性善説の支持

 大学の文芸誌に載せる用の内容で、別に記事を書いているが、数少ないNote読者のために、荒っぽいが投稿する。
 
 私は人間に良心があること、そしてその良心が常識を求めることを主張する。良心とはなにか、という話はあまりしない。それが分かったところで、良心があるかないかには関係がないからだ。なぜそう言い切れるのかと言うと、我々の行動が人間の良心を前提としているからだ。この世には様々な表現方法があるが、言語は高等なものではない。ボディランゲージや絵の後に生まれたもので、そしてそれらも「行動」という至高の表現方法には劣る。言語もボディランゲージも絵も行動の一つであり、そのような、すべての上に立つということが、至高であることの理由である。

 言い換えると、我々は常に行動している。それはなにかを見るとか触るということではない。生きるということだ。なにも見なくても触らなくても行動している。そしてその行動自体が主張を作り、表現方法の一つなのだと分かる。そしてその生きるという行動、生きるという主張が、とある言葉、とある主張と矛盾した場合、その競合で残るのは前者である。もし後者が残るようなことがあれば自殺していなければおかしい。

 我々の生が良心を前提とする。そして良心は常識を求める。今回は「話し合い」に視点を置いて考える。

 また、有効な疑問と無効な疑問というものがある。前者は、「善とはなにか、そもそもあるのかないのか」ということ、後者は、「静岡の白熊三頭が氷をなめている間に、ブラジルにいるあらゆるスペイン人は裸か?」というような疑問だ。後者は疑問として成り立つし、真偽もあるが、確かめることが可能だが、実質的に無効である。こんなことは考えてもしょうがない。逆に言えば、考える時点で、疑問が成り立つ時点でなんらかの価値は前提にされているのだ。

 話し合いの成立について

 私がとある人と話し合いをする。音の出し合いはしない。音の出し合いではあるのだが、それは記号の書き合いでもいいのから、表現方法はどうでもいい。重要なのは、なぜ話し合いであって音の出し合いではなのかということだ。音の出し合いでも間違いではなさそうだ。

 この理由は、一言で言ってしまえば、「お互いが話し合いであることを確信する」からだ。これは否定できない。否定した場合、お互いが話し合いではないかもしれないと、つまり自らの発言というのは、ただの音に過ぎず、相手の発言も、ただの音に過ぎないかもしれない、という不安を抱かずにはいられなくなる。しかしそのまま話し合いを続行することは不可能だ。

 話し合いは、お互いに、相手の発言が発言であると……ただの音ではないと確信しあうことで成り立つ。

 発言が発言として成り立つのには、常識が欠かせない。そして常識は、良心が作るものだ。良心は備え付けである。

 もう話すのが疲れた。

 善の単独成立性について

 善(良心)と悪は相対関係にない。善でないことは悪であることではないし、悪でないことは善ではない。善でないと言うことはできない……あんまり善ではないとか、そういうことは言えるが。

 私は、25人を殺すような人を、26人は殺してないんだからそれくらいは善人だと言う。これは言える。善人にはいてほしいと思うからだ。悪が無くても善と言える。

 しかし、「優れた医者として生涯25人を救った人がいる。しかし、この人は政治家になっていれば、医療制度から変えて、25人は救わなかったかもしれないが、10人救うような凡庸な医者を10人作って、100人を結果的に救っただろう。その可能性があったのにもかかわらず、医者になることを選んだ時点で、結局は医者として他人を救うことにしか興味がなく、手段を択ばずに他人を救うような善人ではなく、25人しか救わない悪人だった」とは口が裂けても言えない。理屈上は言えるが、言えない。これでもこの人は善人だ。

 悪がなかろうと善は言える。

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