次の発表のための準備

一章

 あらゆるものには全体性と部分性がある。たとえば、机は、四本の脚と一枚の板が全体であり、脚それぞれと机が部分である。なぜこの二つが絶対にあるのかというと、我々は、二つ以上のものがあるとしなければ知覚(と、それに絶対に伴う思考)が不可能だからだ。われ思うゆえにわれあり、という言葉がまさにそれを表している。「思うわれ」がいる時点で「ゆえにあるわれ」もあるのだから、「われ思う」だけでもいいではないか。いや、それどころか、思わなければわれは存在できないのだから、「われ」だけで済むではないか。

 では、ある人が「われ、われ、われ」と言ってたとしよう。それは意味不明にしか思えないだろう。だから、「われ思う」の能動的われと「ゆえにわれあり」の受動的われ、この二つが最低でも必要なのだ。

 そして、この全体性を抽象性、部分性を具体性と言い換えてみよう。人間にもこの二種性がたくさんあるわけで、抽象的なものから挙げてみよう。なお、ここで言う抽象性とは、その言葉が包括できるものが多い、という意味である。

 存在するもの

 タンパク質や水分の集まり

 体を持つもの 

 脳や四肢や臓器やこころを持つもの

 田中太郎(仮)

 今日の、職場で働いている田中太郎

 地球が生まれてからなんとか時間、Aちゃんが斜陽を読んでからなんとか時間、BくんがCくんを殴ってからなんとか時間、さらに、この黒板からはなんとかメートル、あの国からはなんとかキロメートル、火星からなんとかキロメートル、そんな時間が経っている・位置している田中太郎(仮)

 こんな感じだ。どれも同じ対象を指しているのだが、なぜか私たちは他人に特定の見方をする。人がタンパク質や水分の集まりであることは分かっているのだが、心底そうは思えない。また、理屈としては昨日好感を抱いていた相手と今日この瞬間に話している相手は別なのだが同じだと思う。

 もっとロマンチックに言おうか。空は綺麗だ。空に綺麗なんてことはない、綺麗とはなにか?知覚は正しいのか?いくらでも疑える。でも、空はやっぱり綺麗だ。それが事実だ。
 もっと俗に言おうか。私たちが議論をして、「世界は存在しない」とか「時間は存在しない」とかの結論を出したとしよう。でも、あるようにふるまうし、それで生活が成り立つ。

 このように考察することで、現実が見える。現実とは、たとえばVRゴーグルを外したときに移る世界である。哲学とは(もしかしたら学問とは)、VRゴーグルを被って現実から離れることで、現実を良くできるようななにかを探す仕事だと思うし、そうであってほしい。だが、現実を忘れてはいけない。

 余談

 ゼノンが「時間は無い」と言ったとき、ディオゲネスが歩き回ってみせた、というエピソードは、おそらく話している世界の違いだと思われる。ゼノンは哲学を、ディオゲネスは(哲学を経た上での)現実を主張していた。

 抽象化は管理社会と相性がいい。たとえば軍隊では、田中太郎(仮)は「歩兵」になる。だが、歩兵などどこにもいない。彼が死んだとき、死者数1と記録される。だが、死者などいない。死んだのは田中太郎(仮)なのだが、個人を兵隊として抽象化することで管理が容易になるのだ。これは、労働者、学生と言い換えてもいい。また、差別とは、他人を「白人」「黒人」「アジア人」などと抽象化することである。

 二章

 この現実は「信仰体」の集まりである。信仰体には4つの条件がある。

1,そうではないが、そうだと自動的に信じられることで、実際にそうなる。
2,傍から見るとある人が「信じる」のだが、主観からすると「いつのまにか信じていた」。
3,疑われてもなお残る常識。
4,人生に方向性を付与したり、人生を縛ったりする。

 信仰体の中でもっとも大きいものは国家だろう。国家の実在を証明できるものは無い。国旗、国歌、六法全書、すべて「国があるなら、それもあるだろうが……」と、実在を前提とするものしか持ち出すことができない。だから、国家というものは、ないのかもしれない。

 そうではないが、

疑いの余地があるが、と言ってもいいかもしれない。

 に、当たる部分だ。そして、国家というものは、自動的に信じられるのである。国家があると信じようと思って信じる人なんていない。

そうだと自動的に信じられることで、

つまり、もう現状の事実である。

 そして、現実の世界で、私たちは国家を実在していると信じているし、そのことが実在の理由なのである。循環論法だが、だからこそ破綻しない。というか、論理自体のまったくの間違いがあっても、ほころびはないし、現実に、国家はあるのだ。

実際にそうなる。

というか、あらゆる現在の信仰体は「そうなっていた」。

 また、2は1と被るところは多い。これは信じるということについての話なのだが、「信じようと思って信じる」なんてことはできない。信じるという行為は行為者にとって「信じた」「信じていた」ということにしかならない。信じるか信じないか、その選択肢はない。あったとしたら、その選択肢が選択肢として認識されている時点で、信じることはできないだろう。

3,疑われてもなお残る常識。

新しい常識、と言ってもいいかもしれない。

 たとえば、基本的に、宗教は常識だったが、いまでは科学が常識の主導権を握っている。主導権と言うのは、私が科学の正しさを妄信しているからだ。「宗教的である」が昔はよい文句だった。いまでは「科学的である」がよい文句だ。科学は最新の常識、たくさんの試練を乗り越えた常識であり、これは、みんな根拠はよく分かっていないが信じているので、信仰体だ。

4,人生に方向性を付与したり、人生を縛ったりする。

 これはもっとも実践的で簡単な話である。友人と話すとき、傍から見ると、まるで話しているかのような独り言をお互いに繰り返し続けている可能性がある、と言うことを否めない。だが、それでも私と友人は話していることを確信しているし、それはつまり相手が確信しているということも確信している。根拠はないが。その無根拠さ、唐突さ、無機質さが現実であり、「セックスと信仰」で述べた温かさでもある。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?