生かされた - 後手に回る思考

 いつもなにかを考えているのだが、考える度に負けているのだなと思う。というのも、私が考えるから物事があるのではなく、物事があるから私は考えているからだ。どれだけ考えようと、物事は否応なしに存在し、その後手に回って分析するしかない。ときに、その物事が架空であることもあるが、架空として存在すること、あるいは架空を作るなにかの存在を認めざるを得ない。つまり、どこまで行っても、考えるという作業は後手に回っているのだと思う。

 そして、私も物事の一つである。私は存在してから「私が存在するとは何か」と考えるしかなかった。考える前に、生きようとする前に生かされていた。その、生かされた存在から生きる存在になるためにはどうすればいいのか?そこで、生かされたことを不自由、生きることを自由、そう哲学者たちが・・・代表的にはサルトルがそう思ったようだが、どう考えてもこの世に自由はないし、ない方がいいと思う。自由がなければ、人間は幸せになるか不幸せになるかしかなくて、そこで幸せになるしかないのなら、最高じゃないか。自由があるということは、幸福が強制されないということだ。

 弁神論が嫌で、だからキリスト教も好みじゃなくて仏教がずっと気になっているのだが、それでも人間は幸福にしかなれないという理想のために弁神論的に思考している。

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