「十分」について

 大学の哲学サークルの初めての議題が「知るとはなんだろう」だったので、あらかじめここ(Note)で意見を記事として作ってから臨んだのだが、そのときに「十分に知る」という言葉を偶然に生み出した。それは実際の議論の中に投入され、洗練させられたので、その記事に追記したのだが、これからも使いそうなので、一つの新しい記事に作り直してみる。

 ある疑問が循環論法に陥った場合、あるいは理論上は解決できるが実生活に還元できなくなった場合、それでも多くの人のためになるような善良な結論を出すために「十分」を決定する。

 「十分」とは、足りているが、過度でもないということである。

 「足りている」とは、私の欲望を満たしてくれる、ということである。すごい喉が渇いていれば二杯の水が足りているし、しかし十杯では余分なので「過度」であり、それほど乾いていなければ一杯が「足りている」。

 では、あるサプリメントの情報を欲しがらなかったとして、ろくな情報を得ていなかったために副作用とかで死んだら、と考えると、どこまで欲するべきか、という問題が出てくる。

 限りなく欲してみるとしよう。つまり、不都合を回避できる確率が上がる行為を果てしなく繰り返してみるとしよう。絶対にそうすべきだからだ。

 しかし、実際には限界にぶち当たる。それは肉体の限界でもあるし(ずっと思索にふけったら餓死する)、生活の限界でもある(仕事の時間がない)。そのとき、「死にたくない」「生活したい」という欲望と「知りたい」という欲望がぶつかって、妥協点を作る。それが「十分」である。また、実際には、「知りたい」という欲望はそれほど強くならなくて、その欲求が退いた空間に「痩せたい」「強くなりたい」みたいな欲望が入ることがある。つまり、幸せになりたいという欲望だ。

 具体的な例を出すと「私は美しくなりたいのでこのサプリメントを飲む。しかし死にたくないのでこのサプリメントについて調べる。しかし大学を出てまで調べたいとは思わないので、ネットで検索するぐらいで済ませる」。

 彼女にとってはネットで検索できる知識が十分になる。その知識は「美しくなりたい」「死にたくない」という欲望を満たすか、つまり本当に美しくなれるのか・死なないのか、は分からない。だが、「完全に分かる」ことはできない。

 そして決めることはできる。自分がなにを欲するか。

 「十分」はとても個人的なもののように見えるが、みなが同じだけ同じものに欲望を抱けば、「十分」は共有できる。

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