全体性と死/唯一性と死

 半年以上前?の記事で、人間は生まれ変わり続ける存在だと言った。哲学を本格的に勉強したりハイデガー入門を読んだりしたおかげで”哲学力”みたいなものがかなり上がったので、その記事を再構成しようと思う。なお、ここで言う人間とはあらゆる生き物や物体や事象や概念(存在そのものは除く)のことを指している。ただ人間中心的な好みで人間と言っているだけで。

 ↑これは、一応このシリーズの記事です。


 全体性と死

 私の全体は、私についてのあらゆる説明とも言える。こういうところで生まれて、こういうところでなにをして、みたいな過去についての説明+いまどこにいてなにをしているか、のような現在の説明。そしてこの説明は限りなく細かくないといけない。いまの時間で言うと、それは西暦2024年4月13日11時13分なんとか秒、それだけでなく、小数点以下の細かい数字と、地球が誕生してから~隣の家のなんとかさんが煮物を作り始めてから~みたいな質的にも量的にも細かい説明が必要になる。どれだけ細かくてもその説明は私の一部を説明しているわけで、その一部がほんの0.0000001%であっても、欠かしてしまえば私の存在は9.9999999%になってしまう。それでも9.9999999%の存在は生まれるが、存在には全体性があるがゆえに(たとえば机は四つの脚と一つの板を全体とすることで机になる)私の9.9999999%を全体=100%とする存在と私の100%=私の二者が生まれてしまう(机から板を外したら机(五分の一)であると同時に四つの脚(100%)となる)。

 その一方で、私は変化する。時間だけでも変化するし、来てる服とか得ている知識とかも違ってくる。私についてのあらゆる説明はこの瞬間(0.00000……1秒、限りなく細かい)の説明であり、次の瞬間にいるのは誰だろう?次の瞬間には新しい全体が存在する(0.00000……2秒の)。ゆえに、人間は新たに生まれ続ける存在、死に続ける存在、しかし元の面影を残す生まれ変わりの存在である。その生まれ変わりは変化によって行われるので、人間は時間に拠っている。ここで、0.000001秒の違いは大したことはないと思うかもしれない。では、私は生まれる場所と時間と性別と体型と名前と容姿と仕事などなどが違うだけで綾瀬はるかさんとか新垣結衣さんとかと全く同じ存在であると言うのと、0.000001秒が違うだけと言うことに、どれくらいの違いがあるのだろうか。

 唯一、生まれ変わらないのは存在そのものである。存在についてのあらゆる説明=どう存在するかの説明は不可能、というか、存在とは存在であるとしか言えないので、説明する余地がない=どう存在するかとかはない。そして存在そのものは時間に拠らない。



 唯一性と死

 宇宙は広がり続けるらしい。広がりとは可能性でもある。公園に大きな広場があればサッカーでもバドミントンでもできる。つまり、宇宙には無限の試行があるのだろうか?であれば、この地球がまったく同じように再現されることもあるのだろうか?そうであれば数兆年後にも私はいるのか?いや、宇宙は終わるらしいから無限ではない。しかし存在が存在し続けるのなら、また新しい宇宙も生まれるのかもしれない。そこでまったく同じ再現をされたら私の唯一性は?いや、大丈夫だ。空間的にまったく同じでも、私が拠り所にする時間的に違う。いまの宇宙を宇宙Aとするなら、新しい宇宙は宇宙Bだ。AにいるかBにいるかで違う=唯一性がある。

 しかし、こうも考えられる。私がいる宇宙は宇宙Bではないか?と。私は時間に拠っているが、時計の針はともかく時間はたしかめることができない(それに時計の針でさえ一日に二回も同じように動く=空間的に同じになってしまう)。時間をたしかめられない以上、私の存在は不確かである。だから時間をなくしてしまおう。時間がなくても、あるような記憶が私の脳(空間の一部)にあるだけと言えば矛盾しない(むしろ時間が存在すると言う方が難しいし不可能)。これで人間は時間に拠らなくなった。

 人間の存在とは写真である。空間の切り取りであり、そこに時間はない。その写真を繋げたら動いているように見えるが(パラパラ漫画のように)、動いてはいない。つまり、人間が真に唯一である場合、死なない。立つ人=生きている人の写真と横たわる人=死んでいる人の写真があるだけで、立っていた人が死んだわけではない。

 追記

 存在は可能性を全体に含まない。つまり、私の存在を「今は学生だが新聞記者になるかもしれないしフリーターになるかもしれない存在」などと説明はできない。時間=変化がないからである。

 また、科学技術が進歩すれば自分がA宇宙にいるのかB宇宙にいるのか分かるようになるかもしれない。

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