時空間は存在に必須か・カップケーキ説明

 世界が先にある、時空間が先にある、だからこそなにもかも存在できると言ったが、時空間は存在に必須なのだろうか。

 時はよく考えたら(すみません)なくてもいいが(確認できないし)、空間は必要だと思う。その空間とはなにか、三次元以外=この世界以外の空間もあるがどれなのか。

 私は空間をこう定義する。

 「1、なにかがなんらかの形でそこの一部か全体を占めることができるが、どれだけ占められても外枠=存在の概念そのものが歪まない存在」

 「2、存在を存在させる存在でありながら、存在そのものであるがゆえにどう存在するかを問えず、存在である以外の説明が不可能で、存在内=空間内=分かりやすく言うと世界の中の諸行無常とは違って形を変えないもの」

 カップケーキで説明しよう。

 中身がぎっしり詰まっているカップケーキの中にポンとチョコやマシュマロを発生させたとしたら、当然内側から中身あるいは生地、もしくは両方が外側へ押し出される。このとき、カップケーキの形は歪む。

 中が空洞になっているカップケーキの中に同じことをしても、カップケーキは歪まない。このカップケーキが存在そのものであり、中の空洞が空間であり、我々が暮らしている世界=諸行無常の世界=生成変化の世界である。

 ここでこう考えられる。

 なぜ中身がぎっしり詰まっているカップケーキではなく=存在が存在しているだけでなく、空洞があるのか=この世界はあるのか?

 私は空洞と言ったが、それは分かりやすいだろうと思って言っただけで、実際はぎっしりしている。あなたは空箱を見て、この箱の中には何もないと思うかもしれないが、私はどこかの記事ですべては存在すると言った。だから、空箱の中には「なにも存在しない場所(空間と一般には言うが、いま空間と言うと混乱すると思うので場所と言う)が存在する」。だから、世界は「存在する存在=空箱」と「存在しない存在(感知や想定はできる)=空箱の中」の二種類に占められていて、それはコインの裏表みたいなもので第三の種類は無くて、逆に言えばその二種類ですべてが占められているのである。

 ぎっしり詰まっているのであれば、チョコやマシュマロを発生させたとして=工芸品や妄想を作ったとして、なぜカップケーキの形は歪まないのか=存在自体に影響しないのか?

 発生と言ったが、これも違う。発生とは0から1が生まれることだが、実際にはこんなことはない。種は木になり、木が工芸品になり、捨てられればどこかで燃えて灰になる。だからこの世界に存在するものは一定の量でしかなくて、増えたり減ったりはしない。だから、カップケーキの生地の構成や形が変わるだけで、量は変わらない=存在が存在以上の大きさになることはないし存在未満に小さくなることもない。

 いやちょっと待て、カップケーキの生地や形が変わったらどこかでカップケーキじゃなくなるぞ、たとえばセメント製でまきびしの形をしていたらもうカップケーキじゃないだろ、と思うだろう。私もいまそう思った。自分で自分は何なに言っているんだろうと思った。

 だが、カップケーキにはケーキやクッキーのような同種のものがあるのに対して、存在にはない。なぜなら存在とは他のあらゆる名詞の上に立つからである。たとえばコーヒーには「苦い」「存在する」、筆箱には「筆記用具を入れるためのもの」「存在する」と説明できるのに対し、存在には「存在(存在という言葉そのものではなく概念)する」という一言で済む。それは、自分で自分を成り立たせるから=他のなにもかもをよりどころにせずに済む(第一原因のような)究極かつ唯一だからだ。

 では、もし世の中にカップケーキしか食べ物がなかったとしたら、「カップケーキ」は単に「食べ物」と呼ばれるだろうし、世の中のあらゆる食品店は「カップケーキ屋」ではなく「食べ物屋」になるだろう(区分けの=言葉の必要がないので)。そして、食べ物を売買する。黄色い食べ物や四角い食べ物があるだろう・・・だが「食べ物」であることは絶対に変わらない。それが存在そのものである。黄色いとか四角いとか付け加えられる=変えることができる部分が空間である。

 ただ、存在だけは、説明にも対象になれる。つまり、食べ物である食べ物=存在する存在と言うことができる。

 最後に振り返りというか1と2をもう一度説明しようかと思ったが、面倒なのでやめた。もし読みたい人がいればコメントしてください。自分自身、書きながら新しい考えが生まれて考えの変更や発展を迫られていたので何回も裏切るような文章になってしまいました。許してください。

 追記

 そもそもの存在について考えるのに夢中になって空間が必須なのかどれが空間なのか書き忘れてしまった。

 1、存在そのものに空間は必要か?

 これは言葉の問題である。存在する存在・・・は1=1と言っているのと同じで、「1=」の部分は要らない。ここで注意したいのは、存在そのものは言葉にできないということ。「存在(存在そのもの)とは存在である(ここに説明があり、説明できる余地=空間がある)」。ほら、空間が生まれてしまった。言おうとするから。「存在」としか言えない。

 2、存在そのものではない存在=生き物や物や言葉そのものに空間が必要か?

 もちろん。

 3、どの空間が必要?

 二次元=絵などの世界、三次元=我々の世界、言葉の世界、妄想の世界、いろいろ世界がある。存在の余地、ただ存在するのではくどう存在するか説明が付け加えられる余地が。べつにどれでもいい。また、ここに上下関係はない。

 存在そのものが存在そのものを存在させるために作った存在しかない世界

 この下に三次元の世界、そのさらに下に妄想の世界があると思うかもしれないが、そんなことはない。なぜなら、自分がいまどこにいるのか・・・三次元の世界にいるのか妄想の世界にいるのか分からないからである。ここで現象学が活きる。また、それを踏まえれば、実際のところ

 存在そのものが存在そのものを存在させるために作った存在しかない世界

 の下には

 未確定の世界

 厳密にいえば

 たぶん三次元の世界、たぶん妄想の世界

 などがあるのである。

 

 
 最後に、なにもない世界を想定できるか、問うてみた。

 私は、なにもない世界がある、その次元(二とか三ではない)にはなにもない世界が存在そのものの世界の下に存在する、と言おうか・・・

 追記

 存在そのものは指し示すことができない。指し示すと言うのは、言語にすることや思考にすることや感覚にすることである。つまり「あれだ」ということ。では私はずっとなにを言っているのかと言うと、「あれではない」と言っている。赤いボールと青いボールと緑色のボールがあったとして、緑色のボールがあると言わないで緑色のボールを指す方法は、赤色のボールと青色のボールではないと言うことである。つまり、「あれではない」をほとんど無限にやることで、最後に存在そのものしか残らないようにしているのである。

 存在は、自分の目で自分の目を見れないように、見るなら鏡を見るしかないように、見ることができない。感じることもできない。ただあるのである。というか、この際は言語が不要になる。

 存在そのものを指すことはできないが、指さないこと、存在の存在を前提にして生きることは可能で、しかしそう生きていると自覚したときには存在そのものは逃げてしまう。

 また、存在そのものを指す「存在そのもの」と、存在そのものを指すための「存在そのもの」、つまり「存」「在」「そ」「の」「も」「の」という文字とその組み合わせであり「SONZAISONOMO」という発音であるものは別である。

 また、存在そのものは考えても感じてもダメだけれど、人間は存在そのものを前提にして生きている。存在そのものはあらゆる存在を存在ならしめる。ラーメンをラーメンにならしめるものは具材とスープだが、ラーメンという存在は存在そのものによって成り立つ。ここで、人間はなにかが消えたと思うこともあるかもしれない、そう反論できる。でも厳密には、それは、移動したり他のものに姿を変えたり、という意味である。そして存在を前提するがゆえに、道路が突然消えるとか思わないで平穏に暮らせる。

 存在そのものに対する姿勢は「当然とする」ことに限る。当然と思うことではない。その人が存在そのものを当然としているかどうかは、存在そのもの以外について意識しているときに分かり、当然とするとは「存在そのものを意識しないが、存在を意識することによってその存在を成り立たせる存在そのものを前提とする」ということである。また、存在そのものという言葉は存在そのものではないのでそういう意味では存在そのものについて考えても存在そのものを前提にできるが、そこには存在が「意識の対象にできる」という矛盾を孕むため、意識を=思索を始めた段階で破綻する。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?