感情もよぎる。
だけど、後悔にしたくないから、あの3年があったから、今もこうして長く続けていられるんだと、今は思えるようになりましたね」

過去を振り返って悔やむことは簡単。
それを前向きに捉えることができる強さを感じます。

対して、大阪時代のバンドは、亀丸さんの脱退後もどんどん知名度を上げ、人気も急上昇。
「羨ましい気持ちもあった」という複雑な心境の中でも、「自分で決めたことだから」と3年間は仕事に集中しながら、夜中に並んで食べるYUMINのラーメンに癒されていた亀丸青年でした。

苦しい3年間を抜けて、バンド活動再開

自分に課した「3年間」をきっちりと終えて、ようやくバンド活動を再開します。
その3年間、音楽活動はしなかったものの…
「こいつと一緒にバンドやりたい、という音楽仲間には、“3年後バンドやろうぜ”と唾を付けながら過ごす3年間でした」
亀丸さんの復帰を仲間たちも待っていてくれて、満を辞してバンド活動が始まります!

1996年に、現在のバンドの礎となる「STAB 4 REASON」を結成。

結成してすぐ、亀丸さんは無謀とも思える目標を掲げます。

【目標】
・3ヶ月でデモテープを録る
・1年で7インチCDを出す
・2年でアルバムを出す

東京や大阪では、このレベルで精力的に活動していたバンドはいたかもしれませんが、「岐阜でこんなことを成し遂げているバンドなんてひとつもいなかったと思う」という時代。

それでも亀丸さんはひとつずつ、先送りにすることもなく有言実行していき、30歳になる頃には年間100本のライブをこなす、人気バンドに急成長させたのです。

一杯のラーメンから、ラーメン道にハマる

ミュージシャンとしての成功もさることながら、亀丸さんのグルメっぷりにも触れたいところ。

現在、ラーメンを筆頭に、「美味しいもの」を知り尽くしている亀丸さん。
彼のSNSは、グルメの宝庫です。

そもそもラーメンにハマるきっかけは?

「それこそ、その年間100本のツアーをこなしていた頃。
東京荻窪の「春木屋」のラーメン食べて、衝撃が走ったんです。
世の中にはこんなに旨いものがあるのか、と…。
いや、衝撃どころの騒ぎではなかった。
もしかしたら知らないだけで、世の中にはこんなに美味しいものがまだ眠っているかもしれない、と。それを掘り起こしたい衝動に駆られました」

今も「最後の晩餐にはこれを選びたい」と溺愛する、亀丸さんのラーメンマニアのルーツとなった一杯がこちらです。

全国ツアーで各地へ行っては、地元のバンドマンに連れて行ってもらって、全国各地の美味しいラーメンを開拓していったそう。

「好き嫌いであれこれ好き勝手なこと言ってるだけで、そんなに詳しくはないですよ。『そんなに好きならラーメン屋やればいいのに』って言われるけど、それとこれとは別の話。
ラーメン屋の友人の苦労を見てたら、自分じゃ無理って思うし(笑)」

「やりたいことは常にある」から

「STAB 4 REASON」として大活躍を続けながらも、その後1999年には「STAB 4 REASON AND THE STYLES」を結成、そして現在の「DUB 4 REASON」へ…と、音楽ジャンルの垣根を越えて様々なスタイルのバンドに進化させてきた亀丸さん。

「『STAB 4 REASON』をやってた頃に、ちょっとレゲエもやってみたいね、と始めたのが『STAB 4 REASON AND THE STYLES』。その後もうちょっと重めのDUBを…と『DUB 4 REASON』になりました。
やりたいことは常に頭の中にあって、どうしたらできるか妄想もしてる。
でも時間は有限だから、いつも同じメンバーで展開していくっていうのが通例ですね。みんながついてきてくれるのがありがたいです」

現在の奥様との馴れ初めについても…!

18歳の高校生の頃から付き合っていた当時の彼女が、現在の奥様。
結婚したのは、付き合って20年経った、38歳のとき!

「つきあって20年経って結婚しました。
付き合い始めた日からちょうど20年経ったその日に結婚して、そのまま、初めてデートした明治村に行きました」

と、ここにも秘蔵情報が…!(とてもロマンチックなお話です、ごちそうさまです)

「30年以上一緒にいるけど、結婚してからは10年ちょっと。
アマチュアのベテランみたいなもんですね(笑)」

当日は奥様もトークを聞きに来てくださって、笑いながら聞いてくださったのが印象的でした。
(ソプラノ歌手として全国で活躍されている足利真貴さん。7/10に岐路メシにご登壇いただきます!)

そんな奥様とまだ結婚前、人生の転機が…!

年間100本以上ものライブ出演をこなしながら、奥様のお父様・お母様が経営する幼稚園で働いていた亀丸さん。

「その頃はまだ、こんなドレッドじゃないから(笑)。
幼稚園バスの運転手とかしてたね。あとは幼稚園の教材を作る会社もあったので、そこで営業の仕事もしてました」

かなり融通のきく会社で、経営者である彼女のお父様やお母様に迷惑もかけながら(笑)、バンドと会社員の二足の草鞋生活は続きます。

「仕事をしながら、かなりの割合で音楽活動をしていたあの頃、でもまだ当時、携帯電話も普及してない頃だったから、ライブのお誘いを受ける電話をどうするか?という問題があって。
そこである行動に出たんですよ。
会社の自分のデスクの電話の隣に、もうひとつ電話を置いて。勝手にNTTに電話して、自分のバンドのレーベル『TWISTED PRODUCTIONS』用の電話を勝手に新しく引いてきたら………めっちゃ怒られました(笑)」

「またよく鳴るんですよね〜その電話が。
会社の電話よりも頻繁に鳴るもんだから、隣の事務のお姉さんにも幾度となく怒られながら…。でもなんともならんし、結局そのままでした(笑)。
当時は本当に無茶苦茶やってて、たくさんの人に迷惑かけましたね」

まさに人生の岐路!衝撃のラーメン

3つ目の岐路メシは、「麺坊 ひかり」の「塩ラーメン」
(「ひかり」は造語で、本当は漢字です)

35歳の頃。
現在の柳ヶ瀬にある音楽スタジオ「Prime」の第一号店となる、当時各務原でオープンしたスタジオ「Prime」の開店準備をしていたときに、よく食べていたラーメンです。

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(写真は当時食べていた「塩ラーメン」ではなく、現在よく食べている「八丁味噌のラーメンfeat.蕃茄」。ちなみにこちらは東海地区の味噌ラーメン部門No.1に選ばれている一品です)

「スタジオをはじめた頃によく通っていた、お腹的にも、“心”的にもかなりお世話になった店。
あのレベルの塩ラーメンが出せる店は、岐阜にはなかったと思う。
岐阜のラーメンのレベルはここまできたか、と感動して、本当によく通いましたね」

全国の美味しいラーメンを食べてきた亀丸さんが、ついに出会った岐阜の最高峰のラーメン!と言っても過言ではない、今もとてもお気に入り&店主とも仲良しのラーメンです。

脱線して「八丁味噌のラーメンfeat.蕃茄」への愛を

「この「八丁味噌のラーメンfeat.蕃茄」がね、旨いんですわ。
運ばれてきて、食べるやんね。もう一口目から『うまっ!』って感動して。『途中でトマト入れてくださいね』って店員さんに言われるんだけど、あまりの旨さにトマトなんて入れたくないわけよ。
なんでこんなに美味しいのにトマト入れないかんのや、って」

ほうほう。(美味しそう…)

「半分ちょい食べたくらいで、意を決して『入れてみるか…』と、トマトを入れるんですね。
トマト入れてかき混ぜて、一口食べて『あーもしかしてこれ入れん方が良かったかな…』って一瞬思ったりもするんだけど…」

「これがね。そのトマトが馴染んだ瞬間にね。
またこれ止まらなくなるんですわ…
今度は『あああ、なんでもっと早くトマト入れんかったんやろ』ってなるやつ」

会場も大爆笑。
亀丸さんのラーメン愛が止まりません(美味しそうすぎます…!)。

続きはアーカイブ映像を、YouTubeでお楽しみください

3つ目の岐路メシが出てきたばかりのところですが、
続きはぜひアーカイブ映像で、楽しいトークをお楽しみください!

この「麺坊 ひかり」さんのラーメンが、亀さんの心にどう染みたのか、そしてその後、ライブハウスやミュージックバーをオープンするに至った経緯、この街なかに場をつくっているその想いなど、深いところまでじっくりお話をお聞きしました。

質問コーナーにも注目です!

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奥様も一緒に、トークライブ後の記念写真。

亀丸さんが手に持っているこれは…!?
実はこの一皿が登場したときも、会場は大盛り上がりに。
その真相はぜひ、アーカイブ映像でお楽しみくださいませ。

岐路メシはまだまだ続きます!

6月20日から7月18日までの約一ヶ月間、16回のトークライブを立て続けに行います。イベントスケジュールはこちらからご確認くださいね。

奥様がご登壇する、7月11日の岐路メシトークライブはこちらから!



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