愛について・試論
・愛と美の違い
愛と美(今回は「好ましい」「よい」を意味する)は同じである。愛する対象は美しいし、美しいものは愛する対象になる。ただ、唯一違うのは、美しいと思うことは一方的なのに対して愛することは相互になる可能性がある=相手から愛されるかもしれないということである。絵が私を美しいと思わないのに対して。
愛が失われたから美しく見えないのか、美しく見えなくなったから愛が失われるのか、その順番は後者が正しい。まず美しいと思ってから愛する。
・愛と運命
人間存在について・試論で語ったが、ここでも言っておく。
よって、人が誰を愛するか・愛さないかは決まっている。
・相手の未知
誰を愛するにせよ相手について100%知ることはできない。よって、愛する相手はいつも「自分が思っている相手」になってしまう。そして、100%知っていたとしても、自分の理想やバイアスのため相手を歪めるだろう。そして、相手が不快な行動を起こしても、相手が嘘をついていない限り、裏切られたと思ってはいけない。自分が相手について無知だっただけだ。
・相手の代替可能性
ある人を愛するようになったとして、その理由が「顔がそこそこいい」「そこそこ優しい」「そこそこ稼いでいる」だとしたら、「顔がとてもいい」「かなり優しい」「すごく稼いでいる」人がいれば、そちらをより愛するようになるだろう。なのにそちらを探さないのは「そこそこでいいから=満足or妥協できるから」「たまたま近くにいたから」「たまたま仲良くなれたから」という理由であって、つまりたいていの愛は「相手への愛」と「相手と愛し合う容易さ」の計算の結果で関係に発展する。
・無償の/真実の愛
愛は相手に要求してはいけない。要求というのは、愛に条件を作るということである。つまり、「かわいいから好き」はかわいくなくなった瞬間に終わる愛であり、「その人がその人だから好き」はなにがあっても変わらない。
もちろん、現実的にそんな愛はない。ただ、相手が自分の8割とかを愛してくれるのならば、大事件が起きようと関係は続くのではないかと思う。
・親子愛
親が子を愛するのは「その子が私の子だから」という条件のためであるが、子が誰かの子であることはなにがあっても変わらないため、かなり真実の愛に近い。ただ、子からすると、自分が誰かの子であることは自分の努力で勝ち取った属性ではない=理不尽である。この理不尽に抗うために一人の人間として成長し、たとえ子じゃなくても出会えば愛していたと思われなければならない。
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