『橋』のコラージュ
脳梁という脳の部位がある。右脳と左脳を繋ぐ束だ。
右脳は左半身と視覚・空間の情報の処理を担っており、左脳は右半身と言語能力・論理的思考を担っている。つまり私たちの頭の右側には芸術家っぽい人が、左側には学者っぽい人がいるというわけだ。
普段はこの2人が手を組んでコミュニケーションをしたり仕事をしたりしているわけだが、脳梁が切断されると=2人が離れ離れになるとできなくなることがある。
脳梁が切断されている人がスクリーンの前に座る。画面の左側に「鍵」という言葉が映される。それを左の目で見るから、情報は右脳に伝達される。しかし右脳には言語能力がないのでなにを見たのか答えられない。
しかし、そのスクリーンの裏を手探りして、「鍵」という言葉と一致する物を手に取ることができる。
右脳の情報を得る機能、左脳の情報を処理する機能、どちらも片方だけでは成り立たない。脳梁は橋としてこの2つを繋げている。人間にもこの考え方は当てはまると思う。
人間には個人的な部分と、社会的な部分がある。
前者は自分がどうしたいかを考える。趣味に費やせるお金が欲しい、とか。
後者は自分がどうすべきかを考える。お金が欲しいなら働くべきだ、とか。
社会的な部分を欠いているということは社会的な視点を欠いているということでもあり、たとえば、失言を訂正しない。訂正したいと思わなかったから。
個人的視点が欠けていれば、パワハラを受けてもなにもしないだろう。ただ社員のとしてのみそこにいて、その中で超特殊な仕事をしているだけだから。いずれその会社は悪評が広まって潰れるかもしれないけれども。
個人的な考えを捨てた人間には幸せがない。義務や役割に奉仕させられ、一方的に使われるのみである。
社会的な部分を捨てた人間には幸せがあるかもしれないが、いつかはなくなる。人類全員が義務や役割を放棄すれば社会が崩壊し、その中で否応なしに生きる個人の幸せもなくなるからだ。
こうしたい!という考えが過熱すること、こうすべき!という考えが過熱すること、つまり橋がか細くなって両方の機能を公平に混ぜ合わせて使えないことは健全とは言い難い。
自分がしたいことと自分がすべきことのバランスをとる、ワークライフバランスという考え方は広まってきた。次は、そもそも働けていない=脳梁が切断されている人に社会との繋がりを持たせる=橋を作ることも注目されるべきではないだろうか。
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