人間失格はずるい

 想像力と創造力、知性・感性・経験の一部、それらは多少のばらつきと種類の違いがありつつも誰もが持っているもので、それで戦うことは平等だ。だから、それらで作られたものはなんであれ評価できる。そして芸術家なら、良いものを作ろうとするなら、いかなる評価でも受ける覚悟はしないといけないはず。褒め言葉も悪口も本人が勝手にポジティブに受け取ったりネガティブに受け取ったりするだけで同じ次元にあるはずだからだ。

 しかし、一部とかじゃなくてもうぜんぶ、人生自体、それに良し悪しはないから、評価できない。人生を作品にしたら評価できない。評価できないものを、あたかも「小説」とか評価できるようなものとして世に出すこと、圧倒的な知名度のある人がそれをすることには、疑念を持たざるをえない。

 だから、太宰治の人生を書いたという「人間失格」はずるい。勝負から逃げている。あれは良い悪いの次元には存在しない。それが魅力なのかもしれないが。
 しかも、「恥の多い生涯でした」なんてほざいている。恥の多い生涯なら公表するなよ。

 俺はちゃんと恥ずかしがってるから、俺の人生についての文章を教授先生には持っていかなかった。でも、よく考えると、じゃあnoteに書くのもどうなんだ?と思った。文字にしてみたいだけなら、言語化でなにかを見つけたいだけなら、公表しないでいいじゃないか。

 そんな俺の理性に俺の感情は「いや、そんなの耐えられないじゃん」と返す。具体的になんでかは書きたくないから書かないけど、1人で抱え込むには大変だ。書く、というより、書かざるをえない。

 俺は実家が太くないし東大を中退していないし文才も知名度も創作欲もないが、そう考えてみると太宰治を理解してしまう。恥の多い、と最初に断っておきながら語らざるをえなかった。ドロドロとしたマグマが吐瀉物のような気持ちがあった気がする。それを、あんなにも流暢に文章にしたのは、なるほど文豪なのだろうか。にわかだからわからない。

 俺は太宰治の小説家としての能力と功績をなんかすごいなと好みつつ、人間としての太宰治は嫌いだったのだけど、その能力と実績よりも人間性の方がよーく理解できてしまったし、ああなんだか共感してしまう。最近、人間失格はなにかの人気ランキングで3位になったのだとか。1位は、「吾輩は猫である」。あの超有名文学。それに、こんな小説なのか人生なのか分からないものが迫るとは。息苦しい社会でみんなも太宰治に共感しているのだろうか。

 俺は、うーん、それでも太宰治はそんなに好きじゃないし、人間失格はずるいと思う。でも、太宰治推しの70歳くらいの教授先生とお喋りしてみて、いろいろ感じたり考えたりしてみて、この少ない好意の質は高まったと思う。だから満足している。

 教授先生は太宰治をかわいそうな人、愛情深い人、ずるいわけではない、と言っていたな。俺に余裕があれば、仕事と功績と年齢と家族があれば、そう思えるくらい心が広くなるのだろうか。

 でもキツキツの方が気持ちいいよな。まさにこれなんて、心が広くて余裕のある人には書けないだろうなあ。最期は入水自殺したけれども、人間失格の売れ行きや、人間失格に対する世間の反応を知っていたのだろうか。そしてそれらはどんなものだったのだろうか。

 知ったらたぶんおもしろいだろうな。いつでも知れそうだし、楽しみのひとつとしてとっておこう。俺はもう合格とか失格とかどうでもいいし、人間を満喫するぞ。自分勝手に生きるなら自殺より他殺にしろよな。

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