労働(Labor)という嘘

 私は生きたい。生きるために食いたい。食うために仕事したい。労働するためにアラームをセットして、朝7時に起きて、顔を洗って、髭と鼻毛を剃って、シャツを着て……………………

 こうした連綿の動きを生活という。その生活の中から食べることを食事、働くことを労働、そう切り取る。しかし本当はどこで切り取ることもできないのだ。

 食わねば労働はできないし、労働をしなければ遊べないし、ある行動はある行動を必要としつつある行動に必要とされる。なにかを永久に欠いてしまえば…………それが日々の散歩程度ならともかく、趣味とかの広い範囲で言えば…………人生は崩壊する。楽しくなければ生きるのに値しない。

 だが、行動にも優先順位がある。私たちの根源的な欲求ほど欠いてはならない。生きる意欲を失えば趣味も労働もなにもない。先端の欲求、趣味とかは欠いてもすぐに致命的な問題にはならない(一定期間を超えて失い続けていればそれも楽しくないから生きるのに値しなくなるが)。

 一本の毛糸を半分のところで切ったとする。それをさらに半分のところで切って、切って、切って…………それでもまだ毛糸だ。人生も、それをどこで切っても"生きる"ということである。本来、労働も趣味もない。便利ということで区切りとして作られた言葉であり、労働も趣味も自然界には存在しない、人間の造語である。

 その中でも労働、働く(Work)のではない方はもっとも忌々しい。人間を"生きる"主体ではなく、使用者が生きるための道具に貶めるものだ。それをあたりまえのように使いやがって…………

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