欲望の悲劇について

 幸福は単純に捉えます。欲求を満たすことです。この、欲求とはなにか、それが気になります。

 欲望には三種類あると思います。生理的なものと、社会的なものと、美的なもの。生理的なものは「食べたい」「暖かくしたい」みたいな本能です。社会的なものはたとえば承認欲求ですが、これももしかしたら本能です。人間が社会を形成するために、他人に認められたいという本能を抱くようになったかもしれません。美的なものは、半社会的です。つまり、壁画や土器を考えれば人間には美を欲する本能があると分かりますが、どのような美を欲するかはどのような文化を持つかによって変わります。美しさの価値観が国によって違うのはそういうことです。

 この三つの欲望を満たすことが、比重の違いはあれど、幸福ですが、どの欲望をどれくらい持つかは人間には決められません。人間には自由がないからです。あるとしても、ある程度は生得的だと、文化の教育も受けずにはいられませんから美についてもかなり強制的だと思うでしょう。

 また、欲望の強弱は時代と地域によって決まります。製糖技術が未熟な戦国時代でたくさんの甘いものを食べたがったら強欲かもしれませんが、今の日本ならそうでもないでしょう。つまり、別の時代や地域に生まれれば無欲かもしれなかった人が強欲と呼ばれることがある、ということです。

 ときに、欲望から離れたような人がいます。徳の高いお坊さんとか。しかし、欲望に駆り立てられた人が多数であるのを考えれば、彼らは異常者ですし、「欲を無くしたい欲」が異常に強かったのだとも言えます。

 この世の資源と人生のリソースは有限なので、欲しいものを手に入れるより欲しがることを減らした方がよさそうですが、まず無理でしょう。なぜなら、資本主義は、他人に欲しがらせることで成り立つからです。もし誰もが無欲に生きようとして自給自足の生活を始めれば、とうぜん、経済は崩壊します。もちろん、資本主義のサイクルの中で育てられたとくに欲深な人間には資本主義を崩せるか分かりません。

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