知ることについて
人間はあらゆるものをあらゆる角度で知ること=完全に知ることはできない。
では、知ることができるのかできないのかも知ることができないかもしれない。
しかし、そうやって疑い続けていたらいずれ餓死するかもしれない。餓死するかどうかも知ることはできないが、餓死がやばいことは事実だ。やばくない餓死は矛盾するからやばくない餓死があるかは疑えない。そうであった場合(餓死した場合)のデメリットがデカいからこの思索はやめよう。
だから、「どうあるか」ではなく「どうあるべきか」について、つまり知覚に対して倫理的に考えよう。
それは、「どうあれば十分か」ということと同じ意味で、この「十分」は主観で決めていいので分かる。もちろん、無意識では十分なんて思っていないかもしれないが、無意識は無意識であるがゆえに主体として機能できないので、つまり「知ろうとする」のではなく「知らされる」たけの存在なので、ここでは議論に参加させない。
「十分」はメリットとデメリットに分けられる」
筆箱からは「物を入れられる」「怪物が出てこない」などと知っていればそれでいい。
また、「知ることを知ること」にも十分があり、それは「知っている気分」である。というかそれ以上はできないし、それ未満では生活に支障をきたす。
その気分は人それぞれである。
追記
人間の周りには溜め息とか椅子の数とか広告の色とかいくらでも情報があるのになぜそれをすべて知識として覚えないのか。それが幸せにつながる情報もしくはそれを覚えれば不幸せを回避できる情報だけを覚えようとするからである。
私が架空の漫画について語れるのは、日本語を知っているからである。日本語を支えているのは、支えているものを支えているのは、こうして考えると物事にはそれを包摂する上位存在がたくさんあるのだと分かる(存在連間)。最後に、存在そのものが現れる。
知るべきでないこと、はない。知るべきか知るべきでないかは知るまで分からない。あるのは、なぜ知るべきでないと言われるような知識なのか、ということ。
人間が歴史から学ばないのは、歴史を有益だと思わなければ単なる情報に貶めてしまうからであり、そしてそもそも有益の意味を知っていないからである。
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