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Note/哲学への対し方について

 私はNoteで哲学関係の記事をよく書いています。書く際にどのような意図をしているのか。どのように読んでもらいたいのか、それを簡潔に説明しておきます。


 1、哲学について

 私は哲学を「それがなんであるか」という疑問の体系だと思っています。存在論はまさにそうで、認識論は存在論のための発展、言語学とか心理学は認識論の道具だと思っています。

 「そうであるべきか」が倫理学です。いまは人の性格や行動や規範にだけ適用されていますが、事物にも「無機物倫理学」として適用できると思います。その結果の例としては、「車椅子は倫理的だ」となります。ちなみに、僕にとって哲学の父はタレス(それも最近はエジプト神話を語ってるだけじゃね説が流行っているらしいのですが)で、ソクラテスは倫理学の父だと思います。「あるべきとはどういうことか」という問いは倫理を対象にする哲学です。

 なにかについて考える順番は、哲学では1が「それはどのようなものか」、2が「それはどうあるべきか」です。倫理学では1が「個人にとってどうあるべきか」、2が「万人にとってどうあるべきか」。

 私が人生をかけて見つけたい/作りたい哲学は「人はどうすれば幸せになれるか」です。私は自分で考えたものを含むあらゆる哲学に「それで、私は幸せになれるのだろうか?」と問うています。

 2、Noteについて

 私は記事を書くにあたって自己紹介をしません。バイアスをかけてしまいたくないからです。考えは、誰が言ったかではなく、何を言ったかで正しさが決まります。

 さまざまな記事はどれも完成系ではありません。メモの発展です。そして、良いことを思いついたから書くということだけではなく、書いたから良いことが思いつく、ということがあるので、書くこと自体が目的の半分です。さまざまな記事は議論の種になれるように緻密さより刺激を求めて書かれています。

 読む、ということは、考えを伴います。考えないで読むことはロボットでもできますし、ロボットの方が速さも記憶力も優秀です。考えながら読んでもらいたいと思います。

 おまけ、これからなにを書けばいいのか

・存在について
・認識について
・人間について
・幸福について
・自由について
・愛について
・正義について
・国家について

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