文化人類学入門を読んで

 これからの時代を生き抜くための文化人類学入門という本を読んだ。

 その中に、プナンという、インドネシアの森に済む、半定住型・半狩猟採集型の民族が出てきた。
 彼らは、自分が持っているものを求められればすぐに差し出す。物欲しそうに見つめられただけでも差し出す。いまさっき貰ったものでも、時計のような彼らには作れないだろうものでも、そうする。

 生まれつきそういう人種というわけではなくて、貰った飴玉を握りしめる子供もいる。そんな子供に、親は他の子にも分けるように躾ける。だから文化的な習慣というべきものだ。

 なぜこのようなことをするのか。本には「自分になにもないとき、分けてもらえるように」とあった。これを僕なりに解釈・拡張すると、いままでの思想と結びついた。

 プナンには、食料を長期的に保存する術がない。どれだけ所有しようと財産(食料)はいつかなくなって、また貧乏になる。しかし、それを分けることで「恩」を貯めることができる。「恩」は腐ることがなく、また財産(食料)にも変えられる。食うに困ったときに分けてもらえるということだ。

 そういう互助のシステム、資源(食料)を腐らせないシステム、それがプナンの慣習に発展したのだと思う。

 文明国家…………というと差別的だからいやなのだけども、わかりやすいからとりあえずそう言う。文明国家にこのような慣習がないか、それが小さい関係(家族や友人)でのみ行われるのは、財産(これからは広く成果という意味になる)を保存する術があるからだ。恩の代わりになるものがあるからだ。

 それが「金」である。金には多少の価値の上下はあるが、腐らないし、銀行に入れれば場所を取らない。恩と違って明確でもある。だから資本主義社会では共有とか助け合いの概念は薄まって、資本家と労働者どころか労働者と労働者の間でも戦いが生まれる。

 もし、あらゆる財産を金に変えることができなくなるか、金が腐るようになれば、資本主義は改良されるだろう。という僕の考えは補強された。

 資本主義を成り立たせる二本の柱「貯蓄」と「投資」の前者に焦点を当てた話だが、後者にもこの本はいい話だった。

 未開…………これも差別的なので言いたくはないけど、とにかく、そういう環境ではどれだけ投資をしてもあまり意味がない。労力を注げる対象が少ないのと、注いだところで限界が近いため、投資の成果が出にくい=格差が生まれにくいのだろう。具体的な話は偏見になっているかもしれないので言わないけども。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?