愛という影について

 愛の面白いところは、愛そのものは探してもどこにもないというところだ。愛は常に逆算される。言動と物品からチラッと見える。M・Hが言ったんだっけか、探そうとすると隠れてしまう。これは存在についての言及だったはずだが、愛もそうなのだ。

 たとえばだ。愛してると言われると、愛してると言うということは私を愛しているのだろうと考える。しかし、実際にはたぶらかすつもりなのかもしれないし、気の迷いかもしれない。花束を渡されても、デートに行ってもそうなのだ。愛しているならこういうことをするだろう、という言動はいくらでもあるのだが、愛しているからこそすること、それはなにもない。

 しかしそれがおもしろいところでもある。愛していると言ったところで愛してると相手に確信させることはできない。だから、愛してると何回も言うのだ。そして、そうすると、それが実際に恋愛関係になったりする。

 なぜ恋人という名称が必用なのかというと、それが相互の愛の証拠になるからだ。べつに、恋人という名称がなくても、お互いに言える、愛してると。しかし、確信を持つために、お互いに愛してると言う関係に名をつけるのだ。

 キングゲイナーというアニメがある。あのガンダムの監督が作った作品だ。それのOPの歌詞を引用したい。

愛と勇気は言葉 感じられれば力

 そう、愛というのは感じるものであって、愛してるという言葉は媒体でしかない。そして、その媒体を使うこと以外に、愛してるという感情を伝えることができない。だから、何回も言うべきだ。愛していると。愛しているという言葉自体は愛ではない。のだが、そういう媒体を、プレゼントでも、歩道の車道側を歩くということでも、なんでもいいのだが、とにかく媒体に頼るしかないのだ。

 自分が相手を愛していることは確信できる。その逆は分からない。分からないが、愛している気持ちを伝えることも、愛されようとすることもできる。そしてそれを強く、長く行うこと。それによって恋愛という信仰体は成り立つのだろう。

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