個人的な幸せを探るためのメモ

 この記事は真理とかを突き止めようとしたり時事についての意見を述べたりするためのものではなくて、ごく個人的に自分がなにを考えているのか探るための(記事ではなく)メモ。
 まず情念を文章にして脳から追い出す。残った理性だけでその文章を解析する。セルフカウンセリングとでも言うべきものだ。
 いままでもこういうことは無意識にしていたが、こうやって明文化してみるとなかなかいいなと思った。今後もやることになるかもしれない。


 ソクラテス・プラトン・アリストテレス、ギリシアの三大哲学者の誰もが「人間は幸福を目指す」と言っているし、具体的に研究してきた。アランは「幸福は義務」とすら言っている。
 自分もいろいろ悩んでるときは「幸せになりたい」と唱えてきた。自分の根本の欲を自覚するために。KICK BACKの歌詞のごとく。
 しかしここ数ヶ月間それすら不安定になってきた。自分は本当に幸せになりたいのか?

 「幸せになるには覚悟とか勇気がいる」、哲学書の中でたまにそういう話を知る。そのたびにぐらつく。哲学的に・思想的に反論することはできるけども、たしかに幸せになる気がなければ幸せにはなれないだろう。なれたとしてもそれは偶然でしかない。
 人間は動物だから欲があって幸せになろうとするけども、もっとも複雑な動物だからこそ、その欲を見失うときがある。あるいは、その欲を上回る恐れに襲われるときがある。その末路に自死がある。
 よくない人間をたくさん見てきたし、歴史を多少は知っているから、人間の欲深さは信じている。けれどもよくに真っ直ぐな人間というのはそれが過剰でなければある意味で真っ当な人間なのだろう。
 いま、自分が過剰なのか、それとも不足しているのか、なんとも言えない。誰も自分を見ないし、自分を見る自分の目は澱んでいる。

 そもそも欲深さとは相対的だ。無人島にいる者がベッドで寝たがるのと、現代日本にいる者がベッドで寝たがるのでは、もちろん違う。本人の境遇がマイナス…………不幸であればあるほど幸福…………プラスとの差が生まれる。
 ある者が−5だとしよう。そして+5の幸福を願う。彼/彼女は人並みの暮らしを望んでいるだけだ。だがその5の差は、±0の者が+5の幸福を願うこと、たとえば月収50万の暮らしを送りたがることと同じかもしれない。しかし当然、両者が5を+したところで同じ状態になるわけがない。
 私が人並みの暮らしを願うのは欲深いのかもしれない。そもそもどこまでの幸福を望んでいいのか、それが分からないと幸せになりたがることはできない。ゴールなしにマラソンをするようなものだ。

 幸福とは感じ方の問題である。しかし、なら手足の無い者に「感じ方の問題なんだからどんな公的扶助を受けられなくても我慢すべき」などと言える者がいるだろうか…………やはりある属性や境遇によって不幸せになりやすくなるのだ。
 その属性や境遇が私にはいくつかあって、それは取り除けないものが多い。障害とか家族とか。だからそれらのマイナスを取り除くのではなく、それを覆うようなプラスによって、つまり−5を−4、−3、−2、−1、0にするのではなく−5に+5を足して打ち消すようなことをしたい。それはやはり欲深なのだろうか。
 ロールズの正義論的にはよいかもしれないが、浸透してないから意味がない。私個人の頭に秘めてもこの思想は意味がない。私は支援を恵んでもらう立場なのだから。

 私はどれだけの幸福を望むことを許されるのか…………これからも分からない気がする。私はゴールがどこにあるか知らないので、360°に向かって走る。ひょっとしたらそのゴールはないかもしれないし、とっくに達成しているかもしれない。

 無知という目隠しをされた私には知り得ないことだ。

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